「しかし、随分と唐突に来られましたね」

ティーチェが紅茶を入れる様子を見守りながら、闇豹は視線を横に向けた。
紳士そうな顔をした男が、カウンター席に腰かけている。
害の無い姿をしているものの、雰囲気はどこか歪なその相手は、


「おとさん、紅茶いれたのですの！」


触手娘の父親であった。
ふんすと意気込んで紅茶を差し出した娘を見てから、男はカップを手に取る。
軽く息を吹きかけ、一口。それを見守るティーチェは、角がせわしなく動いていた。
出来る事がたくさん増えて、どこから報告したらよいか分からないのだろう。
陸に来て学んだこと、彼女が感じた事は、今語るには長すぎるから。

男はゆっくりと紅茶を味わうと、軽く頷く。


「流石に店主ほどではないが、上手く淹れてあるな。
　前は熱源を見るとすぐに後ずさりしていたが……火の扱いには慣れたかね？」

「お料理したり、大きい火を見たりするは平気になったのよ！
　あとね、溶岩の近く行くも怖くなくなるました。入っても平気だけど、気持ちよくは無いのです」


これは自分の種族的な問題かしらと、ティーチェは首を傾げた。
多分種族の問題だと思うよと、彼女の疑問に答えながら闇豹が補足する。


「火炎や高熱に対する恐怖心というのは、ほぼ無くなったようですよぉ。
　砂漠などの悪環境下でどう過ごすべきか等は、自分で学んでましたしね。
　切っ掛けを掴むと、そこから芋づる式に理解する子なので教えるのもそう苦労はしませんでしたしぃ」


定時連絡でも何度か言いましたけど、と結ぶ。
男は深海のような底知れぬ瞳で、辺りをぐるりと見た。
思考するように己の娘に視線を留めて、その先、ずっと奥を覗き込むようにしている。
任務をこなせど、最終的な判断は全てこの存在にかかってしまう事を踏まえ、闇豹は口を閉じていた。
まだ修行が足りないと言われれば、話を詰めて従うしかないだろうし、
これは娘に望んだ修行ではないと言われたら、監督責任を負うことになるだろう。
存在の大きく異なる者とのやりとりは、いつだって緊張を伴っている。


(…何を見ているのだろう、この人は…)


男もティーチェも、彼らは言わば海神の一族になるらしい。
何処の世界を司るのかは、正直把握しきれない。言語の解読が難しかったからだ。
ただ、広い世界を視ているというのは理解できた。…それだけ、だが。


しばらくの奇妙な沈黙が過ぎると、男は紅茶を飲み干した。
ペーパータオルで口元を押さえ、薄く笑みを浮かべる。


「ティーチェ、一緒に散歩をしよう。
　メルンテーゼの…そうだな、牛がいたという村を、案内してくれないか？」

「……！　うん、お散歩しましょ！案内ね、したいところいっぱいある！」


表情をぱぁっと膨らませるティーチェに、男は散歩の支度をしておいでと背中を押した。
大きく頷いて彼女がその場を離れると、男の眼が闇豹を向く。

顔には出さなかったものの、闇豹は冷汗をかいていた。


『そう硬くならずとも良いよ、女王蜂よ。
　この度の依頼は、娘にとって非常に貴重な経験となるものであった。
　完全とまではいかないが、君はよくやってくれた。感謝している』


男が声に出したのは、人のものではなかった。
魔神の言葉だ。メルンテーゼに来る前の闇豹では、欠片も理解できなかっただろう。


『お褒めに預かり光栄ですわ。雷でも落されたらどうしようかと』

『随分と我らの言葉を理解するようになった。それも人の進歩というものかな』

『必要だと感じたので、覚えたまでです。
　この地で知り合った友人の教えが巧かったのもありますが…』

『助かるよ。こちらの言葉の方が、喋るのが楽でね。
　…依頼の完了は、娘と散歩をしてから正式に決めさせてもらいたい。
　それから、君へ渡す対価についても、話がしたくてね。いい加減、目安は決まっただろう？
　
　私に何を望むかね、人の子よ』


