少ない荷物を適当に鞄に纏めて、ベッドに座り息を吐く。
　大抵は空に浮かんでいたこの家は今、地上に降り立っている。窓から見える景色は上空からのそれでなく、外を歩いた時に見えるものと同じだ。

「……何かあったのかな……」

　突然、タンポポ荘の調子が悪くなった。あの賑やかな黄色い、花みたいな女の人。あの人に何かあったのかもしれない。けれど特にこのタンポポ荘の住人と交流をしているわけではない私たちには何があったのか検討も付かないまま何日か過ぎてしまった。
　此処を出て行こう。そう提案したのはシズだった。このままだとこれから何があるかわからないし、今ならちゃんとお金だってある。宿に泊まればいいだけの話だって、そうシズは私とルカに告げたのだ。
　特別反対する必要は無くて、名残惜しくないと言えば嘘になるけれど、でもそれぐらいだ。本当に繋がりなんてものは殆ど無かったから、思い残すことも無い。ただ何があったのか気になるのと、今までお世話になったお礼が何も出来ていない。そのことだけが気がかりで。

「――アリシア」
「どうしたの、ゼス」

　暫くぼんやりと外を眺めていた自分に声をかけたのはユニコーンの彼。ふわふわと空中を移動し、自分の目の前へとやってきた。
　ちなみにエティとピユは膝の上でお昼寝をしている。ピユはともかく、口も達者で人の揚げ足ばかり取って可愛げのないエティも、こういう時は大人しく丸まって寝ているのでちょっぴり可愛い。

「後、どれくらいで此処を出るつもりだ？」
「ルカとシズの用意が出来てからじゃないかな、宿の予約はもうシズがしてあるって言ってたし」
「……そうか」
「？　何かあった？」
「いいや、別に」

　首を横に振った彼の様子から明らかに何かありそうなのだが、今言わないということは中々言えないことなのだろう。無理に聞き出す必要は特に無い。
　そっか、とだけ短く返事を返し、膝の上ですやすやと眠るエンブリオ二人の頭を指先で撫でた。そこで、ああ、と思い出す。

「そういえば、ゼス、ごめんね」
「あ？　何の話だ」
「前、怒鳴っちゃって」
「……あぁ、その話か。別に。わざと逆上させたようなもんだしな、悪いっちゃ俺も悪い」

　わざと。やっぱりそうだったのか。
　あの日、自分に帰りたいのだろうと突きつけた彼はきっと、自分の心が限界であることを察していた。
　怒らせて、ぶつけさせて、そうでもしなければ私がどうにかなってしまうことに気付いていたんだろう。
　落ち着いた今なら分かる。彼は意味もなくあのような行為をすることはないということぐらい。そんなことにも気付けなかった自分はよっぽど追い込まれていたんだろうが。

「助かったよ。……今、気持ちすっきりしてるんだ。お陰でルカともシズとも、ちゃんと話せるし」
「なら良かったよ。あの二人もホッとしてるんじゃねえのか」
「多分？　あ、いやでも、最近ルカは何でか知らないけど目とか合わせてくれないんだよね、ちょっと様子変で……」

　ホッとはしてくれているとは思うが、それでもやっぱり自分が何かしてしまったのだろうかと不安になったりもする。
　どう思う？　そう尋ねようとゼスの顔を見上げると、なんだか凄く呆れた様子で見下ろされていた。

「……何、その顔」
「いや、まあ、そうだよな、まだ１４だしな……」
「一人で納得しないでよ、どうしたの」
「その内分かんだろ。別にお前が悪いことしたとかじゃないからそこは気にするな」
「……ゼスがそう言うなら信じるけど」

　しっくりこないというか気になる誤魔化し方をされてしまって、一応無理矢理自分を納得させるけれど胸が少しもやもやする。
　私が悪いことをしたわけじゃないのなら、他に何か理由があるということだ。でも何かしたかなんて全然思いつかないし、雨の日以降、特に口喧嘩したりとかそんなことも全然無かったし。
　変わったことも、特に。

「なあ」

　ぐるぐる廻り始めた思考を塞き止めたのはゼスの声だった。いつの間にか落としていた視線を上に上げる。見上げた彼の瞳は何処か遠い所を見つめていて。

「……菫の言い伝え、知ってるか」
「へ？　す、菫の？　……そんなの知らない、けど」
「シェリーヌは？」
「聞いたことない」

　急にどうしたのだろう。菫、は前からエティに言われていたことだから聞き覚えはあるものの、言い伝えなんてものは知らない。シェリーヌという単語に関しては、これっぽっちも知識はない。そもそも何の名前なんだろう。響きからして、お菓子のように思わなくも無いけれど。でもこの流れなら多分違うだろうし。

