そう、……前に。少なくとも前だと思っている方角に。
翼を風にあおられるようにして。

世界は流れてゆこうとする。変わりゆこうとする。
とらえかけて、また波のように遠ざかる。
私たちはその世界の痕跡だけをつかまえて、
自分の宝石箱のなかで愛でようとする、
それはもう世界じゃない……それは、思い出。それは過去。

川を、……下っていくと、海につくんだ。
海に行こうぜ、フィガロ。
泳ぎを教えてやるよ。
あたしは、うまいんだ。

泳ぎがうまくなれば……船にも乗れる。
小舟を漕ぎだすこともできる。
海の果てを見に行くことだってできるさ。

……私は、私たち革命者もまた。王を必要としている。
主を。
革命を生きるということは、殺すべき主をどこかに持つということだ。
でもだから私たちは、
立入禁止を蹴り破り、境界線を踏み越えて、門限を破り捨てて夜に出るような、
そんな子供っぽい生き方をばかり知っている。
あんたの胸の高鳴りが、……例えば事典亭でいたずらみたいに嬉しそうにしてた表情が、
ちょっとうらやましいところも、ないじゃない。

私が愛 l'amour と呼んだものはいくつもあった。
男たちの、それとも女たちの……生まれては、たしかにその時つよい熱を持ちながら、
いつか死んで過去に落ちていく。
それは……籠の鳥を愛する寵愛とは、少し違う形のものだ。
そうしてあんたの周りにある、
あたしやヤールの愛とは、また少し違う形のものだ。

あんたは愛されていいし……
だれかを愛していい。
いろいろな仕方で。
そのたびごとにひとつの chaque fois unique、
やりかたで、だれかを。

悪いな。
戦いは、まだ、終わらない。
少しばかり、引き伸ばされるだけで……
私ァ、少し、元気になったよ。
べルフィがさ。
この世界を管轄する、って、言ったろ。
つうことはさ、
私は、あいつを斃さなきゃいけないってことだ。
もっと……強くなって。
そうして、
……ネクターの栽培法と繁殖法を、
あるいは、ネクターに代わるものを探して。

はっ。
気の長ぇ準備の要りそうな前提だな、我ながら。

フリントにも行ける。カミユの故郷にも行ける。
庭で茶もできる。
でも、ヨーレやパラダイスを、この革命が始まる前から、
私が斃そうと画策していたように、
私の頭のなかにはどこかできっと、その目的が生きている……
だから、精神的には、
戦いを続けながら、この世界にいることになる。
そういう仕方じゃあないと、私はどうもしゃっきりできないらしい。

……今は少し、休むにしたって。

十年。――希望がいるなら、持てばいい。
希みを希うことは、だれにも赦されている。
未来へ、希望を抱くことで、
その希望を守りぬくことで、革命は成るんだ。――

――……ありがとうよ。
フィガロ。
もしも私が、
かりそめであるにせよ不死の力を手にしたら、
あんたの血を一口おくれ。

――その血に病が潜むとも、
あんたのそばにいることを決めたんだから。

ふふ。
天使探し、か。
なかなか楽しそうな話になってきたな。
エンブリオに寿命ってやつがないんだとしたら、
きっと出会えることもあるだろう。……

あんたは、……それじゃあ、親なしなのか。
家族を知らず、鳥籠のなかで愛玩される、そんな……
……世界。

――エンブリオは、あんたの翼だ。
あんたを閉ざすばかりのものじゃない。
それはあんたが鳥籠の世界の外で、
あんたの意志で――選び取り、手に入れた翼なんだ。

少しは手入れが必要にしたって。
……あたしが手伝ってやるよ。
飛び方を、探してやる。……

――いまやもう、お前のなかの暗がりにそれらを隠して？

私というものは恐らくそうだった、《ある》ということを知って私が《ない》のだと知った。
けれど《ない》という私自身は、そのもうずっと以前から私ではあった。
ないものとして。
ただないということとして、そこにあった。

フィガロ。
……そんなことはないさ。

そのときにはきっと、私の名を明かした誰かが、私というものをどこかに持つ、携える……。
あるいはそのとき、私は幾許か何かを得るだろう。
誰かが、私というものをその手に持つときにこそ。

私というものの、その手に失われることによって。

お前の想う空が、私の覆うそれでないのなら。

取り囲み、包囲された暗闇の垂れる、その天幕がお前の”空”ではないのなら。
忘れていても、思い出せなくとも、失われていても。
お前は恋しく思うのかもわからないね。

……それはきっと、ありもしない暗闇の私が、光を欲しがるのにも似て。

エンブリオたちは少しずつ鎮まろうとしている。
もう新しい個体はいつからか見られなくなった。
それでも、そうだな……
あんたらは生きている。

今なら、わかる？ 今でも……わからない？
あのときの、ふたりの選択と行く末を……