記憶がない。
　ブラウニーの血液を綴って。
　東さんに「自分の生き方を見つけろ」と言われて。
　ネロさんと、「レーネフィア・ディ・ステラは特異な存在ではないか」という話をしていて。
　レーネフィアさんに、そのことを聞いていて。

　記憶がない。
　記憶がない。記憶がない。記憶がない。

　――僕は弱いから、何も覚えていない。





「ミラルカ・ハウダニットの様子がおかしいです」
《過去・現在・未来。彼におかしくない時が存在していたのかい？》
　嘲るようなエヴォル・メダルドゥスの声に、ラウラ・レ・ファニュは呆れ顔で「それどころではないのです」と答えた。

《へえ？　今度はどんな愉快が知れるんだい？　あぁ、ボクもメルンテーゼまで行ってみたくなったよ》
「職務を放り出す覚悟が有るなら是非どうぞ。……それよりも。ミラルカの魔力が、膨張を始めています」
　思わず皮肉っぽく返してしまったラウラ。しかしエヴォルの、
《フム……うん、予定通りだね。このまま行けば、彼が始祖として覚醒する日も、そう遠くはないかもしれないよ！》

　という、通信機越しにでも伝わってくるようなワクワクとした言葉を受け、この男に皮肉の類は無意味なことなのだ、と理解する。
　これだから研究者は。……だが、その研究者のお陰で計画を続けられているのだ。そうも言ってはいられまい――と考え直し、声色を柔らかくしてラウラは言った。

「まあ、悪くはないですね。凡そ吸血鬼とは思えぬ力――光の力を数多く有しているのが懸念ではありますが」
《それを言ったら、ラウラだって使うじゃない、そういう技》
「分かってて言っているでしょう？　私は現実の吸血鬼ですけど、アレは本物――伝説上の、吸血鬼です」
《ま、勿論解っているんだけどね。そっちも解析結果、出てるよ》
「……、…………」
　やはりこの男、能力だけは確かである。
　性格にやや難有りだが、そもそもこんな計画に進んで参加したがるのは、狂人以外はいないので仕方がない。

《ミラルカの所持しているエンブリオ――パロロコンは、ルシファーと繋がっていることが解った》
「……！」
　ルシファー、言わずと知れた、神への反逆者。堕天使の王。
　確かに、かの者ならば、邪悪であれど光を纏うことは不自然ではないだろう。
《ほら。以前“パロロコンが乱獲されている”って話、しただろ？　アレはその影響らしくてさ。研究所の人造サタン開発なんかの素体になってるみたい》
「そう繋がりますか」
　魔王パラダイスの住まう地、王城に蔓延る悪魔。それを創り出した研究所は、堕天使の遣いが元になっている――。
《そういうこと。ガーゴイルによる光技もミラルカは習得しているようだけど、これが要因だろうね》
「……ふぅむ」


《それで。そっちはどうなの？　ベルクレア騎士団の方》
「こちらは難航しています。やはりどうにも口が硬い。上手く接触出来れば良いのですが……」
《簡単じゃあないだろうね。辞める？》
「もう少しだけ、続けてみます」


　　　　†

　――これは、過去の記憶。
　住宅街の中に悠然と建っている、広い屋敷のお話。

「……ブラウニー。来ていたのね」
　そう言った女は、艶やかなブロンドの長髪を靡かせ、黒いマントに身を包んでいた。

「あは☆　何かお仕事はなぁい？」
「そうね。じゃあ、珈琲を淹れて貰える？」
「おっまかせあれー！」

　たかたかと小気味よい足音を鳴らしながら、台所へ駆けて行くブラウニー。
　頼んだ女の方はどうやら、羊皮紙に文字を書いているようだ。

「おさとー、みるくー？」
「要らないわ」
「あいよー☆」
　女は文字を書く。
　『吸血人の発生と、受肉についての関連性と諸考察』と銘打たれたそれは、どうやら論文のようだ。

「おっまたせー☆」
「あら、ありがとう。ご褒美をあげなきゃね？」
　そう聞くと、ブラウニーは耳まで真っ赤になる。
「……、ご、ごほーび。……なにかな」

　女はその様子を見ると「くす」と妖艶に笑い――ブラウニーの首筋に、口を付けた。

「ぁ、ンン……××××、様……」

　名前の所は、ノイズがかかったように音が掻き消され、何と言っているのか聞き取ることが出来ない。
　女はブラウニーの血を綴り、傷口を舌で穿る。

「もっと吸ってあげる。そして――」


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ﾌﾟﾂﾝ
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　ブラウニーの記憶はそこで、唐突に、途切れた。

うんうんと頭をうなってみたが、やがて頭を振った。
どうやらその原因に心当たりがないか探ろうとしたが無駄だった様子である。

茶化すような口調。しかしそこには紛れもない縋る思いがあった。