「成る程。お前、本当に何も知らねえんだな」
「……馬鹿にしてるの？」
「違うっての。別に、それでいいんだ。それでよかった」
「……ゼス？」

　ぎゅっと彼が小さな拳を握る。その横顔は何かを耐えるかのように、辛そうに。
　小さな彼の姿を見て湧き出してきたのは今更な疑問だ。なんでエティは私のことを知ってたんだとか、あのアリスという名の女の子は誰なんだろうとか、そもそもどうして私を菫って呼ぶんだろうとか、最初に感じていた疑念。忙しくて、追い込まれて、頭の隅に追いやられていたそれら。
　彼はきっと何かを知っているんだ。菫の言い伝えだとか、シェリーヌとかは、きっとその一部で。
　でも多分彼も教えてくれないんだろう。エティと一緒で、適当にはぐらかすのだろう。私のことなのに、私には言えなくて。
　そう、思ったのだが。

「シェリーヌっていうのは、お前の母親の旧姓だ。お前らの世界に未だ残ってる貴族の家の名前」
「……おかあ、さんの？」

　彼はどうやら、違ったようだ。

「ああ。その家の奴等は殆どが髪は白くて眼は蒼い」
「でも、お母さんは眼、私と一緒だよ。紫で」
「たまに産まれてくるんだ。瞳が紫の女子が。それが、菫って言われてる」

　知らなかった。母が貴族の家の人だったことも、菫の由来も。
　だって母は、そりゃ髪の色とか眼の色とか周りに比べるとちょっと特殊だなって思ったことはあったけど何処までも普通の人だし、寧ろそんな貴族の家の令嬢なんて雰囲気は欠片のない私よりも元気な人だ。信じられないけれど、彼が嘘を付く理由もないし、本当のことなんだろう。

「……じゃあ、菫の言い伝えっていうのは？」

　だからこの流れなら教えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて彼に質問を投げかけると、彼はこちらを見ないで口を開いた。

「シェリーヌ家では菫ってのは特殊なんだ。滅多に産まれてこないってのもあるし、……伝承もあって」
「でん、しょう」
「命を持たないものに命を吹き込むことが出来る」
「……凄いね」

　凄い。本当にそうとしか言い様が無い。眼の色が少し違うだけでそんなことが出来るのか。そう素直に感心したけれど。

「勿論伝承は伝承だ。お前の母親を見てみろ、そんなんしてるか？」
「あ」

　指摘されて気付いた。母は白髪で、紫眼で、だけどそんなことが出来る素振り全くない。寧ろそういう類のものに憧れてる節さえある。
　つまり伝承は伝承。伝説は伝説。実際は違う。そういうことなのだろう。

「まあでもやっぱり特殊だとは思われててな、だから菫の色を持った奴は家から出されることなく大切に育てられる」
「そうなんだ。……あれ、でも私のお母さんって」
「家出てるな。まあ、それはあれだろ。恋ってのは恐ろしいから、お前の父親と何かあったんだろ」
「……な、成る程……」

　言われてみて一応頷いてはみたが、それに関しても全く想像は出来なかった。
　お母さんが貴族のお嬢様で、お父さんは、どういう立場の人だったのか分からないけれど。でも今普通の一般家庭で暮らしているということは、そんな大事に育てられる立場だったお母さんがお父さんと出て行く為の色々があったということで、いやでもやっぱり想像出来ない。

（……帰ってみたら聞いてみよう）

　素直に答えてくれるかどうか怪しいが、まあ答えてくれなかったらその時はその時だ。素直に諦めるけど。

「それで、本当にお前に言いたいのはそれじゃない。伝承――言い伝えは、もう一つある」
「もう一つ？」

　命を吹き込むことが出来る以外に何かもっと凄い力でも持っているのだろうか。
　なんだか少しだけわくわくしながら彼の次の言葉を待つ。彼はちらりと私を見下ろして、でも直ぐに辛そうな顔をして眼を逸らした。


「あのな、……菫を持つ者は皆、最期」


　辛そうな。


「――眼を抉り取られて死ぬんだ」


「……、……へ」


　背筋が凍った。ぞっとする、というのはこういう時のことを言うのだろうか。
　何故だか心臓の音が一瞬にして煩くなって、胸が急に苦しくなった。
　こんなに怯えなくてもいい。だって只の言い伝えだ。お母さんだって普通に生きていて、一つ目の伝承だってホンモノじゃなくて。それなのに。
　全然、大丈夫だとは思えなかった。

　だって私は知ってる。その瞬間がどんなものなのか知ってる。
　他人事だとは思えなかった。だって知ってるのだ。私は実際に抉り取られたのだ。

　あの時、彼女に。
　
（――ああもしかして、エティたちが私を菫って呼ぶその意味は、）


「なあ、アリシア」


　彼は私を見なかった。その横顔も夕陽に照らされてよく見えなかった。
　エティもピユも、未だ私の膝の上で穏やかな寝息を立てて、その二人の頭を、私は撫でていて。
　
　それで。


「早くその手離さないとお前、死ぬぞ」


　私の手は、震えてた。　

ちら、とコトカを見やって、心配そうに。

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