(Eno.2122 有城冬花の日記と合わせてお読み下さい)
「妹を助けたいんです」

――スレイプニルとの契約を済ませ、ヤサカ神父たちと別れた後。
平原を離れて仲間たちと合流しようとしたところで、不意に少年は傍らの少女に服の裾を掴まれる。
まるで普段の少女とは違うような口調で、唐突にそう言った彼女の隣には、薄らな光があった。

「……もしかして」

自分たちの世界に、『それ』がいたのは知っている。だからこそ、少年はもう驚きはしなかった。
ただ、確認を取るかのように、目の前の少女に尋ねる。

「……『お悩み相談』」

久方ぶりの、馴染みのある言葉が、少年の耳に触れる。
『お悩み相談』。自分たちの世界では良く、少女が『それ』を連れてきては、少年に彼らの未練を晴らす手伝いを求めていた。

「この先にある水辺で、僕の妹がナイトスピリットに勝負を挑んでしまったんです。僕じゃどうする事も出来ない」

力を貸してくれ、と少女が傍らの光の言葉を通訳する。
いつもと変わらない、感情の薄い声。けれど瞳にもまた、いつもと変わらぬ力が宿っている。
助けたいと、その眼差しが言っていた。

「……お前の妹が？」

有城冬花は不可視を見つめる瞳を持っている。
それは少年の邪気眼とはまた違う、『視る』ことに特化した眼。
『呪い』ではなく、『血』によるもの。不可視と交わる彼女の力。
少女を介した姿なき彼の言葉を受けて、少年は状況を飲み込む。

「俺たちなら、確かにお前を助けることは出来るかもしれない」

だけど、と言葉を続ける。

「一体、何がどうしてそんなことになったんだ？」

すると姿なき彼は、少女の言葉を借りて己の来歴を語り始めた。
自身はメルンテーゼの辺境の村に住まう平凡な農民の一人であったこと。
王の圧政によって村が困窮し、税さえも納められなくなってしまったこと。
彼らの両親が子を飢えさせぬの為に盗みを働き処刑されてしまったこと。
兄妹ともども、餓えに倒れてしまったこと。
そして、今も兵士を、王を憎んでいること。

「ナイトスピリットは、兵士たちの魂……。僕たちにとっての、仇なんです」

「……平凡な農民、だったのなら。妹さんは、戦う術がないのではないの」

通訳を続けながら、光に問う少女の表情は、心なしか翳っていた。
一揆の事やその原因となった新王の暴政の話は、ほんのり聞き齧っていたけれど。
同じように王城を目指す人々と行動を共にする事はあっても、
こうして実際に苦しんできた住人と出会うのは、初めての事だった。
首肯する兄から、少年へと視線を移す。

「先輩。あまり悠長にしていられない」

「『行く前』に、のまれたら。……妹さんが、消えてしまう」

姿なき彼の妹。彼と同じ、かたちを持たぬ少女。戦う術さえ持たぬ彼女が、それでも挑まずにはいられないほどの感情。
それがどれほど苛烈で、どれだけ悲痛なものなのかを、少年と少女は推し量れない。
だからこそ、尚のこと。強く、『力になりたい』と思った。
彷徨う『霊』は、より強い力に飲み込まれてしまう。
そうして悪しき霊が力無き霊を食らう姿もまた、二人は知っているのだ。

「お願いします。トリスを助けたいんです」

少女の言葉を借りて言葉を紡ぎ終えた彼に、少年は大丈夫だと笑いかける。
皮肉なことだが、この手の厄介ごとは、彼らにとっては『いつも通り』なのだから。
――だから、『大丈夫』。

「行こう、冬花。……それと」

「ルドルフ。僕は、ルドルフです」

「私は、冬花。彼は、魔異。ルドルフ……彼らのところに、案内して」

決断をした後の二人の行動は早かった。
姿なき彼を伴い、最短の道を利用して水辺へ歩みを進める。
その途中で出会ったのは、魔異の知人であり一揆参加者でもある透子と、そのボディガード、ウィルフレッドだった。
話を聞けば、彼らもまた違う目的でナイトスピリットを求めているという。
こうして、理由は違えど目的を同じくする二人と二人の共同戦線が結ばれたのである。

ついでに様々な手を尽くして、更生してくれても良い。
なんて。普段の無表情で、冗談か本気かわらかない言葉を零しつつ。

少年の真似か。少しぎこちなく、言葉を紡いだ。

俯く。今から言うのは、彼を突き放す言葉だ。
こんな私の事を思って、手を差し伸べてくれた彼を拒絶する言葉だ。

かつて私の親友がそうしてくれたのを、刃で返したように。

胸の痛みすら押しきって、私はそう告げた。
……きっと彼は、もう私とは関わろうと思わなくなるだろう。
それで良い。未来の見えた彼が、私のせいで傷つく位なら。

どこからか声が聞こえる。　・・どこかで聞いたことがあるような、無いような。

脳内に話しかけるスズメが沢山いる訳がない。

ぐしゃり。見開かれた右眼の先で、足元の岩の一つが圧壊する。

姿なき彼、ルドルフの言葉を思い出す。
守るべき民草を虐げ、王に従い、罪なき人々を玩具のように扱う悪鬼たち。
それは死して尚、その性根は変わらず、弱き者を食らう外道。
下卑た高笑いを上げ、獲物の到来を喜ぶナイトスピリットたちを見つめ、魔異は静かに怒りを燃やす。

それは、怨嗟ではない。
邪悪に抗う正義の衝動。
滅ぼし奪う為でなく、救い護る為の想いのかたち。

右眼を、開く。
『意味』持つ右眼が、翡翠の暴風を逆巻いた。
貫く為の、想いのかたち。正しき怒りの、力のかたち。