アナスタシアの研究室。
彼女が生まれ育った世界、その王都と呼ばれる一角に聳え立つ小城の内。
そこそこの広さを無数の本が埋め尽くす空間で、彼女は１人悶絶し、ひたすらに頭を掻いていた。

実体ごと来れるよう、考えて。

フィリアが突如としてアナスタシアに告げた注文。
平時の彼女なら一笑に伏したであろうそれに対し、


別に、いくら一揆を無理強いしているからといって、彼女の言う事を全て聞くわけではない。
それこそ、無理難題なら断るつもりではいたし、実際の所、今回の予定を前倒しにする形での依頼など、その無理難題に値するだけの注文だった。

ただ、アナスタシアにとって、それはフィリアから初めて寄せられた注文だった。

フィリアの、雑としか言えないアナスタシアへの注文。
実のところそれは……詳細を説明するより遥かに、彼女への催促として抜群の効果を持つもので。




ふたりいっき。
〜第十更新『世界と時空と異世界と』〜

そう、深く溜息を零すと、アナスタシアは洋紙の束を投げ捨てた。
そこに記載された無数の術式、その悉くが実験の果て、役に立たないと判断された廃棄物。

そもそも、世界間移動という言葉は、彼女の世界ではメジャー極まりない事象だった。
意図的、偶発的を問わず、定期的に発生する世界移動。
原理こそ確立されていないが、事象として存在するのなら、それを意図的に起こすなど意とも容易く行える事だろう。

……実際の所、そう思っていたからこその油断が、現状を招いているとも言えるのだが、アナスタシアが油断するのも仕方がないと言えるほど、彼女の世界は稀有極まりないバランスの上に生きていた。


鏡合わせの並列世界、現世と幻世。
『身近な異世界』として存在する、隣り合わせの並列世界。

その２つの世界なら、神と呼ばれる超越存在は勿論のこと、移動術式を身につけている者も居れば、何の能力も無い者が世界の壁を越える事さえままあること。


だからこそ。
アナスタシアは、その大多数が異世界だと定義する別世界のことを、『世界』という枠組みの内にある物だと、そう信じている。

対して……今正に彼女が手を伸ばしているメルンテーゼ。
他にも何件か、時空間図書館レベルの文献に存在を記される、俗に言う『分割世界』のそれこそが、世界の枠組みの外にある異世界、別の時空だと、そう認識し定義している。


それでも、基盤となる技術があるからこそ、それさえも問題なく行える、少なくとも自分ならその術を見つけられると、アナスタシアはほんの数日前まで思い込んでいた。

溜息交じりにひとりごち、改めて現状を整理する。

メルンテーゼへ物質を送り込む技術は、幻世現世間で物品を送る方法をそのまま流用できた。
それが、魂を持つ生命体に転用できないのはおかしいと、最近はやっきになっていたが……それが恐らく関係無いと思える程に、彼女は思いつく限りのありとあらゆる術を試していた。

そう、声として発声することで、アナスタシアは改めて、その事を脳裏に深く叩き込む。
幻世、現世とは話が違う。
確かに、あの遠くて近い隣り合わせの異世界と、分割世界の数々は毛色と様子が違いすぎる。

本当の意味での異世界。
移動法が確立されていない、別の時空……。

あくまで、誰も居ない研究室で唯一人、呟いているだけに過ぎない。
だが、それは対話以上に彼女の思考を一つ一つ、指向性を持って整えて、新たな結論へと辿り着く。

アナスタシアは慌てて立ち上がり、今し方投げ捨てた紙束の元へとかけていく。
筆跡の新しい物を千切っては投げ、千切っては投げ……その奥底、自分でもいつ記したか思い出せない程、遥か過去に忘れ去っていた未完成な術式へと手を伸ばす。

思わず語気を荒げながら、興奮した様子で叫ぶも、それに答える声は無く……。

――それは、かつて数多の神が試み破れた禁忌の術。

――それは、かつて第三の神位を持つ神、『２人』の神が或いは試み、或いは願った、運命改変の極地にして、決して叶わなかった世界移動。

――時間軸移動……過去への、介入。





＋

フィリアは新調した竹槍を一度見ると、改めて拡がる庭へと視線を向けた。
そこに待ち受ける、元騎士団長を名乗る屈強な庭師。
見た目そのままの勢い頼りな物理攻撃に呆気なく敗れてから早数日。

一揆の成功など、心の底からどうでもいいと思っていた。
自分の行動が何を成そうと、それに対しアナスタシアが何を思おうと、自分は一切気にしないと、そう思っていた。


あの、夏祭りの日。
笑みながら消えていった『アナスタシア』が脳裏を過ぎる。


一揆のことなど、一言も口にしなかった彼女のことを。
ただ、自分自身に自分自身を救わせろと、それだけを懇願した彼女のことを、思い返す。

もしもアナスタシアが、自分の知るアナが、あの子と同じよう本音を打ち明ける事があったなら。
その時になってから一揆に本腰を入れたとして、到底間に合う物ではない。

それは、フィリアが抱いた小さな予感。
アナスタシアは恐らく、世界の崩壊を、自分自身の消滅を、こちらの世界へ移動することで切り抜けるであろう。
その極地において、あの子はきっと……自らの目的を話すだろう。

そんな予感を、そうなった際、自分が返すであろう答えを、頭の内に抱いてみる。

自分でも驚く程、あの露骨に隠し事が分かりやすい少女のことを気に入っているのだと。
その思いを、静かに握る竹槍へと籠めながら。

まるでそんなことは考えていなかった、と言わんばかりの表情。
商人としては抜けているらしい。

気がつけば、お互いにブランチマンの前だ。

さほど流暢でもない言葉を並べながら、男が口角を上げる。
ゆるんだ頬がにわかに盛り上がった。

腕を確かめるような動きを追った視線も、
すぐにその顔に向けられる。