どこからどう見ても三角形の立体的なチーズクラッカーを手渡して、赤毛にそばかすが目立つ女の子が微笑む。

　初めて作ってもらった魔力の籠った料理だ。強力だけど、いつも用意しておくような余裕はないから、使える場面はすごく選ぶ。どうしようもない時の最後の伝家の宝刀、ってやつだ。
　手を振って森の中に戻っていくベロニカに手を振りかえして、もらったチーズクラッカーを布で包む。
　鞄を開けると、中には森で拾った葵や菫、樅の枝に、それから小さな黒い小箱が一つ。

　あれから、ネザーは一度も姿を見せない。

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◇　◆　◇

　考えてみれば、ネザーが人を飲み込むこと自体は初めてでもなかった、と思う。
　僕は何度かこいつに飲み込まれ、その度に危ないところを助けられていて、けれどもこの間以来、ネザーはまったく姿を見せなくなってしまった。

　元気に声をあげるおねえちゃんの影が、たき火の炎でながーく伸びる。

　暖かいスープの入ったマグを持ってるトムが、思わずおねえちゃんをどうどう。
　おねえちゃんはそれでも嬉しいらしくて、水汲みから帰ってきたあっぷらの元へ駆け出していくと、あっぷらが水汲みの桶の重さなんて感じさせない軽さでひょいっとおねえちゃんを抱き上げる。

　一方、山登りから帰ってきたばかりのアルはまだ疲れが取れ切ってないみたいだった。

　アルが拾ってきた枝をときどき、たき火に足す。ペットのカリューがたき火の傍で、丸くなって眠っていた。

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　眠れなくて、毛布の中で何度か寝返りを打つ。皺になった敷布の上で、何度も寝返りを打っているとみんなを起こしてしまうから、一回だけ。

　呼んでも、ネザーは答えない。

　ずっとそうだ。あの日から、ネザーは一度も僕の前に姿を現さなくなってしまった。
　あの箱も変わった。前はぴったりと僕の手の中や鞄に現れたのに、今はわざとどこかに置いたり、忘れたりしてしまっても、すこし離れた位置に思い出したように時々、現れるだけだ。

　前はもっと、言い方は変だけど機械的だった、と思う。機械的で、自動的で、システマチックで、そういうルールだからそうしてるって言いたげな呪い。
　でも、今は違う。

　中途半端に離れた土の上に、ぽつんと置かれてこっちを見ているように鎮座して、小さな箱がある。さっき、川の側の石の上に置いてきた箱だ。
　箱を運んでくるのはネザーなんじゃないかって、ボクシーさんが言ってた。

　感情のある距離だ、と思う。
　ネザーは、僕の元に来たい。ネザーは、僕の元に来たくない。
　だから僕の元に現れる。だから僕に近づけない。

　呼んでも、ネザーは応えない。

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　ネザーシャドーという言葉を初めて知ったのは、村の童歌だった。
　言う事を聞かない子供に母親が、夜寝ない子供に父親が、そうやって誰でも聞いたことがあるような歌だ。村の大人たちが持ち出す、お決まりの文句。

　夜に村を出歩いたりすると、よく村の大人にそう脅された。でも、子供のころは僕はこの『ネザーシャドー』が、怖くて怖くて仕方がなかったのだ。
　ネザーシャドー、というのは別に妖怪でもお化けでも幽霊でもない。

　50年は遡るだろう昔、僕の祖父は教会に『魔王』と認定された腐食のエンブリオ・ネザーシャドーを、倒す――ことが出来ずに、大地に封印した。
　これは教会側にとっては想定していなかった事態だったらしく、腐食のエンブリオの力を封印した大地は突如として湧いたタールピットを中心に、次々と草花が枯れ土地が枯れ、やがてその一帯は終わらない冬の土地、冬枯れ郷として忌避されて、やがては土地の管理を買って出た男爵に下賜されプランタン西方領からも隔離された『イベール男爵領』になった。

　どうして僕の祖父がそんな役を買って出たのか、なんて僕は知らない。
　強力なエンブリオの持ち主だったのか、なにかすぐれた能力の持ち主だったのか、はたまたニューロの持つ桁外れの生命力を買われたのか。

　もともと、ニューロはメルンテーゼの住人じゃない。
　教会の記録に残されてる限りなら、僕たちは遠い遠い昔、豊かな土地に憧れてメルンテーゼへ出稼ぎにやってきた一族であり、ここに住み着いただけのよそ者だった――らしい。
　人と獣のあいの子のようなそいつらは、見た目は人間に近くて、でも、ちょっとだけ人よりもエンブリオに近い種族だった。
　人にもエンブリオにもなれない半端者のその種族は、どっちつかずの下級民として密航者のように匿われ、西方領の片隅でだけ、ひっそりと生きることを許された。
　あまりに昔の出来事なので、僕だって詳細なんて知るはずない。ただ、西方教会の記録にはそう残っていて、周りの人間にはそう語り継がれてる。
　そんな下級民の祖父が、どうして『勇者』の拝命を受けたのか。

　祖母に祖父の事を尋ねても、曖昧な微笑みが帰ってくるだけだった。

◇　◆　◇



◇　◆　◇

　寝つきが悪い日は、枕を持って祖母の元を訪ねた。
　僕はあまり肝の座ったやつじゃなかったから、昔はこの、ネザーシャドーの名前が怖くて怖くて仕方がなかったのだ。
　だって、僕の祖父はこのネザーシャドーを封印した本人だ。大いに恨まれているに違いない。

　ベッドの横の椅子に腰かけ、絵本を開いてくれた祖母が困ったように首を傾げる。
　それから、じゃあ、と言って、小さな声で微笑んだのだ。

　今にも消えそうなほどのかすかさで、祖母が囁く。
　ふっと遠くを見つめる瞳と、悲しげに一度だけ揺れた耳と、パタンと絵本を閉じる音。

-そして下山後-

へへへと笑いつつ湯屋の話に戻る。

薄い胸を張る。
風格があるかどうかは個人の判断に委ねる次第であるが、王族オーラ的なものは見受けられない。

首を傾いだ。
誰のことだろうか、と考えたが、この残念な頭では思い付かなかったようで。

ハッとし、ぽん、と手を叩く。
ここでひらめいた。 迷子、とはつまり、自分達のことであった。
そうなんだよ！って頷いた辺りで、彼が小さく笑み声を零すので、きょとりとした後、

ふにゃりと情けなく、笑う。少し恥ずかしくて、頬を掻いたりして。
ゆらり、顔を覗かせた彼のエンブリオには、わ、と小さく声を上げた。

驚かされっぱなしである。
先程教わった、彼女もまた、ニューロなのだろうか、なんて考えつつ、

やっぱり少し、恥ずかしいらしかった。そう、改めて言われてしまうと、だ。
名前についてはそう言って返し、そう言えば彼の名前は知らないな、と気付く。