一度、更に分かれて周囲を探索する事になった。久々の個行動。
　川縁で一夜を明かした朝に、火の始末を終えて移動を始めるよりも早く、傍らで寝そべっている白地に黒の姿を見下ろす。その更に横には、真っ白い少女の姿をした、やはり氷の属性を持つエンブリオの姿。少し迷って、腰を下ろした。膝の上に頬杖をつく。
「……『名付け』って、俺あんまり得意じゃないんだよなぁ……」
　独りごちる。それが、この世界のものを己の眷属として迎え入れるに必要な――自分のような『来訪者』にとっては、見えずとも常にまとわりつく隔絶を越えるための不可欠な儀式であると、そうは認識していても、苦手なものが急に得意になるわけでもない。
『……主、花は』
「あるけど、寝てるんじゃ渡せないしな」
　傍らからの声には、懐に仕舞った紅い花の姿を脳裏に浮かべながら答える。答えて、数秒して、それで眼を見開いて振り返る。その先には宙に浮遊した角を持つ何かの人形のような姿をしたそれ。
『？　何か？』
「……お前ら喋れないんじゃなかったのか」
　思わず驚愕のそのまま問いかける。エンブリオ、『シャール』と名付けたそれは、一度疑問符を浮かべてから、ああ、と声を上げた。
『テラやレーレは、ひととの会話は難しい、だそうです。わたくしは、ほら、お会いした時に』
　随分と物騒な事も、とシャールは白い布のような身体を揺らめかせて笑う。確かに一悶着あったが、そのあと拾い上げた時にはほとんど光そのもののようなものだったから、エンブリオとして再生した時には言葉は失ってしまうものかと思っていた。なまじ最初のテラと、その次に道端で拾ったレーレがそうだったから。
「なんだ……じゃあ精霊眼とは関係無しか」
『それが何かは存じ上げませんが、恐らくは』
　しゅる、と衣擦れの音。肩に軽い感触、恐らくそこに乗ったのだろう。特に重いわけでも邪魔なわけでもないのでそのままにしておく。驚きはあるが、今はそれよりも解決すべき問題が、二つ。
『両共に、氷、ですね。剛毅か華奢かの違いはありますが』
「……俺は、氷は苦手なんだけどな。寒いのには強いけど」
『では何故？』
　どうして拾い上げたのかと、そう問われて一度口を噤む。不意にエンブリオというものは人の持つ機微というものをどれだけ理解しているのだろうかという疑問が首を擡げた。思考を緩やかに流す、その間の沈黙が保たれている事に、息を吐き出した。
「……探し物がな」
『氷に、性質が近いのですか？』
「かもしれないってだけだな。確証はない」
　シャールが思考に意識を向ける気配。もう一度息をついて、それで外套を漁る。一冊の本、手帳に似た格好のそれを取り出して、あかがねの表紙のそれを開いた。開いた場所はちょうど、書きかけの見開き。左の上に何行か黒い文字が細かく並ぶ、その末尾には、今まさに筆記『されている』、書きかけの単語に新しく線が引かれていくのが見えた。
　肩の上のそれが僅かに動くのを無視して、ばらばらと音を立てて前へ前へとページをめくる。この世界に来てから書いたものから、それ以前の記述に戻って、更にその前に。結局表紙を開いて数枚の場所に目当てのものを見つけて、それで手を止めて文字列を眼で追う。簡素な表、十二個に区分けされたそれは、見開き幾つかに渡って書き記されている。枠の中には、一見乱雑に一つ一つの文字が散らばっていた。
『……これは？』
「辞書。故郷の言葉のな」
『私が知識として知っている『辞書』というものとは、かけ離れているように思えますが』
「言葉自体がそうだからな。俺が生まれてからずっと使ってた言葉とは、似通ってすらいない」
　言いながら、目的とする枠の中から文字を拾い上げて、繋げて行く。氷は虚のF、風は猛々しくのD、地は疾くのW、火を忌避する水のtとi、不変と劣化の時はh。音になるように、序列と勢力がぶつからないよう、並べ替えて。
　――WiFDht.
　――ウィフト。
『……私の名も、そのように？』
「全部、これだな。シャールは正確には"SCecLa"……これも本業からしてみれば下手な命名なんだけど。悪いな」
『全く悪びれているようには聞こえませんよ、主』
「下手でも契約は契約だからな」
『ええ、理解していますし、了承しての事ですから。本業、とは？』
　こいつは知識欲などという、人間にしても面倒なものを持ち合わせているらしいと、聞き逃さずに問いを投げかけてくるのを聞いて思う。疑問に思った所で大部分の人間なら、他の要素に気を取られてそちらに話を持って行く事になるだろうに。そうなるようにと、しているはずなのだが。
「……この言語を有効活用してる連中。俺の知る魔導師達。ほとんど母語のように扱う人達、の事だよ」
『主の世界の、方々、ですか』
「そうなるな。……さて、『ウィフト』」
　断ち切るように、名を呼ぶ。蒼い色が開かれて、白虎はすぐさま身体を起こした。喉の奥で低く鳴くのを聞いて、外套の中から一輪の紅を取り出す。
「『踏み締める極寒のもの』」
　白虎はゆるりと、瞬きをして。そうしてから花を持つ手に、額をすりつけるようにして喉を鳴らす。その頭を撫でた時には紅は消え失せていた。成立したらしいと思ううちに、ウィフトはシャールに眼を合わせて、何事か訴えるように小さく鳴き声を上げる。シャールが首を傾けるのが視界の端に見える。暫く、微かな動きと喉を鳴らすだけの会話を待って。
『……もう一人は、少し待って欲しい、だそうです』
「……あれの事か？」
　シャールがようやく翻訳してくれたのには、まだ地面で丸くなって眠っている一人を指差せば、ウィフトが首肯するような動作を返してくれる。森を越えて川に面した場所で、合流した仲間と戦った後に、まだ花も渡さず名も決まっていなかったにも関わらず触れただけでついてきたウィフトが、勝手に拾ってきたエンブリオ。昨日はそのまま休息のために意識を落としてしまったが。
「理由は、何かあるのか」
『力を失っていて、目覚めるまでに時間がかかりそうだと。似ているからよく分かる、と』
　見やる。少し、考えて、息をついた。そのまま立ち上がって、眠っているらしきそれを抱え上げた。人形、よりは少し大きい、腕に抱えてちょうどの大きさ。
「……やっぱり、属性が近いとそういうもんなのか」
　低い鳴き声。威嚇ではないそれは恐らく首肯と同じだろう。棍と、少ない荷物を拾い上げて、水を横目に歩き始める。
　
　
　

