近くの岩陰にミモザを降ろし、フィアに様子を見てもらったが一向に目を覚ます気配はない。周囲には剥き出しの巨大な岩があちらこちらに聳え立ち、通りすぎる風の唸りには獣のそれが混じっている。休ませるにはあまりにも向かない場所ではあったが、選んでもいられなかった。
　既に毒も消化され、肉体的には何の問題も残っていない。エンブリオから伝わる情報をたどたどしく伝えるフィアの表情は、モノ創りをしている時とは正反対に困惑していた。
　最初のうちは誰かしらが気紛らわしに雑談を持ち掛けていたが、そんな心持で長続きなどするはずもなく。術の行使の疲れもあるフィアは蹲って顔を上げようともしないし、進んで話すことなど滅多にないナビもいつも通りの沈黙を守っている。
　そうしているうちに、ここに訪れた時には赤く燃えていた大地も暗く淀み、一行を覆い隠す影とさほど色合いも変わらなくなっていた。

「先に野営地点に戻ってくれ。…突然倒れたミモザを動かすのはまずい。俺がここで見ている」

　そう告げた言葉のどこまでを額面通りに受け取ったのかは分からない。それでも二人は特に異論を差し挟むことなく去っていった。
　……バイクの駆動音が聞こえなくなってから、半刻ほど待つ。辺りに人の気配がないことを確認してから

「――っ！」

　行き場のない感情と共に、拳を思い切り地面へ叩きつける。エンブリオの力で強化された肉体が、容易く同じ大きさの穴を開けた。
　とっくに分かっていた。
　薬物が引き金になったのは間違いないだろう。だが、きっかけはきっかけに過ぎない。フィアが治療できなかったのも頷ける。
　なぜなら――失った“中心（こころ）”を取り戻すことなど、いかなる奇蹟でも不可能なのだから。
　ミモザが幻覚に苛まれている最中、しきりに呟いていた名には聞き覚えがあった。あの時――ヒイラギ達との手合せの日にも、確かに口にしていた。ナコリ、と。そう何度も。
　きっと、そのナコリという人物と父母こそが彼女の中心なのだろう。それは、分かる。しかし。
　
（どうして、今になって）

　この世界に訪れたばかりのミモザからは、何も感じ取ることができなかった。言葉も、表情も。何もかも薄っぺらで、貼り付けているだけ。
　そういった印象を裏付けるような彼女の態度から『終わってしまった』のだろうと直感した。詳しく聞いたわけではないが、共に過ごす時間が長くなるにつれて、その勘が正しかったことを確信していった。
　本当は、思い残すものがあった。そういう考えもあるだろうが、ミモザに関しては絶対にありえないと断言できる。
　あの手。ナイフを握るにしては肉刺もなく、少女の繊細さと柔らかさを保ったままの暖かいミモザの手。それは彼女が尋常なさざる道に踏み込んでから日が浅いことの証拠だ。にもかかわらず、ミモザは高い戦闘能力と決して少なくない経験を併せ持っていった。
　おそらくは――ミモザ=ブルーメンタールは何らかの理由で裏の世界に身を投じざるを得なくなり、そして、それからも大事な“中心”の為に抗い続けていたのだろう。
　そんな彼女が。諦観に沈むことなく、戦ってきた『強さ』を持つ彼女が。僅かでも可能性が残っていたのなら、ただ逃げ出すために異世界を彷徨うことなどあるだろうか？
　
“Humpty Dumpty”

　……割れて飛び出た彼女の中心は、完全に砕け散ってしまっている。
　だからこそ、思う。
　自身を他者の『道具』と自称するまでに抜け殻となっていた少女が、今更焦がれることがあるのだろうかと。
　ひとつひとつ、今までの出来事を思い返していく。呼び覚ます原因は、どこにあったのか。『普通の少女』の演技が、いつから『昔の彼女』へ変わっていたのか。
　――答えは、すぐに見つかった。

「……はっ、」

　半開きになった唇から、空気が漏れる。ひゅうひゅうと乾いた音が鳴るだけで、どれほど喉を動かそうとも失った酸素を取り入れることができない。
　ミモザが命令と関係なく行動したのは、一度きり。あの祭りの夜――壊れかけた花冠を手に取りヘイアンに微笑みかけた。あの時だった。
　思えば、以降のミモザは実に人間らしかった。エンブリオとの同調不全に悩んでいた時も、彼女の方から声をかけて対処法を教え、更には励ましさえしてくれさえした。
　あの夜のことだけで、とは思わない。情報収集の傍ら、数多くの人に触れ、その中で昔を思い出し硬く閉ざされた蓋が緩んでいたのだろう。
　だが、どちらにせよ、結局は――。
　
「はは、なんだ――またか。また……」

　何もかもを、“それ以外”を求めず、拒み、ひたすらに牙を研ぎ、『力』を手に入れた。そう思っていた。
　だが、実際にはどうだ？
　教会に保護されてからは、厳しくも暖かく接してくれたあの男に。黒服を身に纏ってからは、血泥の中でも輝きを失わず、全てを受け入れて人民の為に剣を振るっていた青年に。
　そして――この世界に訪れ、最初に出会ったミモザへ勝手な共感を抱いて己の慰みとし、挙句の果てに縋りつき甘えた。
　これが、全てだ。
　いくら身体を鍛え、武器の扱いを覚えようとも、ヘイアン=ディヴァータの本質――『弱さ』は何も変わってはいない。その結果が、この様だ。
　……今さら悔やんだところで、どうしようもない。“あの時”と、同じ。
　それでも。

