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　そして『私』は目を覚ました。



　むしろ扉として機能しているのが不思議なぐらいに穴だらけなそれが、軋みをあげながら開閉する。
　入り口もひどければ中もひどい。虫に食われた葉のような壁からすきま風が吹いて古びた埃が舞い上がる。天井の裂け目から差し込む日光がそこらじゅうにあるガラスの破片をキラキラときらめかせている。タイルが剥がれっぱなしの床にはところどころに焦げ跡がついていて、どういうわけか空の薬莢やベルトリンクなんてものが落ちている。
　そんな、戦後の廃墟と表現するのがピッタリの場所を『あの人』は、私を抱えながら慣れた足取りで進んでいく。仕事が一段落して機嫌がいいのか、私の身体はいつもよりゆらゆらと揺らされていたが、私にとってそれは喜びであった。
　そんな歓喜の踊りが、階段にさしかかる手前で不意にピタリと止まってしまった。

　ピアンタ――その言葉を聞くだけで、私の意識と心はますます大地に根を張る。
　それは、私を抱くあの人の名前。
　私の、大切な大切なご主人様の名前だ。

　嫌悪感を隠そうともしないご主人様の声色。
　しかし見知らぬ誰かは笑っていて、私にはそれが理解できなかった。
　見知らぬ誰かはご主人様の質問には答えずに、勝手に話しはじめる。

　ケラケラと笑う見知らぬ人。同じ笑いでも、さっきとは違う感じがするのはなぜだろう。やはりこれも理解できなかった。
　私がそんなことを考えていると、ご主人様が私から片手を離して背中に回した。

　長い沈黙を経て、ご主人様は背中に回していた手を戻して、こう言った。

　そう言って、ご主人様は私を差し出すように見せる。
　見知らぬ人は口をぽかんと開けたまま、やがて笑って、

　ぞんざいに投げられた小さくて平べったい何かを、ご主人様は器用に受け止める。そしてそのまま、ひと言もなく階段をのぼりはじめて、見知らぬ人の姿はすぐに見えなくなってしまった。
　もはや声も聞こえない。……はずなのに、なぜか私にだけ、その声は聞こえてきた。

　吐き捨てるようなその言葉は、やっぱりカケラもわからなかったけれど、

　なんとなく、私のことを言っているような気がした。



　ご主人様はひとつの個室に入って（扉は当然のように壊れていた）、まず最初に私を陽光が差し込む窓辺に降ろしてくれた。
　私はお日様の光が大好きだ。伸ばせる腕も、寄り添う足もない私だけど、ご主人様に触れたような気になれるから。
　そんなふうに私が日光浴をしていると、ご主人様はベッドに腰掛けながら先ほどの平べったいものを熱心に眺めていた。
　やがてぽつりと、

　仕事。そう呟いて顔をしかめるご主人様。
　私にも顔があれば、きっと同じ表情をしていただろう。
　仕事というのがどんなものかはわからないけれど、ご主人様が「仕事をする」と、私の相手をほとんどしてくれなくなるのだ。だから私は仕事というやつが嫌いだったし、ご主人様も同じ理由で嫌いに違いないのだ。

　ご主人様は立ち上がり、私の目の前まできてなにやら難しいことを呟きはじめる。ご主人様がすぐ側にいる喜びと、また仕事がはじまってご主人様と離れてしまう寂しさが、私の中で均等にかき混ぜられていた。
　そしてご主人様は、手に持っていたものを投げ出して、

　そう言いながら、ご主人様は私に手を伸ばしてきてくれて、そして目を輝かせて言うのだ。

　ぼんやりと、夢を見ているような視線を私に送りながら、ご主人様はいつものように語ってくれた。
　ご主人様の言うことは相変わらずよくわからないけれど、私も、そうなればいいと思う。
　ご主人様に、居場所があればいい。
　きっとそれは、すごく幸せなことなのだ。