ずず、と重い物が床を擦る音が響く。
男の足元に、見えない何かがあるのだろう。きっと、彼の本体が漏れているのだ。
闇豹からすれば、空気が生暖かく淀んだように思える。

対価。どこまで報酬を望むべきか。
話が転がり込んできた当時は、本当に何を報酬として要求するか悩んでしまい、保留にさせてもらった。
勝手に決められても良かったが、今は………。


『……報酬のお話ですが、その。
　貴方はわだつみなる一族の御一人、ですよね。
　私が今から言う事は、もしかすると管轄外かも知れないのですけど。
　私の寿命を、老いる速度を、伸ばす事は可能でしょうか』


闇豹の言葉を聞くと、男の表情がにわかに変わった。
酷く驚いたように眼を開き、眉をひそめる。


『…不老不死を望むというわけか？』

『平たく言ってしまえば、そうなります。
　……私事ではありますが、この地にて、伴侶を見つけました。
　相手は闇の化身で、寿命も貴方がたに近い。存在として、種族として、私と相手には大きな壁があるのです。
　出来れば、看取って欲しくない。長い時間を相手と共に過ごしたい。
　私は人として、とても我が侭な願いを持ってしまったのです』


小さく呼吸を置き、闇豹は相手の眼を見つめた。
別のところで引きずられていきそうな、深い、深い、深い……得体のしれぬ、水の底の色。
何かを掻き乱されそうになるのを、必死に抑え込む。


『此度の任務報酬として、釣りあうかはどうか横へ置いてください。
　………人間を捨てる覚悟はあります』

『……………………』


男は黙り込んでしまった。
ただ、出来ないと突っぱねる訳でも、ほくそ笑むわけでも無い。
目の前にいる存在が話す言葉を、何度もなぞっているように見えた。


『不老不死にするのは、簡単だ。報酬とするなら、安いように思える。我々にとって、人を別種へと堕とすだけだからな。
　しかし、そこから人間へ戻すことは出来ない。外からの力で何度も転生していくのは、魂を壊すことになる』

『本当に人間を辞めるのか？』

『今までの己を"捨てる"事になる。記憶の話では無い。
　君たちの言葉で言う、概念や尊厳の話だ。賜った種族を捨てる事になるんだぞ？
　その先に何があっても、私は責任は取らない。"何があっても"だ』


馬鹿げていると言いたげな男に、今度は闇豹が面食らってしまった。
後戻りが出来ない事は予想していたが、ここまで言われるとはまったく考えていなかったのだ。
呆気にとられてしまった闇豹は、すぐに答えを返せなかった。

すると、散歩の準備を終えたティーチェが二人の元まで戻って来る。
どういう話をしていたの？くらいの、軽い表情だった。


「おとさん、お散歩の準備できましたの」

「…そうか。じゃあ、案内してもらおうかな」


男はゆっくりと立ち上がる。
周囲を漂っていた淀んだ空気はフッと薄れ、息苦しさも消えた。


「女王蜂よ、話は後で詰めよう。小一時間ほど、娘と観光をしてくるつもりだ。
　決断というものは、"やっぱり無しで"が効かない。ようく、吟味する事だ」


そう念を押すと、男はティーチェの手を取った。
はしゃぐティーチェを軽く窘めながら、黒い扉を開く。
闇豹は二人を見送るように立ち上がって、その背中に言葉を投げかけた。


「後悔なんて、ずっと前に置いて来ましたよ。……気を付けて行って来てね、ティーチェ」

「うん！闇ちゃ、ちょっと行ってくるね！」


大きく手を振るティーチェを笑って見送り、扉が閉まると、闇豹は深く息を吐いた。
相手に敵意が無くとも、どうも身構えてしまう。きっとこれは、本能的な物なのだ。



ティーチェは、散歩をしながら父を見上げた。
地上で覚えた言葉や文化、散歩をしに来た村にどういうものが存在するのを説明しながら。
父の瞳は深海の色をしていた。ティーチェにとっては、安心できる優しい色だ。


