風がひととき止んだ。
　風に呼応するようにしてアイヴォリーが閉じていた目を開く。ただ棒立ちしているかのように自然な姿勢で立っている状態から滑るようにして低い姿勢で走り込み、地を蹴る脚から短剣を抜き放つ。一度、二度左右に弾けるように跳び、不規則に自らの軌道を変化させながら間合いを詰め、一撃。
　ふ、と溜めていた気と共に吐息を漏らし、アイヴォリーは構えを解いた。目の前には仮想敵として使われていた、人ほどの大きさの枯れた木が一本。刃を傷めないために実際に斬りつけることはしていないから傷はついていない。いくらでも資源が使える処遇ならばともかくとして、今の彼にはダガーを整備するための資源であっても惜しい。
　幾度となく繰り返した訓練はようやく終わりにするのか、アイヴォリーは足元にあった手頃な石の上に腰を下ろした。既に辺りは暗く、彼らの野営で焚かれた火だけが彼を照らしている。彼の相方は既に休んでいて、アイヴォリーが腰を下ろすと辺りは完全な静寂に包まれた。
　幾度となく繰り返した型。幾度となく辿ってきた道。そもそも、今彼が置かれているこのメルンテーゼでは、彼自身がそう語ったようにこうした鍛錬はあまり意味を持たない。エンブリオが成長を司るこの世界では、こうして自らに鍛錬を課したところで効果がさほど得られないからだ。だが、それでもアイヴォリーはこうしてこれまでの、つまりそれ以前にいた世界でそうしていたのと同じようにして、無意識でも身体が動くほどに繰り返した型を一人でさらっていた。
　暗殺者だった頃から、気が遠くなるほど繰り返してきた。アサシンであったことを怖れ、憎んだ頃、あの島にいたときでも。皮肉にも、それは彼なりの精神集中の方法になっていた。無心で型を繰り返し、微妙に変化していくその派生をひとつずつこなしていけば、乱れた心はいつの間にか平静に戻る。それはエルフたちの中で暮らした間に得た精神統一の技術とはまったく異なる手法でのやり方だ。それでも、自らの能力を高める、正確には最大限発揮できるように身体と心を適正な状態に高める、エルフたちのそれとは違った方向でアイヴォリーの心を静かに保つ。だからアイヴォリーは幾度となく繰り返してきたのだ。既にそれは、彼にとって儀式にも似た、意味がないようでだが確かに存在するという、そんな行いになっていた。
　確かに皮肉だと自分でも思う。あれだけ酷薄で残酷な日々の中で残ったものが今、自らを平静に保つ役割を担っているのだから。アイヴォリーにとってその想いは、彼女に受け入れられ、自らでもあの日々を受け入れた今でも変わらない。他人に疑心暗鬼の芽を植え付け、誰かの欲望のために絶望に満ちた死神の指先として働くあの日々が与えてくれたものが、今こうしてアイヴォリーを宥めているのだから。それでも、今の彼にはたとえそれが自分勝手で利己的なやり方ではあっても、あの日々を受け入れるだけの余裕があるのは確かなのだ。

「さて……明日はキアイ入れねェとな。」

　熾火が爆ぜる音に答えるようにして、アイヴォリーは小さく呟いた。


　アイヴォリーたち二人の目の前にいたのは、缶詰が頭に乗った──正確には頭の代わりに缶詰が乗ったそれだった。見た目は明らかに別物だが、それは数日前に手痛い敗北を喫したあの銀色の円柱と同じ相手だ。

「あー、そういやああいうタイプもいたッけかねェ……。」

　数日前、手も足も出なかったあの敗北の味はアイヴォリーとて忘れていない。メイリーの魔術はことごとく弾かれ、手痛い一撃で自分を沈められて敗北したその日を。だが、それでもアイヴォリーは不敵な笑みを浮かべていた。

「アイ……やるのよ、ね？」

　右後ろからかけられるメイリーの声が強張って聞こえたのは気のせいではないだろう。二人ともあれだけの敗北を数日でなかったことに出来るほど能天気な精神構造はしていない。しかも今回は、その背後に浮遊する小さな少女の姿をした敵がいる。エンシェントレスト、これも光球の姿で何度も他の世界で遭遇したことのある相手だ。古代からの眠りを妨げられた怒りを振りまくそれは、その魔力の高さで初心者には荷が重い。

「ぺぴしめ〜ん♪」

「あ、アイ？」

　突然小声で、妙な抑揚をつけて口ずさんだアイヴォリーの背中を見て、心配になったメイリーが声をかける。いくらなんでも緊張感で壊れるほど繊細な心の持ち主ではないことを彼女も知っているのだが、それでも前回の敗北にどこかのねじが飛んでしまった可能性も否定できない。

「私と敵対したこと自体が、君の誤りだ。」

　腕組みしたままで高らかに宣言する缶詰男。その身体は筋骨隆々としていて謎のラインが入った銀色の衣装を盛り上がらせている。そこらの戦士でもその体躯には敵わないだろう。

「オイ、テメェは手ェ出してしょわしょわーとか言ってリャイイんだよ。」

　片眉だけを器用に上げて、またも意味不明なことをいうアイヴォリー。心配になったメイリーがもう一度彼に声をかけようとしたそのとき。

「アタマブチ抜いてゼロカロリーに入れ替えてヤッからカクゴしろ！」

　アイヴォリーが地を蹴った。