木の匂い、土の匂い、日陰にこもった水の匂い。
　森に入ってまだ浅い距離だな、と感じる風の温度だった。
　フィンと別れて、トートとティルムもいなくなって、後はトムとおねえちゃんと森で待ち合わせ。簡単な話だった。どこにも難しいことなんてない話だったのに、僕はいつもなら一日で歩ける距離を、半分も歩けないで木の根っこで丸くなっている。

　足元で、箱から延びた影から頭を覗かせるネザーが何回も足首の傷を舐めるのがくすぐったい。
　ニューロは基本的に、あまり怪我で困らない。ちょっとした怪我や傷なら、放っておいてもすぐに塞がるからだ。
　今回の傷も、フィンが念入りに水で洗った時にほとんど塞がったように見えたのに、時間が経ってから変な風に痛みが出始めて、とうとう、僕は一歩も歩けなくなってしまった。

　痛くて熱くて、喉が渇くのに動くのが億劫だった。身体を起こす時に足が痛むのも嫌だ。痛みって、こんなに嫌なものだったんだと初めて知った。
　でも、このまま何もしないでいても、自分以外には誰もいないのだ。

　顔を上げて体を起こそうとして、ビックリした。
　足元には、相変わらずネザーがいた。びっくりしたのは、その口の周りがいつもとは違う赤色で汚れていたことだ。
　足が真っ赤だった。傷がぶり返したような位置が特に赤くて、ネザーが、両腕で足を掴んでいるネザーがまるで、足を齧っているみたいに口の周りが汚れていて、

　もっと驚いたつもりだったのに、出てきたのは変な風に声がかすれた
　ビックリして、ネザーを振り払うように必死に反対側の足を動かした。足が痛いとか、出血がとか、そんな些細なことはまったく頭に入ってこない。片足が使えなくて、おかしな体勢で、変なバランスで、でも、僕は無茶苦茶に暴れた。そうしないと、絶対に僕は大変なことになってしまう気がした。

　思っていたよりも簡単にネザーは僕の足を離したし、僕は後ろを振り返る暇もなく、何とかネザーから距離を取ろうと苦心しながら土の上を体を引きずって別の木の根元まで逃げた。身体は重いし、足は力が入らないし、いつものように体を動かせない。
　木の根元に背中を預けて、振り返る。
　ネザーはまだ、同じ場所にいた。口の中も、周りも真っ赤で、血の跡が残った茂みの上で、じっと僕の方を向いていた。
　数秒か、十秒以上経っていたのか、よく分からないままずっとネザーと向き合っていた。どうしてだが、目をそらした瞬間に猛獣のようにネザーが僕のことを噛み千切ってしまうのではないかという考えがずっと頭を離れなくて、どうしてあの時、ほんのわずかな間とは言え、背中を向けていられたのかが分からなくなる。

　ネザーが動いたのは、急にだった。
　それも、襲いかかってきたわけじゃない。急にふっと雰囲気が変わると、そのまま、体をまるでけばだたせるように全身、形を変えながら揺らめいたあと、ネザーが大きなカーテンのように全身の形を変えたのだ。
　どろどろと空中に広がる沼のような、ぽっかりと顔を覗かせた夜空のような、大きな大きな黒い影が、まるで分裂でもするかのように四方八方に、何かを捕まえようとする猛獣のように黒い影を伸ばしていく。

　聞こえたのは、悲鳴だった。
　人の悲鳴だ、と思った時にはもう、体が動いていた。
　ネザーだ。それ以外に理由が思いつかない。それ以外のことを考えてる暇がない。
　ほとんど体を引きずって、転がり込むように茂みをかき分けて、その先で僕は見た。
　薄ぼんやりと明滅を繰り返すネザーの影と、その影に引きずり込まれ飲み込まれていく空中に伸ばした獣交じりの腕と、その周りで逃げ惑う三人のニューロと。
　ネザーは、一人も逃さなかった。

　慌てて声を出したけど、自分でも舌が回っている自信がなかったし、本当に声に出ているのかも自信がなかった。どこを見ればいいのか分からなくて、一人、また一人すぐに影が捕まえて、みんなみんな、真っ黒沼に飲み込まれていく。
　ネザーは今まで見たことがないような青白い明滅を繰り返しながら、影の中をあの赤い口を移動させながら、一人、また一人、あっと言う間にネザーの口の中に消えていく。
　苦し紛れにネザーの影の端を掴もうとしても、そこにはまるで固い地面があるだけのようで、僕を飲み込む気配もなければ、沼が広がってる感触なんてどこにもなかった。爪が何枚かはがれかけただけだ。