「おとさん、あのね、チュチュね」

「おうち帰って少ししたら、他の世界で旅をしてみたいの」

「ペットもね、飼ってみたい。自分でお世話をして、育ててみたいのです」


知りたい事がたくさん増えましたと語る娘に、男は空を見上げた。
海とは違う青色が、広がっている。


「怪我をするかもしれないぞ？
　この土地で負った様な傷など、足元にも及ばないような」

「しないように、怪我をしても少しで済むようにしますから！
　前は怪我するのも、戦うのも嫌でしたけど、今はそこまでじゃ無いですの」


ダメ？とねだるティーチェに、男は視線を少し反らした。
思ったよりもずっと、ずいぶんと活動的になっていた。
嬉しい誤算ではあるものの、囲いすぎても力を腐らせるだけだと、己に言い聞かす。
いつかは、自分の能力を継いでもらわねばならないのだ。
例え知識を継げても、経験だけは分け与える事が出来ない。


「…そうだな。わだつみの海へ戻って、マナの補給をしたらにしよう。
　あちらでやる事も増えているのだからな、ティーチェには」

「はーい！」





＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊・＊




二人が散歩から戻った後、闇豹はティーチェの父としばらく話し込んだ。
認識の違いを埋めていくのに時間がかかったものの、どうにかすれ違いをなくした。
いくつかの条件付けはされたが、彼女にとっては決して悪いものではなかった。

その場で交わした契約書の最後に、契約の打消しは出来ないと書かれていた。
どんな心変わりが起きても、条件を揃えたが最後、闇豹は人間を捨てる事になる。

悲しみや憂いは、無い。覚えても、彼が取り除いてくれるだろう。


小さな進展があった日から、しばらく。

闇豹の手のひらに、銀色に光る小さな鍵があった。
それを軽く握りしめ、宙を仰ぐ。別に、何かに思いを馳せているわけでは無いのだ。

この鍵には特別なまじないすらかかっていないけれど。
多分、渡す相手には喜んでもらえる気がする。

小さな鍵は、いわゆる合鍵という物である。
開錠するのは、家の扉。異次元のはざまにあるような家ではない。
ごく一般的な世界にある、少しだけ特殊な家の錠を開くための、鍵。


「……これだけじゃ、味気ないかなぁ」


さっきからこの鍵とにらめっこしているせいだろうか。
握ったり開いたりを繰り返す手のひらに、薄く鍵の痕がついていた。

言わずもがな、これは闇豹の家の合鍵だ。

渡す相手はもちろん、恋人であるカゲ。いわば、この鍵は贈り物だった。
これを渡そうと決心した理由はとても簡単なもので、同棲の話をしたからである。
単純な切っ掛けだったからこそ、ここまで踏み切った。


「えぇっと、んー、キーホルダーあったっけ」


陰を自由に行き来する彼には、必要のないものかもしれない。
が、せっかくなので、できれば持っていて欲しい。
…面倒ならば、使わなくても良いから。

あまり素直に感情を出せない自分からのささやかな気持ちとして、受け取ってもらえれば満足だ。
鍵を作ったはともかく、どういう言葉と共に渡そうかと悩んでいるのは、置いといて。

闇豹は小箱や引き出しの中を漁り、んーんーと呻りながら背後を見る。

唐突に現れる彼が背後にいたら、思わず拳を飛ばしてしまいそうだ。
自分がこの鍵に合うアクセサリーを見つけるまで、出来れば顔を出さないでほしい。
そう思ってる間にも、カゲがひょいと顔を出しそうな気がしてきた。
謎の焦りに背中を炙られ、部屋の中を忙しなく移動する。

紐だけでは物足りない。
かといって、仰々しいものはつけたくないし、彼が持つのに似合わない。

シンプルなのが良い。
込める気持ちは一つなのだから、それに合わせておきたい。


「………あ、コレかな〜、これがいいかも、うん」


闇豹が手にしたのは、小指サイズの洋鐘。
鈍い金色のそれは音が鳴らないものの、花冠を模した繊細な細工が施されている。
小さいながらも手ごたえを感じる重さもあり、これならばと紐を通し直す。

渡す準備は出来た。

…さて、どんな顔をして彼に渡せばよいのだろう。









　　

「カゲちゃん。これ、あげる」