嫌な予感がした。
胸を掻き毟りたくなるような、悲痛で不快な感情。
ちらと空を見上げて、考えたのは一瞬。来た道を、ひた走って戻った。

それは、劈く悲鳴のようだった。伝わったのは、引き裂かれるような痛み。


「……？」


そうして、戻ってきた場所に、ミハウの姿はなく。一人、嬢ちゃん――コトカが、座り込んでいた。
常の、神託を受ける巫女のような、凛とした雰囲気が感じられない。
速度を緩め、数歩の距離を開けて立ち止まる。


「おイ、嬢チャン、どウした？」
「……イェジ」


問いかけた声に、嬢ちゃんはゆっくりと振り向いた。俺の名を呼ぶ声は、いつもよりも弱弱しく。
表情はフードに隠れて窺えない。嬢ちゃんらしくないそれに、内心首を捻った直後。


「ミハウが……ミハウが、行っちゃって、私、……」
「……は？」


あの馬鹿が、行った？どこに？
恐らく、酷い阿呆面を晒していたと思うが、嬢ちゃんは気にしなかった。
それよりも、言葉が声にならないのだろう。悲しみよりも、色濃いのは戸惑いだ。
少し近づく。近づけば、フードの陰になっていた表情も、明らかになる。
……泣きそうな、顔だった。


「ミハ……アの馬鹿が、行っタ？……なァ嬢チャン、一体、何があったンだ？」


自然と眉間にしわが寄る。
俺は女を優先する主義じゃあねェが、それでも、泣きそうなのを放っておけるほど、馬鹿でも鈍感でもねェ。
刺激しないように柔らかく声を出すように心がけつつ、そっともう一度問う。
そうすれば、嬢ちゃんは、ゆっくりと話し出した。


「……最近、様子が変で、何があったのか、訊い、て、」


そこで言葉が止まる。何かを酷く、後悔するような。


「私、心配だった、のに、……困る、とか、酷いこと言っちゃった……」
「あァ…」


嬢ちゃんの話は、ひどく抽象的だった。
受けた衝撃に、混乱しているのだろう。
人間は、一個の感情に塗りつぶされちまうと、順序立てて話すってことが出来なくなるらしい。
仕方のないことだ。


「…嬢チャンは、アイツを心配していテ。でも、ソレを上手く、アイツには言エなくて、後悔してル。それは、合ってンな？」


確認するように言えば、嬢ちゃんは、頷いた。眦に溜まった涙が、零れ落ちそうになっている。
美人の涙ってのは絵になるモンだが、ンな事を呑気に鑑賞してる場合じゃねェ。


「……けど、ソンだけじゃ、アイツが嬢チャン置いて、どっか行くわけねェんだ。
あンな、しょうもねェ奴だけどよ。……他に、何かアイツ、言ってタか？」


だが、それを拭うのは俺の役目じゃない。
零れる前に、ローブの袖で涙を拭って、嬢ちゃんは言葉を続けた。


「それで、使命があって、でも、全然、何も分からないままで、」


纏められているわけではないのだろう。話は、ひどく断片的だった。だが。


「……だから自分が嫌で、個人の情より、使命は優先されるべき、って、言ってた」


その言葉は。


「っ！……あンの馬鹿、まだ、ンなことを……」


思わず、声が低くなる。
それは――あいつが、一揆に参じる前に、度々、呟いていた言葉だった。
けれど、今はそれについてとやかく言ってる場合じゃあない。憤りを、無理やり押し殺して、嬢ちゃんを見上げる。


「……悪ィな、嬢チャン。いきなりンなこと言われて、びっくりしタろ？」
「……私が、訊いたんだもの。でも、ね、……これから、どうしよう」


気遣いに、嬢ちゃんは気丈に首を振った。続いた言葉は、消え入りそうで。
頷いて、ちらりと、思考を巡らせる。


「……これかラ、なァ。まァ、まずはアノ馬鹿をとっ捕まえル。
まだ、そう遠くにァ行ってねェだろうし、すぐ追いかけリャ見つかンだろ。…色々、話きかねェとなァ」


そんなもん、迷うことなんてねェ。今のあの馬鹿は、ほっとけば一人で暴走してどこかに行っちまいかねない。俺らの手の届かないところへでも消えられたら、それこそ、あいつとの約束を守れなくなる。
道の向こうへ、視線を向ける。逃げて、お前は何処へ行く気なのか。


