人であることと神であることの違いを試行によって知らされている。
神として在ったときと環境から異なるとはいえ。
そう、『環境』。それ自体が人と神とは異なるものだ。
人である「曇食日」とは、愚かで哀れだが、並び立つものを得た。
神とは異なる精神性がそれをゆるすのだろう。
神であるわたしはどうか、といえば、曇食日の意識で体感したそれを、自らの思考で「再生」できない不自然さに首を傾げるばかりだ。視界のない生き物に空の色を教えるが如く、実感は経験を楔にしてすらなおこの身に馴染まない。神は人を理解できない。わかっていたこととはいえ、掴めていたものがそうでなくなるのは、なるほど無価値を証明するかのようだと笑みすら浮かぶ。
神の精神性は並ぶものをゆるしはしないし、そもそもそんなものが必要になる環境ではない。
神には、得られるものなどなく、与えるだけ。
いや、与えられすら、しないのだ。
結局のところ、
「わたしにとっては」すべて無価値。
わかっていることだ。はるかな昔から。
歩く、という作業に時間を取られるのはどうにも気にくわないものがある。
そもそも慣れていないことを、戦争の最中にすべきではない。
縁のあるものを呼び、移動する拝殿を設け、同行者を住まわせることにした。
家電製品やらなにやらが紛れ込むのは私の権能というよりは、才能に近い分野の問題であるが、いわゆるセンスの問題は如何ともし難い。この手のことにはリーの方が慣れているとみえ、形をそれらしく整えるのはあちらに任せた。
「は?こんな場所に集合すんの?もっといい感じにならないの。するね。」
……言われてみればそれはそうなのだし、リーが整えた外形は、なるほどたしかに、神と人とが共存するに相応しい姿をしているようだった。かといって同じようにしようとすると、なぜだか知らんが洗濯機とか脱穀機混じりの柱が生えるので、もうたぶんこの手のやつはだめなのだと思う。元々私のいた社が不法投棄業者の蔓延る醜い山と化したのが原因のひとつではあるとおもうが、どうにも、私は神気を操るのに不器用であるようだ、というのが、比較として明らかになった。かなしいになってしまった。
やがて、人と、その他。
私の眷属と……同行者、それから、『曇食日』が己を明け渡したものを呼びつけ、私の拝殿は成った。
正確にいうならば、それは明け渡したものの、本来のすがた、というべきであろうし、私にとっては未だ興味の範囲を脱してはいない対象ではあるが。
だが、それは、主神から捨てられ、新しく捨てられることを厭うようであったし、……ここは、私の拝殿なのだから、
捨てられたものが行き着くのは、当然なのだろう。私とて、そうなのだから。
やがて、ヒトが、神の使いが、どこかへ飛び立つにせよ。
私は何も拒まず、何も捨てない。
去るものを許さず、呪い、恨み尽くす、とはいえ。
信仰を失った神の伸ばす手が届くかどうかも、今となっては知れた話。
そんなものは、届かない。
何にも。どこにも。
『神は何も救わない』。
ヒトはそう口にするのだと、曇食日は知っている。
そうとも、救いなどしない!そのための手段などどこにもありはしない!
こうして、ここに、在るだけだ、それすら証明もできないままに!
だから、ヒトよ、すべてよ、堕ちるがいい。
私のもとへ、堕ちてくるがいい。
触れられるのなら、二度と逃しはしない。
叶いもしない願いを抱いている。
赤い空と赤い土、この場でなら、僅かに、触れられる願いだ。
幾度となくそれをなぞる。私の願いはこんなかたちをしている。
私はこれを再び失うのだろうか。曇食日が得た感覚を失っていくように。
私は私を失うだろうか。
それは神の死と、呼ぶのだろうか。
私の願い。
胎廻洞。
由来は、今の私の権能と同じ。
イバラシティ、で得た虚構の嬰児が現実に楔を下ろした、その信仰。
在るだけの、意味を持たない、叫びのような原始的な祈り。
それを糧にして、醜い社が育っている。
やがて醜い花を咲かせ、根付いたこの地に祝いを与えよう。
虚無に堕ち、私の腕に抱かれて眠れ、私を知らぬヒトよ。
「示せ、娘らよ。ヒトの渇望を。神の恩恵を広める土地を。」
「次なる戦いを始めよう。我が腕に抱かれて眠る子を、その渇望によってえらぶがいい、娘らよ」
拝殿は赤い土地を這い、百足に似た跡を戦場へ遺す。
ごうごうと風が吹くなか、二人の娘が割れ鏡越しの景色を指さした。