　ご主人様が、私の葉を優しく撫でる。

　ポポロ。
　それは、ご主人様がつけてくれた私の大好きな、私の名前。
　その意味は、「人々」というらしい。

　　　＊

　数日後。
　いつものことではあるが、「飛行機」や「自動車」といったものに何度もご主人様と離ればなれにされながら、私はようやくご主人様の腕の中へと戻ってきた。これだから「仕事」は嫌いなのだ。もちろん一緒に連れて行ってもらえないよりは、何倍もマシだけど。
　いつものように見知らぬ宿に入り、ご主人様はまず私を窓辺に降ろす。
　そこには私以外の植物が先に居座っていて、ちょっとだけ居心地が悪かった。

　私の感想とはまったく逆のことを言うご主人様。やっぱりいいところなのかもしれないと、思い直すことにする。
　これもまたいつものことだが、ご主人様ははじめての訪れる部屋に入ると、念入りに部屋の構造を調べ出すのだ。

　どうせこの部屋も数日で引き払うだろうに、どうしてそんなことをする必要があるのだろう。
　どうして逃げる場所なんて探しているのだろう。

　ご主人様の真剣な表情をじっと眺めていると、私はそのうち「ああそうか」と得心する。
　結局のところ、ご主人様は、逃げないでいい場所を探しているのか。
　私はご主人様の横顔見ながら、それこそが「居場所」なんだなと、思うのだ。
　それなら私の居場所は、ご主人様のもとなのだろう。
　それは嬉しい事実だった。嬉しすぎて花びらが落ちそうなぐらい、嬉しかった。
　しかし喜びもつかの間、そこまで考えて、私は気づく。気づいてしまった。
　――私にとってご主人様は居場所だけれど、ご主人様にとって私は居場所じゃないのか。
　それは、
　もしかしたら、とても、哀しいことなのかもしれない。

　部屋中を一通り見終えたご主人様は、そんなことを言い出した。
　行かないで――そう言える口が、私にもあればよかったのに。
　そんな願望が日に日に私の中に溜まっていくのだが、そんなものがいくら降り積もろうが私に手足が生えたり、言葉がしゃべれるようになったりはしないのだった。そんなことをできるのは、神様ぐらいのものだろう。
　私がうじうじとそんな諦観を抱いていると、ご主人様は私の側まできて、優しい笑顔を浮かべて、こう言ってくれた。

　――ああ。
　それだけで、嫌な気持ちなんてどこかへ消えてしまう。笑顔とは、なんて素敵なことなんだろう。
　はい。いってらっしゃいませ。
　私は――ポポロはいつまでも、お待ちしていますから。



　............



　......



　...

予期せずお客が手に入ったとナナシはホクホクしながら別れを告げ去っていった。

　クロエは少し考えるようにうつむいたあと、顔をあげて

　クロエはそんなことを言いながら悲しそうな表情を一瞬見せるも、すぐになにか思いついたような顔をして

　

　

　

　咄嗟によけようとして、つい仰向けに転んだ。

未だ慣れない光景を前に髪をぽりぽりと掻きつつ。

そう言ってX-13は、タンポポ荘へと歩いていく。

そんな会話をして数日後。
「あ！ぽぽたん！」と貴方に再び話しかける―

そう言って、手にしたガラス瓶を見せる。
淡い緑黄色の液体の蓋をするように、植物の種が上に座っている―
発芽して間もないのか、液体に浸る根っこはかなり短い。

　身を乗り出して喋る様は、まるで年頃の少女のようだと目を細めて微笑む。

　うんうん、と頷いて。
　彼女が語る自慢話は、とても楽しそうに聞く。元々、ツヅミは話を聴くのが好きな性質なのだ。
　ただ、継ぎ目も切れ目も無い矢継ぎ早な会話には、内心で苦笑を浮かべたりもしたが。

　どうして、ポポロ殿だったのか。……そう尋ねかけて、思い止まった。
　無遠慮に踏み込んでよいものかどうか、迷ったのだ。

朗らかに話を聞いていた表情は、徐々に戸惑ったものへと変わる。
言葉に詰まったように俯いて。しばらくしてから顔を上げた。

しばし熟考。

どうやら答えが導き出せなかったようだ…

自分よりはるかに長く生きているとは想像だにしていない。
勝手に勝ち誇りながら鍵を受け取った。

ろくに説明も聞かず鍵のストラップを引っ張った。