19.


　ピアは憶えていないだろうが、ポポロは憶えている。
　それはまだ、ポポロとピアが『神様』になって間もないころの話。
　海ばかりの、人よりも水面を跳ねる海洋生物のほうがよく見かけるような、蒼い世界にいたころの物語だ。

　ある日、少し目を離した隙にピアがいなくなったと思えば、夕暮れ時にずぶ濡れになって帰ってきたことがあった。
　今でもなぜかはわからないけれど、ポポロはそのときのピアの姿をよく憶えている。
　ポポロから見たピアは、背に夕日を浴びて鮮明な陰影を生み出していて、焼けるような赤を背負うその立ち姿は冗談のように美しく、そして気が違うほどに狂おしかった。指先から雫を落とすピアの細い手に、見たことのない立派なチェロケースが握られていた。
　濡れそぼつことなど、神様であるポポロやピアにとって問題ではなかった。だからポポロは当然、こう言った。

　するとピアは、答えあぐねるように困った顔をして、

　ポポロはピアのそばに駆け寄って、おもちゃを見つめる子供のような視線をチェロケースに向ける。
　そして小首を傾げ、

　――誰にもらったのか、なんてことは気にもしない。
　なぜなら、ポポロにとってピアは世界のすべてであり、それ以外のモノはすべて路傍の石ころとなんら変わりがないからだ。興が乗れば綺麗な石ころや形のいい石ころを探すこともあるが、それらは所詮暇潰しでしかない。
　だからポポロは、常なる笑顔をピアに向け続ける。

　拾ってきた捨て猫を見るような目つきで、チェロケースを眺めるピア。
　ポポロははてと一層深く首を傾げる。なぜならピアがチェロを弾いたことなど、一度もなかった気がしたからだ。
　しかし、そんな疑問は一瞬でどこかへいってしまった。とても楽しいことを思いついたから。
　わからないなら、弾いてもらえばいい。

　ピアは指先の水滴を払う。あれほど濡れていた衣服がすでにほとんど乾いているのは、一体どのような魔法か。
　近くにあった椅子を引いて、ケースからチェロを取り出す。
　それは、記憶というよりは経験。身体に染みついた動きを取り戻すかのような、錆びた歯車を回しているかのようなぎくしゃくとした動きでピアは椅子に腰掛け、チェロを構える。
　そのとき、ポポロとピアの視線がぶつかった。
　お互いが口を開き、何かを言おうとしたが――結局そのどちらも言葉にはならず、形のない感情が静寂の中を漂い続けた。
　青々とした海風が、両者の間を吹き抜ける。
　そしてピアはゆっくりと、言葉を知らぬ赤子に物を教えるように、弓を弦の上に乗せて踊り始める。
　言葉はなく、音楽を通して、ピアがポポロに語りかけてくる。胸打つメロディが、激流のように流れ込んでくる。
　ふと、ある迷信を思い出した。

　――花に向かって優しい言葉をかけると、綺麗な花が咲く。

　その時間を、ポポロは一生忘れることはないだろう。
　チェロを弾くピアは、笑っていた。

　演奏が終わり、弦から弓を離した途端、飛びつかんばかりの勢いでポポロがピアに迫る。身の内の感動を抑えきれないとばかりに手を振り足を踏み、瞳は星でも見ているのかと思うほど爛々と輝いている。

　自分自身、驚いているといった口調のピア。

　むう、と残念そうに唸るポポロ。

　うーん、とポポロは視線を天井に向けながら言葉を探し、

　ポポロはそれを、まるで歓談のように語ってみせる。
　しかしピアもまた、まるで遠い場所の見知らぬ誰かの不幸を聞いたときのような顔をしながら、

　なんて、あっさりと納得していた。
　しかしすぐに、何かに思い当たったかのような表情になって、それから顔をうつむかせる。
　表情の見えないまま、ピアは深い闇に向かって問いかけるような調子で、こう言った。

　ただひと言呟き、そして顔を上げたピアの表情は、なぜだかとても哀しそうなものだった。
　――もし哀しいことだとしても、それは憶えていられないピアのほうではないのだろうか。
　その哀しみの意味が、ポポロには理解ができない。
　しかしピアは目を背けることなく、真っ直ぐにポポロを見つめて、

　確かに、そう言ったのだ。
　そのことを、ポポロは憶えている。


　　　＊


　あれから数百年が経った今なお、あのときのピアの言葉の意味はやはりよくわからない。
　しかしそれでも、確かだと思えることがある。
　それは、あのときのピアのチェロを憶えていることは、間違いなく幸せなことだということだ。