「……それで、良いのかしら」
「ン？」


視線を戻せば、嬢ちゃんは戸惑った様子だった。まあ、俺もあっさり決めすぎなのかもしれんが。
でも、色濃いそれには、首を傾げる。


「それで良いも悪いも、アイツのこっだ、また変に考え込ンでンだろ。このまマほっといタって、いつか自滅するだけダしな」


それでは困る。そう呟く。あの馬鹿を、俺に任せたあいつは、んな結果は望まないだろう。
じっと、嬢ちゃんを見上げてみる。


「ンじゃ……嬢チャンは、どうすンのが良いと思う？」


そう聞けば、嬢ちゃんはぽつりと、呟いた。


「……ミハウの傍に、私が、いたら、」


……言葉は続かなかった。だが、何となくは察せる。
邪魔なんじゃないか。だから追いかけちゃいけないんじゃないか。
――オイオイ、あの嬢ちゃんにンな事言わしてんぞ、テメェ。
ここにいない馬鹿をぶん殴りたい気持ちになりつつ、思わず、ため息をついた。
手で頭を掻こうとして、子狐の姿だったのを思い出した。上げかけた前足は、そのまま下ろす。
擁護、くれェはしておくべきか。


「……あのよゥ、嬢チャン。アノ馬鹿は、ほんっと、どうしようもねェくらいノ馬鹿だけどヨ。……少なくとも、簡単に、情のわいた人間を切り捨てられるほど、薄情な奴じゃあねェンだわ」


なんでンなことを俺様が言わなくちゃなンねェのか。意味が分からねェ。
だが。
ミハウは、まァ、一般的に見れば、優しい部類に入るンだろう。優しいからこそ、どちらかを切り捨てるっつー選択肢を選べない。使命も、仲間も、大事で仕方ないからこそ、ひどく悩んでいる。
それが分かってンなら、選ぶ道なんてひとつだというのに。見えてないのか、見えてんのに見ない振りしてんのかはわかんねェが。
というか、見えてなさ過ぎだあの馬鹿は。


「……今のモ大方、使命も嬢ちゃんたちも、どっちカを選ぼうとして、選べなクて。いたたまれなくて、逃げたンだろうよ」


多分ナ。そう呟いたのは、聞こえたかどうか。
嬢ちゃんは黙ったまま、きゅっとエプロンを握る。そのまま、視線を落とす。
色々、考えてンだろう。俺が言えることなんて、僅かなもの。最後に決めるのは、あくまで嬢ちゃんだ。
とりあえず。
本格的に捜索するなら、流石にこの姿のままじゃ動きづれェ。地面に近い視点よりかは、高い方がいい。
息をついて、ふっと目を閉じる。

（地脈と、水脈の気辿りャ、暫くは持つだろ）

変化は一瞬。
目を開けば、前よりも視点は随分高い。見上げていた嬢ちゃんを、座った状態で見下ろすくらいには。
銀髪に橙の瞳の、人間の男。そんなナリになってはいるだろう。ただ、まだ力が足りない。尻尾はどうにか消せたが、耳は狐のままだ。
置きっぱなしになっていたミハウの荷物を拾って立ち上がる。感覚を澄ませれば、ほのかに甘い匂い――あいつの髪結い紐に使われた香水木の匂いが、弱く香った。
俯いていた嬢ちゃんが顔を上げて、小さく声を上げる。そういえば、この姿を見せるのは初めてだった。気にはしないが。


「……まァ、俺ァ行くぜ。付いてくンなら、来れば良い。そうじゃねェなら、此処で待っててもいい。どっちにしろ、とっ捕まえて連れてくっからよ」


言って、背を向けて歩き出す。数歩歩いて、


「わた、し、――私、も、」


躊躇うような、小さな声だった。けれど。


「私も、行くわ」


返事に立ち止まる。
はっきりと、嬢ちゃんはそう告げた。
このままには、したくなかったのかもしれない。


「……そうかい。んじゃ、行くぞ嬢ちゃん」


知らず、口端が上がった。
持った荷物を背負い直して、歩みを再開する。
微かな香りと、奴の気配を手繰りながら、アイツへ続く道へと歩き出した。


*****


走った。どこに行けばいいかなんて分からずに走った。息を切らして、走って。
脚が上がらなくなって、息が切れて、ついに、へたり込む。
肩で息をして、時おり咳き込みながら、それでも、頭の中では止めどなく思考は続く。

使命と、約束。
願いと、約束。

大事な親友の願いであり、団長から下された使命。
常に傍らにいた、仲間との約束。

優先されるべきなのは、使命だと分かっている。でも。

どちらが大切かなんて――決められなかった。決めるべきなのに。
よくもわからないことを言いたいだけ言って、ただ飛び出して。

エプロンを握り締めた白い手。
か細い声の問いかけ。

『ミハウは…どうしたいの？』

答えられなかった。選べなかった。
切り捨てることも、その手をとることも、出来なかった。

『ごめん、コトカ』

なにも決断できなくて、君たちを選べなくて。
――約束を、破って。

どこまでも、私は……僕は、中途半端だった。



一人に、なった。



走ってきたから当然だといえば当然だったけど、何もかも置いてきてしまっていた。
荷物と言えば、腰と脚のベルトに通した二つのポーチと、差しっぱなしだった剣。――これは、使えない。

流石にこのままでは、進攻は出来ない。辺りを見回す。
どこかから、水に流されてきたのだろうか。太い枝が何本か、岸に流れ着いていた。
そのうち、丁度良さそうな一本を拾い、雑用に使うナイフで削って、即席の武器にする。
無いよりはマシだ。なるべく敵に遭遇しないように、祈るしかない。


