遠くで何やら言い争っている声が聞こえる。
いや、その表現は正しくない。正確にはあの生意気な天使が一人で騒いでいるだけだろう。
あの虎は猫のように鳴くだけで会話はしないからだ。

ともかく、うるさくてかなわない。
さっきもあいつや俺に当たり散らしていたのに、まだ叫び足りないのか。
それに、あの近くにはキョンシーが寝ていたはずではなかったか。
……いや、俺にあのパロロコンのような仲介役は向かない。放っておけ、俺らしくもない。
大方泳ぎにでも行っているのだろう。水辺は久しぶりだとか言っていたことだし。

考えても無駄なことを頭から振り払い、少し休もうと目を閉じる。

が、殺気を感じ目が冴えてしまう。

なんだ、この嫌な感じは。
この水辺に漂う――狂気？

記憶を辿ってパロロコンが仲間になった時のことを思い出し、ああ、と納得する。
ネクターを枯らしたエンブリオの霊魂のような何かが、狂ったように人を襲っているという話を聞いたことがあった。
エンブリオの間で流れた噂だったが、それが流れ始めてすぐの頃、あの庭園の人間が苦しそうな顔をしていたような気がする。

そいつは人間を見ると誰かれ構わず襲いだすと聞く。
王への恨みというより、この世界全てへの恨みのままに狂っている、とも。

あいつを引きあわせて平気だろうか。
純粋な悪意、敵意を向けられることに慣れていないだろう。
どんな相手だろうが命を奪わない大甘なことはもう百も承知だが、今度ばかりはそうも行かないかもしれない。

仮に命の奪い合いにならなかった場合も問題だ。

あのどこか抜けているお姫様には、「自分の国を助ける」というやるべきことがある。自分で言っていたことだ。
それなのに、パロロコンやあのキョンシーなどこの世界のエンブリオに肩入れしすぎている。

そのくせ、普段見せないだけで故郷のことを忘れたことはおそらく一時も無いだろう。
自身が考えている以上に余裕が無いに決っているのだ。
これ以上あいつに何かを抱える余裕があるのか――？

問われて、アムルイは不思議そうに小首を傾げた。
新王に共感したらどうなるのか。
そのために部族を裏切ってしまうのではないか。
しかし彼女は、まったく想像したこともないといった風情で答える。

――――と。
問いかけに疑問を投じ、彼女は言う。

そう語る彼女は、善悪の分別がついていないわけではないのだろう。
むしろ善悪の線引きを、君が思う以上に徹底している風ですらある。
正しいと思うかどうか、という判断には確かに彼女の主観がある。
しかし基準となるのは彼女の正義ではなく、部族の正義なのだ。

逆に問われる形となり、答えに窮してしまったのは君だ。
そうだ。君は国のため、父のため、そして世界のために立ち上がった。
そうすることが正義であり、正しい行いだと信じたからこそだ。
だが――それを正義だと決めたのは誰だ？
何を根拠にして、自分はこの場に立つ資格を得たのだろう。

アムルイは部族という社会の正義を、自身の指標として備えていた。
だからといって彼女が特異なわけではないだろう。
共通する価値観として、それが必要な社会で生きて来たからの産物だ。
しかし自分は、そうした指標を外に持っていただろうか。
己の正義感を頼りに、ここまで走り続けて来たことは否定できない。
無論、それが正しいものだという、誇りめいたものはある。
少なくともこの国の民に取って、自分は正義の味方だと胸を張れる。

だがその正義を、伝えることはできのだろうか？
もし新王の行いが、この国ではなく、自分の国に取って正しいものならば。
そう――国益になるのならば、それを正義と言ってしまうのだろうか。

……否、そんなものを正義と呼ぶのは、君にはできない。
国益になるからといって、誰かの苦しみを肯定できるわけがない。
その点において、自分はアムルイとは違う。
どちらが正しいと言い切れるものではないが、そこに自分の正義はない。
誰からも認められずとも、その道を歩くことはできない。

そこまで考えが到り、君は理解した。
アムルイが掲げているのは、国家や社会という集団の正義だ。
しかし自分の根底にあるのは、それらでは犠牲になるものを救おうとする、個人の正義だ。
出来の悪い皮肉のようだ、と内心で自嘲する。
国を背負うべき自分が目指すのは、誰かのための正義。
国に属さないアムルイが持つのは、社会のための正義。
入れ違っていれば、あるいはより多くの人が幸福になったのかもしれない。
だが君は、そんな自嘲を振り切って答える。

新王の行いで苦しむ人がいるのなら、それが正しくても認められません、と。

何を今更、迷う必要があったのか。
その思いだけで世界を渡り、ここまで辿り着いた。
この場に立つ資格など、自分がここに立つと決めたからで充分。
この思いのために戦うと、君は自ら選び、決めたのだ。

答えを聞いて、アムルイは目を細めて笑った。
馬鹿にするわけでも、取り繕うためでもない。
君の答えに納得して、彼女は笑ったのだ。

まったくだ。
しかしこの道を歩く限り、そこに後悔はないだろう。
いつか正しさ故に傷付いても、歩いて行くことができる。

それから少し話をして、君は気になっていたことを尋ねた。
この世界から渡った、勇者や英雄についてのことだ。
そんな者がいるかどうかは分からない。
だが実在したのなら、幼い頃に憧れた物語も本当だったのかもしれない。
子供じみた質問に気恥ずかしくもあったが、知りたいのだから仕方ない。
これもアムルイが言うところの好奇心だろうか。
アムルイは少し考え込んで、

禍ツ神？　とオウム返しに尋ねる。
アムルイは「本当かどうか知らないけどね」と前置きして、

その人というのが、異世界に渡る英雄なのだろうか。
君は自然と聞き入り、拳を握っていた。

息を呑む。
それでは、まるで。

確かにそうかもしれないが。
それではまるで、異世界へ罪人を追放したようにも思えてしまう。
だが可能性がある、ということをアムルイは言いたいのだろう。
例としてはあまりに逆方向で、さすがに少し困ってしまったが。

背後には斧を振りかぶった女性がいる


　　　---------Sword or Death？---------

そう言って豪快に笑うと、ロックは前を向く。少し考えるようなそぶりをすると、
顔を前に向けたまま、話し出した。

そう言いきると、恥ずかしがるようにガシガシと頭を掻いた。