　最後の一人を飲み込まれていく。
　おおきな、くろいくろい影が、赤い赤い口をあけて、

　誰もいなくなったその場所で、もう一度ネザーが収束をはじめる。
　いつもの、少し不気味な、見慣れたネザーの形が戻ってくる。

　その場に近づこうとして、けれども、三秒も立たずにまた、僕はネザーに近づけなくなった。
　今度は、さっきの薄ぼんやりとした発光なんて目じゃないような、激しい明滅。
　青、白、赤、金、オレンジ、緑、明滅の度に色が変わって、激しい発光に思わず目を閉じた。でも、ここで目を閉じると本当に何も分からなくなってしまって、瞼の裏の闇がさっきまでのネザーの様に思えて、必死で手の平で目を庇いながらもう一度目を開けようとする。
　発光はすぐに終わった。次に来たのは、嵐だった。

　大きな闇が、暴れ狂っている。
　分裂して、分かれて、何十にも裂けて波のように広がって、渦巻くように集まっては泡のようにはじける。
　いつだったか、見たことがある。真っ暗な夜の湖が、嵐の風で暴れまわっているような光景。
　帯状にぐるぐると、不規則に暴れまわって、竜巻のように渦を巻いて、
　その最中に僕は見た。



　男、だった。
　嵐が逆巻く夜の沼の中で、男が一人、中心に浮いていた。暗闇の中で、目だけがきらきらと星のように輝いて見える。

　嵐が合計して、何秒ほどの出来事だったのかは分からない。
　あまりに激しい嵐で、僕は少しも近づくことは出来なくて、ものすごく長い時間だったのか、ほんの十秒ほどの出来事だったのか、判断することも出来なかったのだ。
　嵐が去ったあとの森は、ひどい場所だった。枝が折れて、茂みは掻きむしられ、土はえぐれ、ネザーが暴れ回ったあと一帯が不自然なほどの空間が出来上がっていた。
　男が去ったその場所にネザーはいない。
　ただ、二つ葉の小箱だけが森の中に不釣り合いに、不吉にそこに置かれていた。

　二つ葉のクローバーの花言葉は『不幸』なのだと、教えてくれたのは誰だったろうか。

にっこりとほほ笑んだノエルの顔を見て、やっと笑ってくれたと、笑顔になる。

そういうと天を仰ぐように、上を向く。

死霊術死という名を聞き、わずかに顔が陰る。

すごいやつ？と聞かれると、どうかなー、と言って笑う。

話をひとしきり聞いて、その間の嫌そうな顔も黙ってみていた。

仮面の下で雀がくくっ、と笑ったような気がした。

わるかったな、見た目で判断したりして、英雄。とつぶやいた。

敵意と呆れを露わにするノエルの言葉に、やれやれと溜め息を一つ。

いかにも自信に満ちた口振りを以って、講釈を終える。
そのままくるりと、視線をトムたちの居る方向へと投げかけて。

はたと、フィンの言葉が止まる。
片目を軽く開けて、まじまじとノエルの姿を見詰める。

気分を害した様子はない。
ただ、少しだけ、遠くを見た。

ひんやりとした感触を楽しむよう、ネザーシャドーに指を這わせた。

ノエル少年の叫びに対し負けず劣らず大きな声で叫ぶ。うるさい。
つめよるノエル少年とその言葉をしげしげと眺めた後、

なにやら考え込み、自分の耳たぶを揉んだり引っ張ったりしている。

すると突然ノエル少年の両手を掴み、トリーの耳へ無理やり持っていく。あまりに突然だったから、ノエル少年もうまく反応できなかったかもしれない。そして少年の手の甲に自分の手の平を重ね合わせて、耳をにぎにぎさせた。

あれ？と首をかしげて

これまでの流れで、青年はやっと「この少年は懐疑心がやたらに強い」ということを理解した。
単純な気まぐれで相手に奉仕することもある彼としては、なかなか面倒な話だ。

食事に付き合うとの言質が取れたためか、はたまた全く別の理由か。
2人の態度は今までとだいぶ異なるものになり始めた。

トガノと名乗った青年はハハハと高笑いをした。
一方、ハルシオンと名乗った少年は出会った当初と比べだいぶおどおどした感じで、気弱そうな印象を相手に与えるだろう。

気遣いのつもりなのか、どこか不安そうな顔を浮かべながら少年に問う。

微笑を浮かべる少年に目線を返すが、特に何かを気にするような素振りは見られない。
案外、単純な思考をしているのかもしれない。

なんともしまらない答えを返してきた。