歩く。歩く。ただ、歩く。


途中、水辺に寄って、髪を結い直した。
水で濡らした手で梳いて、癖を取ると編み込んで、髪結い紐で留める。
濡れた手で触ったから、だろうか。かすかに、香水木――ヘリオトロープの甘い香りが、鼻先を掠める。
香りの揮発性が高いヘリオトロープは、咲き始めが一番香り、花が咲き誇る頃には楽しめなくなる。
だから。
加工されてもう、何日も経つのだから、消えていてもいいのに。

『香水木って言うのね、これ』
『ミハウが住んでたところでは、よく見たのかしら？』
『良い匂いね』

手渡した材料に、微笑んだ顔を思い出す。
じくりと、痛みが、強くなる。


歩く、歩く。歩く。


先に進まないと。もう、一人に、なってしまったのだから。
その思いで、足を進めた。
じくじくと、腕が痛む。治癒による鎮痛効果が、薄れたんだろう。
その痛みは、私を、責めているように思えて。


歩く。歩く。


足取りは、重かった。獣をやり過ごしたり、隠れたり、そうした時間も多かったけれど。
でも、先へ進むはずの足は、何かを惜しむように、ゆっくりで。
なにを、惜しむというのだろう。
もう、戻れない、のに。


歩く。


先に、進まないと。そう思わないと、足が進まなくなっていた。


そして。


歩みが、止まる。
どうして、進まないんだろう。

あの時、どちらも選べなかった。その上、仲間――彼女の前から逃げ出した。
もう、帰れないと思った。だから。
だから、残された道を選んだつもりでいたのに。


無理やり、一歩を踏み出そうとした、瞬間。


寒気にも似た気配に、水辺から離れて後ろに飛び退く。
鈍く空を裂いて飛来した何かに、咄嗟に木の棒を振るう。
棒はその何かと激突して、音を立ててへし折れ、使い物にならなくなった。
舌打ちしつつ棒を捨て、正体を見極めようと、顔を上げる。

――イカだ。
けれど、見慣れたものより、何倍も大きい。前に遭遇したクラーケンよりもだ。
そういえば、この辺りでは帝王イカと呼ばれるモンスターがよく目撃されていると、噂で聞いてはいた。

まさか、このタイミングで。

へし折れた木は、イカから伸びた触手を弾いたらしい。受けた衝撃で手が痺れ、傷が痛む。
その腕に巻いた白い包帯が、目に入る。


『ミハウは…どうしたいの？』


心配そうな顔。震えていた声。
ギリギリと締め付けられるように、心が痛む。
――そんな顔なんか、させたくなかった。

ただ、ただ、……



振り切るように、顔を上げる。
相対するこちらも、一人だ。どこまでやれるかなんて、わからない。
けれど。

見やったのは、来た道だった。

もし。

もし、彼女が同じ道を進んでいるのなら。この先へと行こうとするなら。
せめて、その露払いはしたい。


だから。

武器はただ一振り、ベルトに差した剣のみ。
団長から託された任務の証にして――親友が愛用した剣、“アキレア”。

それでも、今はやるしか、ない。


｢……ごめん、イェジ｣


そして、剣を、抜いた。

黙ったまま、歩を進めていた。

少し思うところがあるようで

前向きな言葉なのにどこか、不穏な感じ？

と苦笑して

彼等からすれば、想像もつかないだろう光景だ。
一方の自分達は、森や川を知ってはいても、初めて見るようなものだったワケだが。
彼が何かに驚いたように目を瞠るのを見れば、きょと、としてから、

はじめはその言葉の意味が分からなかったらしい。が、数度、頷くことはする。
分かりやすく彼が言い換えてくれたなら、おお！と、目を丸くした。

引き抜いた剣は、以前、故郷で抜いた時よりも、軽い。
それもそのはず。

現れた刀身は――半ばでへし折れていた。
その刃を、そっと指で撫で。

契約した、エンブリオたちを呼ぶ。
応える声はなくとも、彼の意を汲んだ様に、折れた刃を冷気が包む。
真白い霧に覆われて、剣が霞んだ――次の瞬間。
音を立てて、凍りつく。

霧が晴れたそこには、一振りの、澄み切った氷の刃を持つ剣。
その重さを確かめるように振って、ミハウは、帝王イカに向き直った。

息をついて、周りを見。脅威がないのを確認して、剣を下ろす。
少女の言うことなど、元より、耳に入っていない。

剣を覆っていた氷は、きらきらと、光になって、解け消えた。

ミハウを無造作に担いで、帰ろうとして。
イェジは、傍らに落ちていたものに気付いた。

そっと、拾い上げる。

休憩中。
ちら、と空を見上げてから、相手に声を掛け。

そう言いながら、緩く構える。

　その、一言で。
　纏う気配が変わる。
　イヌワシは、大きく翼を広げた。