荒廃したハザマの大地を、一人の男が歩いている。
ゆるく結った白髪に、装飾のない黒い簪を二本差しした痩せた男。その後ろを、巨大な蛸がついてくる。触手を使って立ち上がれば人の背丈を超えそうな大きさのそれは、黄色に青の斑点を散らした鮮やかな表皮をうねらせながら、地面を滑るようにゆっくり這って進んでいる。
「くららちゃん〜、ぼく疲れちゃったよお……一休みしようよぉ……」
男が立ち止まり、情けない声を上げて蛸を振り返る。くらら、と呼ばれた蛸は男の言葉を無視して横を通り過ぎ、そのまま進んでいく。
「ふええ、もぉ歩けないよお……」
ぐすぐすと愚痴をこねながらも、男も蛸の後を追って歩き始めた。が、覚束ない足取りが地面の凹凸に引っ掛かり、つんのめって前に倒れる――と、蛸が素早く伸ばした触手が男の体を抱き止めた。
岩や細かい亀裂のある地面で転べば、僅かなりとも傷を負うことは免れないだろう。血を流すことを極度に恐れる男への気遣いか、単に同行者が負傷すると面倒だと思っただけなのかは定かではない。蛸だから。
「うう……くららちゃんやさしい……」
男は都合よく好意的に受け取ったようで、自分の体を支える触手をだらしない表情でぎゅ、と抱き締めた。
ベチィッッ
「いだァッ!!?」
すかさず飛んできた第二の触手が男の頬を張った。小気味いい音が周囲に響く。
男は頬を押さえて涙目で蛸を見つめる。
「ひどい……DVだよぉ……」
ビタァンッッ
「ぉぶッッ」
すかさず反対側の頬にも触手ビンタが飛んだ。
お前は家族じゃないから家庭内暴力(domestic violence)には当てはまらない、と言いたいのかどうかは定かではない。蛸だから。
そうやって往復ビンタを食らわせている間にも、男の体を支える触手は動かない。
ただ重そうな頭を少し傾けて、巨大な頭足類は横長の瞳孔でちらりと男を見た。
「……わかったよお、歩くよお……
藻噛くんと宇佐くん、探さないとだもんね」
頷いて、男は触手を支えに立ち上がり、再び歩き始める。
創峰大学第二学部海洋生物学専攻、斑目研究室。
その主である斑目水緒は、間違いなくイバラシティの住人である。
そして彼は。
この荒廃した世界に来てから姿の見えない生徒、藻噛叢馬と宇佐秋雨の行方を探している。
藻噛叢馬の異能は把握している。彼ならば多少は異能を使って身を守れるだろうし、体力も胆力もある。そう簡単にはやられないだろう。
宇佐秋雨については、異能の有無すら聞いていない。しかし、クロスローズによると、どうやらここに来てはいるらしい。ならば異能は持っているのだろうが、その異能が身を守るのに役立つものなのかは、わからない。
どちらと先に合流するべきだろう、と考える。が、この状況では連絡がついた方から合流した方が良さそうだ。
とりあえず、どちらにもメッセージを送っておくことにした。『Cross+Rose』に慣れるのに手間取ってしまったが、二人ともまだ無事でいてくれるだろうか。
「秋雨くんはさ。困ってても、自分から助けを求められないタイプだと思うんだよね。
まあ、ぼくは戦えないから、くららちゃんに守ってもらうことになるんだけど」
ちらりと蛸を見る。蛸は男の視線を気にする様子もなく、するすると後をついてくる。
くらら。
斑目水緒の研究室で飼われているメスのヒョウモンダコ。
研究室で一番大きな水槽を与えられた小さな美しい蛸は、今はその水槽でも入りきらない大きさに膨れ上がっている。
戦闘能力の一切ない斑目にとって、くららと合流できたことは天の助けと呼ぶべきだろう。巨大化していても、斑紋のパターンが同じだったので一目でくららだとわかった。
「いやあ、持つべきものは頼りになるくららちゃんだねえ。……アッやめてぶたないで」
撫でようとくららの頭部に手を伸ばして、視界の端にスッと持ち上がった触手が見えて慌てて離れた。
「……藻噛くんも、秋雨くんも。他の皆も」
ぽつりと呟く。
「向こうとは違う姿、なのかな」
くららは答えない。蛸は答える舌を持たない。
「もし。ぼくの大切な誰かが、この世界を侵略しようとしているものだったとしたら」
一人の大人として。
たくさんの教え子を持つ、大学の教授として。
――イバラシティの住人として。
「ぼくは、どうするべきなんだろうね」
答えてくれるものはいない。
答えのないまま、決めれらないまま。
一人と一匹はゆっくりとハザマの地を進んでいく。