連絡は必要なかった。余計な事をすれば、その分だけフロレンスの存在が遠くなるような気がして、少女は霧霞む道をひとり急いだ。
　フロレンスに会えたら何と言おう。どうやって目を合わせればいい？そんな事ばかりを考える。
　エメラの怯えと焦りを感じ取るように馬が駆けた。冷たい冬の風が彼女の見事な金髪をなびかせる。うすら寒い陽光を受けて煌めくそれを、誰も見ていなかった事が幸いだった。

（私はフロレンスを許していると、それさえ言えれば）

　吐息が白く染まる。夕暮れには間に合うはずだ。エメラは手綱を強く握り締めた。



　乗馬服を着て単身乗り付けたエメラを迎えたのは、かの家の使用人であった。冷たい目がこの家の主によく似ている。主人はどこかと尋ねるエメラに、使用人は裏手の森を示した。

「しかし今、誰も近づけるなと仰せつかっています」

「それは、このわたくしでも？」

　使用人が躊躇なく頷く。

「私には旦那様の命令が第一です。たとえあなた様でも、お通しする事は出来ません」

　これだからあの男は恐ろしいと、エメラは内心冷や汗をかいた。男色家の非人間が情で繋がっているわけでもないこのメイドを、どうしてここまで操れるのか。弱みを握っているのだとすれば、それは彼女の根源に関わる何かに違いない。

「……彼は何をしているの？」

　暗い影を落とす森を見やって、エメラは聞いた。

「存じ上げません。私には知る必要のない事だからです」

　返事は予想通り素っ気ない。屋内でお待ちになりますかと言う使用人の言葉に首を振り、エメラは別の質問を投げた。

「フロレンス・リリーアンは、今どこに？」

　少しだけ、使用人の眉が歪む。

「……旦那様にお尋ねになるのが、宜しいかと」

「ここにはいないの？」

　思わず声に苦渋が滲んだ。使用人はエメラの悲痛な心境からくる言葉を拒絶し、ただ繰り返す。

「存じ上げません」

　今度は、エメラがその美しい貌を引き攣らせる番だった。
　使用人の横を無理矢理すり抜けて、あの男がいるという森に駆け込みたくなってしまう。
　実際そうしようと足に力を入れたその時、見覚えのある姿が視線の先に現れた。

「…………」

　思わず半歩後退る。エメラは己の目を疑った。間違いなくそれはあの男の影だったが、異様な雰囲気を漂わせていた。何故か赤い。赤いのだ。夕日を受けてではなく、血の赤さである事は明白だった。おまけに彼の利き手には、同じく赤いナイフが握られている。まるでたった今、人殺しでもしてきたぞといった様子なのであった。

「おや」

　密かに動揺するエメラとは対照的に、男は彼女を見て笑顔を作った。

「御機嫌よう、陛下。こんな時にいらっしゃるとは」

「……」

「ご無礼をお許しください。小鹿を捌くのにこの有様です」

　ふふふ、と笑う彼の顔は自然すぎて逆に気味が悪い。しかしエメラにとってはお馴染みの表情だった。この男の素顔など一度も見たことがないのだから……今更だ。

「フロレンスはどこ？」

　本題を忘れてはいけない。男の言葉が真実かどうかは今関係ない。知りたいのはただ一つだけだ。切り込むエメラの視線を受け止めて、彼の口角がより深く上がった。

「あれは僕のものですよ」

　男はエメラの望む答えを返さない。愉快そうに笑うだけだ。

「いいえ……フロレンスはわたくしの従者よ。お前の奴隷じゃない」

「以前は、確かにそうでしたね」

「今も、なのよ」

「くくく、面白い事を仰る」

　男は瞼の上を流れる返り血を袖で拭った。目元に禍々しい化粧のような跡が残り、ぎらぎらと眼差しだけは強い彼の瞳が、より強烈に輝いて見える。

「飼い主ならきちんと、手綱を付けておくものです」

　血に濡れた手で懐を探り、男は何かを取り出した。
　小さな花のかたちをしたイヤリング。……フロレンスが付けていたものと、似ている。
　一対ではなく、片耳だけのそれを男はエメラに放って寄越した。

「…………？」

　受け止めた掌の上で、イヤリングは静かに明滅していた。小さな囁きが聞こえる。その声がとても懐かしいような、そんな気がして、エメラはそっと耳を近付けた。


　……兵舎に突撃ー！

　あ、猫！ねこがいるよ！……


「……フロレンス！」

　思わず叫んだ。イヤリングを通して伝わる声の主は、間違いなくエメラの探し人であった。呼びかけに向う側のフロレンスは答えない。――ちゃん、――さん！がんばろうね！エメラの知らない誰かの名を口にして、笑っていた。

「これは、何！？あの子は何をしているの！」

　男に向かって激昂を投げつける。相手は厭な笑顔を崩さぬままに、エメラの手からイヤリングを毟り取った。

「さあ、何をしているのでしょうね。兎に角うろうろと彷徨っているようですが、人狩りもうろついている世界で随分と不用心な事だ」

「どういうこと？フロレンスは、一人なの！？あの子を一体、どこへやったの！」

　男の胸倉を掴んで問い質すも、彼は涼しい顔で受け流すだけだった。

「フロレンスは今、あなたの元に戻ろうとは思っていない」

　そして突き付けてくる。エメラにとって今、一番聞きたくない言葉を。

「…………」

「僕に飼われているのが、あれにとって一番心地良い」

「……そんな、はずは」

「支配されるのは、気持ちが良い事だから。考えるよりも、委ねる方が楽だから」

「そんなはずは、ない！」

　エメラは金髪を振り乱して男の言葉を遮った。

「あの子はそんなに弱い子じゃない！お前が、お前のような奴が好きにしていい人間じゃない！フロレンスを返して！解放しなさい！」

　言い切って荒く息をつく。
　男は肩を竦めてイヤリングを仕舞った。フロレンスが、また遠くなる。
　呆れ切ったような声が、エメラにこう告げた。

「あなたがそう思っている限り、フロレンスは戻れない」

　そのまま踵を返そうとする男の背に吼える。それしかできない自分がもどかしく、握りこんだ手の中が汗で滑った。

「お前が手放せば、それで済む話よ……！」

　男は気にも留めず歩いていくだろうと思われたが、意外にも足を止め、エメラに向き直った。

「では、試してみますか？」

　もう笑ってはいなかった。
　静かに佇む血塗れの輪郭は、夜へと逃げ込む夕陽に照らされて、より一層不気味に浮かび上がっている。
　エメラは粟立つ肌を意識しながら、男の言葉を聞き漏らすまいと、相手を鋭く睨みつけた。

軽く首を傾げて。
しかし、まあ良いかと直ぐさま次の話題へと切り替えた。

見知らぬ料理の名前を出されると、僅かに黙る。

アイコンのお代です。

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