
これは記だ。当然のことながら。
湯沸かし器を新調した。
それも、ただの湯沸かし器ではない。スイッチ一つで勝手にお湯が沸くハイテクノロジーな代物だ。寒い部屋で一人孤独に湯を沸かす自分のことを見かねた上司が提案してくれたもので、確かに冬場は辛いものがあったため、素直に厚意に甘えることにした。話が決まるや否や善は急げとばかりに年末にも向かったエンジョイなんとかというホームセンターに向かうと、大小様々な湯沸かし器を物色し、大きすぎず小さすぎないちょうど良いサイズのものを購入した。押すのがスイッチなのかボタンなのかについては少々論議があったが、普段から円滑なコミュニケーションを心掛けている上司とは円満に解決することが出来た。
年の初めからお金を使うと、その年は散在するという言い伝えもある。しかし、金で生活の質が向上するならばこの手の呪言は甘んじて受け入れるつもりだった──どうせ経費だし。人類の歴史は退化の歴史だ。人は楽をするために科学技術を進歩させ、昨日より明日を楽に生きるために生きてきた。この一杯のカプチーノは歴史の到達点であると同時に、明日にはこの手間すら面倒に感じてしまう退廃の象徴となるだろう。人の欲に限度はないのだから。
スイッチを入れて数分後、ごぼごぼと水の茹る音とともに蒸気が吹き上がる。部屋はまだ寒く、蒸気の量もかなりのものだった。うかつに近づけば一瞬にして眼鏡が曇ってしまう。一瞬とはいえ視界を失うのは極めて危険だが、流石に速度はガスよりも圧倒的に早い。必要なリスクとして受け入れる必要があるだろう。
カプチーノを淹れて飲んだ。クソ寒い中、出社して朝一番に水を汲んでヤカンを火にかけガスで湯を沸かして飲むコーヒーよりもはるかに手がかからない上、魔法瓶に移し替えて冷める心配もない。熱々の熱湯をすする羽目になってまたもや火傷しそうになったのと、その際口元にひげが出来てしまった姿を見て、上司は静かに笑っていた。カプチーノは妙に美味い気がしたが、それは胸の中にしまっておいた。
物事には順序がある。コーヒーを淹れるためにお湯を沸かすように、楽にお湯を沸かすために湯沸かし器を買うように──会話をするためには、何をこなす必要があるのだろうか。長くはない付き合いの関係とはいえ、まさかコミュニケーションの根源について悩まされることになるとは思っていなかった。
「……ここまではわかるかしら。」
「ええと。話は理解しました。概ね……」
「そう、なら、今日の戦闘で必要な物資をキチンと集めること。私からはとりあえず以上よ。何かあるかしら」
まともに報告すら出来ないというのは、最良から最悪まで予想していた状況のひとつではあったが。それでも単に想像でしかなかったことに比べれば、実際にそうなってしまったのとではわけが違った。チャット越しの仮想的なやり取りにはなかった、直接対面して初めて得られた言外の反応は、彼女が貫く言外の拒絶を雄弁に物語っているような気がした。矢継ぎ早にまくし立てられる言葉の数々は、無難な言葉の相槌で勢いが衰えるのを待っているうちに、気づけば会話が打ち切られている。何か意見はと言われても、それは事務的なやりとりであって、本当に意見を求めているわけではないようにすら感じてしまう。
「危機意識については、僕も茅芽さんと共有しているつもりです。こんなところで、死にたくないですし。それに──」
取り付く島もない態度について、当初は不慣れからくるものと思っていた。慣れない環境での苛立たしさ、ストレス、ハザマへの拒否感。そういったものから生じた、いわば八つ当たりのような拒絶だと。事実、イバラシティにおける彼女の印象と比較して、目の前の彼女はあまりにも血色が悪かったため、単なる不健康というよりは精神的なものだろうと予想していた。
しかし、そうではない。そうではなかったのだ。合流すれば何とかなるという過去の甘い幻想は既に朽ち果て、孤独よりもはるかに厄介な問題を抱え込むことになってしまった。有有有利有利有利(アドアドアドバンテージテージ)が、最悪の──これから先が良くなるという前提だが──、あるいは最善の仮説を囁き続ける。彼女の態度が何に根差したものなのか。確かめるには、相応のリスクを支払う覚悟が必要だった。愚かにも、触れずに黙って気づかぬフリをしていたとしても誰も責めないような、絶望的な直感の答え合わせをする覚悟が。
これから口にする言葉は、賭けにもならないと分かりきっていた。全てが終わったゲームにベットするのは愚の骨頂だ。強化された異能が囁き続けている気がした。言葉が多いと言われたのはどこの誰だ。絶対にやめろ。碌なことにならない。
「争事、向吉。誠意に答えよ……”おみくじ”にあった通り、しっかり対応さえすれば、リスクは減りますしね」
抱え込んだ問題は、その複雑さとは裏腹に、皮肉にも明瞭な名前を持つ。
不安、という名を。
戦闘があったのは、渡りに船だったかもしれない。
謎の適性存在ナレハテに続く敵たち、そして話には聞いていたアンジニティ側の人間との決闘。事態への対処という形でやむを得ず行われた二人の初めての共同作業は、二人の間に横たわるであろう暗く深い溝を埋め、つかの間の結束をもたらした。良くも悪くも、悩むことなく頭を空っぽにすることが出来る。
(あまり、深く考えすぎない方が良いのかもしれない)
ワイヤーを振るい、時にワイヤーに使われながら、襲い来る敵を捌いてゆく。無論、笹子さんの存在は常に気にかけながら。ここにいるのは二人だけ。場所が違えばロマンチックなシチュエーションだったかもしれないが、いかんせん場所は違わない。暗く冷たい現実の上で、擦り切れるほどに踵を鳴らし踊り続けている。
心当たりのない問題に悩み続けるよりも、戦っている方が気が紛れる分いくらかマシに思われた。勝つか負けるかは別として、戦いは終わる。一度はまってしまった思考の沼はそう簡単には終わらない。終わりの見えないトンネルを好む人間はいないだろう。
””あの””笹子さんが何を考えているのか、自分が何を考えているのか。もしくは端的に、どうすれば良いのか──分からなくなってきた。つい先刻までの楽観的な、合流すれば笹子さんが何とかしてくれるに違いないという他力本願に逃れられていた頃が既に懐かしい。
直感は囁かない。異能リソースが戦闘に割かれているのだろう。凡人程度の身体能力しか持たない身にありながら、こうも上手く立ち回れているのは異能のおかげだ。危険が迫れば察知して回避する。有効打の通りそうな場所に気づく。断続的に迫る無数の選択肢の中から、直感の赴くままに答えをはじき出し続ける間は、抱えた不安から解放されることが出来る。
答えを待つのが怖かった。彼女の態度の原因が、自分そのものへの拒絶だと判明してしまうのが。
怪談が嫌いなのは嘘だ。不要な恐怖を自ら生んでしまう、己の愚かさが嫌いだった。