「…………変わったものも、ある」

　フィアに作ってもらったものではない、元々の世界から持ち込んだ剣を腰から引き抜く。
　エンブリオの能力は親和性が高い方が引き出しやすい。その原則は生物のみならず、手にする武器についても適用される。そのため、メルンテーゼで集めた材料で装備を整えてからは、戦闘で用いたことはなかった。
　雲の切れ間から現れた月が、一点の曇りもない刀身を照らし出す。鏡のようなその表面には苦しげなミモザの表情が映っている。ちょうど心臓部に描かれた意匠が、呼吸のたびに歪んで揺れた。
　黒の象徴である“刃蕾の紋章(レーム・ブルージュ)”は、その名の通り抜き身の剣が開きかけの蕾を囲ったデザインとなっている。民衆の未来が花開く前に潰えることのないよう、守る役割を担っていることを端的に示した紋章。一般にはそう言い伝えられているのだが、黒を現すには不十分だ。『守る』というのは、あくまでも一面にしか過ぎない。
　刃蕾に込められたもう一つの意味は――『刈り取り』。被害を増やさないため、また、これ以上苦しませないために吸血鬼の犠牲となった人々の命を手折る。片刃ではなく、“両刃”。吸血鬼狩りとは、そうでなければならないのだ。

　「悪い。……約束、守れなかった」

　ヘイアンの誘いをあっさりと承諾し、道具を自称した彼女が口にしたたった一つの望み。それは、生きることだった。
　何もかもを失くしたはずの彼女が、それでもなお生に固執する。その理由は、大切な誰かが遺したものにあるのだと思う。
　それはきっとミモザの中に残った“中心”の欠片だから。束の間の関係であっても、大事にしてやりたかった。あまりにも旅に向かない格好の彼女に上着を与え、魔術のことを訊ねる傍ら、見知らぬ世界で生き抜くために必要な知識もそれとなく教えた。
　だが、それもここまでだ。
　穴を再び開いてしまった彼女は些細なきっかけで昔を思い出し、その度に心を軋ませてしまうだろう。その亀裂は認識できないまま広がり続け、やがては限界に達する。
　今回とは異なり、意識を保った状態でそうなった場合ミモザがどうなるか――想像もしたくない。
　
　この先、彼女を待っているのは苦しみだけだ。ならば……終わらせる。
　
　今までずっとそうしてきたようにゆっくりと刃を降ろし、喉元へとあてがう。もっとも柔らかく、一瞬で済ませることができる箇所を確かめてから腕を振り上げ――

「ぐ、があああああぁぁっ」

　その瞬間、視界に火花が散った。
　経験したことがない程の、激しい頭痛。下手にミモザ傷つけないようにかろうじて剣を投げ捨てたところで僅かな力も入らなくなり、その場に倒れ込む。
　自分のものではないかのように小刻みに震える指先を、どうにかして注射器の入った内ポケットまで導こうとしたところで気付く。
　この、内蔵を引っ掻き回されるような異物感は。

「エン、ブリオ……っ！ 」
（――……、……、…………）

　認識した途端、砕けんばかりに脳髄が軋む更に奥から遠鳴りが響くのが分かった。殆ど雑音に近く、ヘイアンに通じる言語なのか、そもそも言葉であるのかすら判別はつかない。
　それでも――理解はできた。理解できたからこそ、激しい怒りを覚えた。

「ふざ、ける、な……。なら…っ、なら今すぐお前がミモザに救い　を与えてみせろッ。出来るのか？！　出来ないだろうがっ！ 俺は　お前と同じにはならないっ。あの日――あの日を繰り返すのだけ　はっ　ただ見ているだけなのは……もう、嫌なんだぁぁぁッ！ 」

　ぶつん。
　振るった拳が岩にぶつかり、皮が裂け血が噴き出すのに混じり。
　何かが切れるような、音がした。

――・――・――・――・――

　紫と朱のコントラストが目を焼く。
　痛みに苛まれている時間は思った以上に長かったようで、既に夜明けが近いようだった。

「早く、すませないとな……」

　気怠い身体に鞭を打ち、辺りを見回して地面に転がった剣を拾い上げる。
　今度こそ、邪魔は入らない。これで終わりにする。
　そう決意してミモザへ向き直ったところで、吐息が聞こえた。

「……ん……ぁ……」

　身動ぎだけではないらしく、微かに唇が震える。　きっと、なくした“中心”の思い出に浸っているのだろう。
　それでいいのかもしれない。終わりは、幸せな夢の中で――。
　せめて最後の言葉くらいは覚えておこう。そう決めて、ぐっと刃に力を込めて構える。

「――――」

　軽く開いた唇の端が横に伸び、また丸く開いて、閉じる。
ごくごく小さな、風のざわめきに掻き消されそうな声。
　聞き間違えだったのかもしれない。それでもその呟きは、疲弊したヘイアンを頽れさせるにはには十分すぎるものだった。手から滑り落ちた剣が、からんと音を立てる。

「……すまん。ミモザ、本当に……すまない……ミモザ……」

　血や土で汚れどろどろになった掌で、少女の小さな手を包んで持ち上げる。それから自身の額にあて、ひたすらに詫びた。また、また何もできなかった。

　あの夜くれた温もりを、もう少しだけ感じていようと。
　壊れないようにそっと握り締めて、きつく目を閉じた。

皮肉めいた口調で小さく付け足し、溜め息を吐く。

挑発めいた問いかけ。
その真意は、不安か、期待か……。