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鏑木ヤエの場合・3(2/2)
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「ヤエがそれを答えられね―とでも思いました?」
「舐めんじゃねーですよ」、と、女は鼻を鳴らした。
引き寄せた顔には、いつだってキスをすることだってできるし、
勢いのままに頭をぶつけることだってできた。けれど、そのどちらもをしない。
「意味を理解せずに、ただただ流されるだけじゃあ、
いずれその理解できなかった意味に取って食われることになりますよ。
……まあ、”こんなとこ”で話したって、きっと忘れちまうんでしょうけど。
だから、ヤエは忘れちまうだろうここで話をしています。
きみは、それに食われてもいいってんですか?」
小さい声は、舐めちゃいないよ、なんて言葉を形作る。男はそれ位は理解していた。
なぜならば、“彼女は行動を起こしている事を”認識しているからだ。
さっきまでの男なら“まるで思考を挟まずに”別に構わない、そう述べていただろう。
閉口しているわけでもない口からは、言語は齎されない。暫しの間。
やがて鼻で笑った。
「じゃあしたいことしてなよ」
「きみはどうすんですか」
「……したいことを、するさ」
「きみはできんですか」
男はそれに答えられなかった。したいことを答えられなかった時と同じように。
「……、そろそろ行こうか」
そうして、視線を反らし。どこか遠くの、ずっと遠くの空を視線などやっていないかのように、眺めてそう呟いた。
「ほうら」
女は、意地の悪い声を出してみせて、緩く結われていた三つ編みを解く。
モコモコの、羊のような毛量の多い髪に埋もれながら、不敵に口元だけは笑ってみせる。
「……しょうがねーんですよ、きみは。
そのうちきっと、全部忘れちまったきみも、同じ『選択肢』に突き当たりますよ。
……今のうちに、ようく考えておくことをおすすめしましょう。
それから、ヤエは答えられるので教えておきますけど」
笑う。女は、髪をひとまとめに結い直し、首を左右に小さく振って。
「侵略ですよ。蒙きを啓く。――ヤエの目的は、思想の侵略行為にほかならない」
視線の中のどこにも遠い空など存在していなかった男のそれは、
緩やかに女の笑みを映して。男の口元には、薄い笑みを彩った。
「――やってみなよ」
それは自分さえも含めた、許容。
だが、些かの“彼自身の意思。或いは、反抗。”
それが本当に含まれているか等、男自身ではなく、女にとってしか関係しないそれ。
曰く“やれるものならやってみろ。”
「ええ、やってみますよ。”やらなければ、何事も為されねー” ですからね。
なにもやらねーきみより、ずっとずっと意味のあることでしょう」
……いつものように。なんでもないように笑って、女は底の厚いスニーカーで歩き始める。
「手始めに――」
「きみの思想を、犯しましょう」
笑った。
両手を頭の後ろに乗せた男は、その後ろを歩く。
この保持されない記憶は価値をなさない。それが二人の結論だったはずだ。
だが、どちらを取ろうが、変化されないと論じた男にとって、その価値すら不変なのだとしたら。
仮にその価値を、男が認めたのだとしたら。
それは決して、“もしも”の話に過ぎない。
「なら俺は――」
「君の侵略に、笑おうか」
笑った。
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