　ポポロは、一斉に照明を落とした。
　あまりに唐突だったせいか、観客がざわめく。今のポポロにとってはそれすらも愉快で仕方なく、悪戯をした子供みたいな笑い声を漏らす。光源を調整してステージを彩り、入り口から光が漏れないようにカーテンを張る。
　躊躇いがちに「チェロを弾きたい」と言ったピアの言葉を、一も二も無く了承した。すぐに準備をしようみんなを集めよう楽しみです嬉しいです――大はしゃぎするポポロを、ピアは笑って眺めていた。
　そして今日、リチェッタの店内にある小さなライブステージで、大急ぎで住人に告知したチェロコンサートがはじまろうとしていた。
　ポポロは客席よりも後ろ、入り口付近の場所を陣取って、店全体を眺められるような位置にいる。
　もうずっとわくわくが止まらない。もし自分がヒトだったら、心臓が破裂しているに違いないと思う。
　頭のなかが、楽しい思い出でぐるぐると回っている。
　どこへ行くにも一緒なのが嬉しかった。ぶっきらぼうなのに、感情がすぐ顔に出るのが面白かった。いろんな話を聞かせてくれて、ときおり目を輝かせて語るピアを見るのが楽しかった。
　――そして、ピアが 弾くチェロが、大好きだった。
　そんなことを考えているうちに、食堂と繋がっているスタッフ用の通用口から、ピアが出てきた。胸が高鳴る。その場で暴れ出したくなる激情を必死に抑え込んで、ポポロはピアの姿に釘付けになる。
　ピアは燃え立つような視線を客席に向けて一礼をし、椅子に腰掛ける。

　演奏会が、はじまった。

　――やった。
　気づけば、ぶるぶると身が震えている。聞いているだけで、まるでヒトが流す涙のように笑顔があふれて止めることができない。
　すべて、思い描いた通りになった。
　ピアのために住人を集め、共に過ごし様々な意志と触れ合い、感情を取り戻す。その結果、彼女は喜びを知り、怒りを覚え、哀しみを乗り越え、楽しいということを思い出した。あれもこれもそれも、すべてピアのためだった。
　そして今、ピアンタ・ディペントーラはタンポポ荘に向かって、笑っている。
　タンポポ荘とはすなわち、今ここに住む、そして住んでいた住人たちすべてのことであり――そして、ポポロ自身ことである。

　それは、ピアの『居場所』になれたということ。

　それが『タンポポ荘計画』。
　かつて居場所が欲しいと夢見た少女の願いを、叶えるためのもの。
　ポポロ・ダンドリオンだけが憶えている、輝かしい未来の物語。
　ついに辿り着いたのだ。
　ポポロは信じている。これから先は、もっともっと楽しいことばかりが待っているのだと。
　淡い橙の灯火だけがあたりを照らし上げる幻想的な世界の中、ポポロは花のような笑みを浮かべて、目を瞑る。
　大好きなチェロの音色が、タンポポ荘を包んでいる。






　そして、限界は唐突にやってきた。

※日記上で展開しているストーリーの都合上、
近いうちにすべてのメッセージを切り上げさせてもらいます。
展開が多少強引になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

　クロエは最後にそんなことを言いつつ、攻城戦へと向かうポポロに手を振りながら見送っていた。

　押し倒されたような姿勢のまま、ポポロに好き勝手に遊ばれるクーリア。

　最初はいやいやと逃げようとしていたが、逃げられないことを悟ると諦めたように力を抜き、恥ずかしさをこらえている。

にぎわうカフェに張り紙なら、期待大！
…とでも考えたのか、すでに満足げな様子。
「詳しくは、ろろむさんの所まで！ってことで〜」と、相変わらずの調子のよさで―

鼻歌まじりに、自室へと戻っていった―

凄く自慢げであった！

こっちを手を振りながら見送った。

　伝わってくる嬉の感情に、穏やかな表情を返す。
　長い時間、人間とうものを見てきたが、それほどまでに神様に慕われる者は珍しい。
　いや、ピア殿は半神なのじゃったか……？

　タンポポ荘への入居届の提出、それが話題の発端だったはずだ。
　入居が許された礼を述べるつもりが、つい昔話に花を咲かせ過ぎてしまったようで。

　だが、ふと、何を想ったのか。
　駆け去ろうとするポポロ殿の背に、通る声で呼びかける。

　そんなことはあるまいが、と、心の言葉に続けながら。
　妖狐は口の端を釣り上げながら、呱々と笑ってどろんと消えた。

※（長らくメッセージのお相手、ありがとうございました。
　　日記での展開、何が起きるのか楽しみにしつつ…！）

もしも他の参加者の誰かと誰かが対立したら、自分はどうするのか。
それはきっと、その時になるまでアマリア自身にも分からない。

気合を入れるように声を上げた　が、すぐにふっと息を吐き、引き締めた表情を緩める。
それから小さく苦笑して、

そう言ってアマリアはくるりと体の向きを変えた。その先はタンポポ荘の入り口である。
そしてそのまま、パタパタとそちらの方へと駆け出した。

メッセージ切り上げ了解です　せっかくなので爆発オチにしましょう

カチッ