　
　
　ああ、と、声を零した。足を止めて、胸元のそれを押さえる。
「……ああ、来たのか」
　呟く。目を一度、閉じて。巻き込まれ巻き取られて行くような感覚のそのまま、任せて、全てを『閉じた』。
　
　
　

　
　
　
　川の端を、進む――

ここの出か、という質問には首を横に振った。

穏やかな語り口は、すぐに苦い笑みに変わる。

　問いは静か、おずおずと。――否、知る筈が無いのだ。それでも、聞かずにはいられずに。

彼の静かな返答に、ぱしりと瞬き、ことりと首を傾げながらも、耳を傾ける。
優しい、という言葉に対する言葉。僅かに読み取れる、思考の動き。的外れな謝罪の自覚。
一度言葉を整理するように目を閉じ、開いて。

ぺこりと一度、頭を下げて。

冬青の瞳が──胸元に置かれた手。服のその向こう側にある何かを見るように。
きっと、紫、が見えるわけでは無いけれど。以前にも、その仕草を目にした事があったから。

共鳴という言葉に、納得の色。そうして呪術師の彼の言葉を思い出す。この呪いは、どちら、なのだろうと。
けれど、それ以上深くを問う事はしなかった。大丈夫だと、言われたから。

頭の小さな衝撃に反射的に目を閉じる。
視線が離れて行く手を追い、最後の言葉の心当たりを探すように宙を泳ぎ、そうして彼の瞳で、止まった。

だから、大丈夫。と、積もり終えた雪のように静かに、柔らかな声音で。

思わず声が裏返った。

『よくないもの』なのは十分に知っている。
それをこの人にどこまで話して良いのか、伺うように顔を見つめて。

　その場に並んだ、自分以外の七人を見やる。ふむと軽く声を落とした。
　

　

　言いながら、得物――棍で軽く一度、肩を叩いて。
　

　まるで何の説明も無く、それを構えた。