「だいぶ伸びて来たな」
　川縁を歩くクーの上で、フォルカーはそう呟いた。
　クローシェの髪を撫でる指は決して繊細なものを扱うことに慣れているようには見えないが、クローシェにも分からない程度の《伸び》を理解できる程度には、彼は細かいことによく気づく。
「水のあるところにいる内に、切ってしまおうか」
　うん、とクローシェはうなずいた。
　応じるように膝の上のチビが頭を上げてひとこえ鳴く。この小さなエンブリオは、どんなときでも、どんな話にでも、必ず入りたがる困った性分なのだった。
　クローシェの脇から手を伸ばしたフォルカーがその頭を撫でてやると、チビは嬉しそうに喉を鳴らして丸くなる。
　そのうちにクーと、その横を歩いていた青年――確か刹那と名乗っていた――が相談の上で流れの緩やかな場所を探し出し、一行はそこで足を止める。随分離れた場所からでも、ふたりというか、二匹というか、彼らはきちんと水の流動を解する能力があるらしかった。
　足を止めたら、いつもそうするように、荷物片手のフォルカーが真っ先にクーの背中を降りる。
　次にチビをクローシェが抱き上げ、フォルカーの腕に手渡す。
　最後にクローシェ自身が拡げられた父親の腕に飛び込むようにして、クーの背中の上を空にした。
　更にぶるりと身震いを見せたクーが腹回りの毛並みに鼻先を突っ込んで、必要な荷物を引っ張り出す。
　フォルカーが持って降りた荷物は鍋やその他の食事周りの入った鞄、クーが出したのは布に包まれた身繕いのための一揃えだ。
「何かすることは？」
「水を汲んで来てもらっていいか」
　了解の意を告げて、刹那は颯爽とクローシェ達の側を離れる。
　それを見送ったフォルカーは包みを解き、中から取り出した手拭いをクローシェの首へと巻いた。更にその隣で、クーは尻尾を振ってチビをあやしている。
　虎の赤ん坊であるチビの体つきは、未成長の幼獣特有のアンバランスな足の太さ故に、普通の猫と比較してずいぶんずんぐりしたものだ。けれども動きはそれなりに素早く、力は猫よりもうんとある。
　クーがなんとなく気だるそうな顔をしている理由は、クローシェにも推測がついた。
　彼らを横目に、フォルカーが小さく苦笑しながらは鋏を用意し、そこへ刹那が戻って来る。
「他は？」
「特に無いかな」
　刹那は小さくうなずくと、クーの尾を捕まえて齧り始めたチビの方へと歩いていく。
　彼の手がチビを捉えると、きゃあと嬉しそうな声がチビの口から漏れた。
　一連の出来事を見やったフォルカーが、改めてクローシェの髪と向き直る。
　――この大男は自分の見てくれには気を使わない割に、ひとの見た目を整えることはどちらかといえば得手としていた。クローシェについても同様である。
　折角可愛いのだからと笑いながら、彼は解いたクローシェの髪を水で濡らし、鋏を入れて、丁寧に長さを整えていった。長さが整った後は梳り、目立たない部分の髪を切って嵩を減らし、汲んであった水で切った髪を洗う。
　十分に濯ぎ終えた頃に再び刹那がやって来て、彼は何を言われるより前に汚れた水を捨てて来てくれた。ついでに新しい水を汲んで来てくれたから、フォルカーは手刀を切ったその手も洗う。
　更にエンブリオに頼んでクローシェの髪を乾かした後は、元の通りに結い上げて、「髪を切る」という大仕事は完了した。
「クローシェは毛を切ったの？」
　遊び相手を務めていた片割れ、刹那がいなくなってしまったチビは、クーと遊ぶことにすぐ飽いてしまったらしかった。ちょこちょことクローシェの膝の上に登った彼は、尾を立ててフォルカーの手許を見やる。
「人間は切るんだよ、伸びるから。チビは虎だから、そんなに伸びないさ」
　言いつつフォルカーは鋏を仕舞おうとしたが、
「ぼくも切りたい！」
　チビはほとんど体当たりするような身体であるじの膝へと移動してしまう。
　フォルカーは助けを求めるように獣であるクーを見たが、クーは寝転んでごろごろしているばかりで役に立ちそうには見えない。
「よし分かった」
　苦笑しつつ助け舟を出したのは、刹那の方だった。彼は手を伸ばしてフォルカーの鋏から受け取り、膝を叩いてチビを呼ぶ。
　よちよち歩きの割には意外と俊敏な動きで刹那の膝へ移ったチビは、嬉しそうに喉を鳴らした。
　いいのかと目線で尋ねるフォルカーに手を振って応じ、刹那は手許で鋏を開閉する。しゃきんと鳴る刃の音に、チビは尻尾を立てて興味を示した。
「どうするの？」
　クローシェも刹那の傍らへ寄って、チビと鋏を見比べる。
「もちろん、切るよ」
　事も無げに答える刹那に不安そうな一瞥をくれてから、フォルカーは鞄の中を漁り始めた。
　そういえばそろそろ日が中天を過ぎてだいぶ立つ。何か用意する心算なのだろう。
「まずチビの頭を押さえて――」
　クローシェは言われた通りにチビの頭を押さえる。
　続けて刹那は素早くチビの首にタオルを巻き、耳許からちょっぴり離れたところでまたしゃきんと鋏を鳴らした。
　更にもう少し離して、また鳴らす。
　そうして段々と鳴らす位置を尻の方へずらして行って、最後に尻尾の端っこの毛は本当に鋏を入れた。丸かった尾の先っぽの毛並みが、随分平坦な形になった。
「ハイ出来上がり！」
　刹那がそう言ったのと入れ違いに、押さえていたチビの頭を離す。
　チビはすぐに頭を上げ、タオルを外してもらってから、自分の尻尾を見て歓声を上げた。謝礼も言わずにフォルカーの元へと駆けて行き、
「にあう!?」
　と尻尾を見せてから自慢気に吼える。
「おう、……いい感じになったな。悪かった」
　また手刀を切るフォルカーに手を振って応じ、刹那は包み布の上に鋏を置いた。それから立ち上がってフォルカーの肩越しに、フォルカーがしていた作業を覗き込む。
「それは？」
「ドーナツ。今日のおやつだ。もちろんそっちの分も用意がある」
　今度は刹那が小さく歓声を上げた。
　それからわざわざクローシェのところへ戻って来て、肩車までしてフォルカーのところへ連れて行ってくれる。
　少し前、刹那は「主夫の話は分からない」と言っていたけれど、分からないということも無さそうだとクローシェは今更のように思った。

何か疑いの目を向けている自称悪魔に「余計なことは言うなよ」と視線を送り
優しく少女の頭をなでる

【前回を思い出し中】