
ゆらり、ゆらり、と闇の中で白い灯が揺れる。
瞬きをするうちに消えてしまいそうな、ひどく小さな光。けれども、闇に慣れた目にはあまりにも眩しい光。
懸命にもがき、重い手足を動かす度に光は少しずつ強くなっていく。やがて視界がぼやけた白に覆われ、煌々と燃える灯が頭上に現れた。それを掴めば救われる気がして、最後の力を振り絞って手を伸ばした。
だが。光に手が届く前に、伸ばした手は無情にも振り払われて。掴みかけた希望の灯は次第に遠ざかっていった。
——絶望。視界は反転して、黒に染まる。再び底のない闇に飲み込まれ、もはやもがく気も消え失せて為すがままに目を閉じた。
それが、俺にとっての原初の記憶。己の素性すら忘れてしまった俺を、唯一俺として定義してくれる悪夢。
何かが生まれた場所を故郷と呼ぶのなら。俺にとっての故郷は、きっとあの暗い海だった。
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静かな海のほとり。黒い水平線を眺めながら、一人海水に足先を浸す。
ここに住み着くようになったのは一体いつの事だっただろう。一年か、十年か、あるいはもっと前か。そもそもこの世界には時間という概念すらあるかどうかも怪しい所だ。
世界の掃き溜め、といつか出会った誰かがここをそう呼んでいた。この世界は追放され、棄てられたモノが集う終着駅なのだと。つまりは俺も、誰かから不要だと思われたのだろう。それが個人か、群衆か、それとも世界なのかはわからないし興味もないが。
この世界には光がない。俺が正しく知覚できていないのか、はたまた元からそうなのか、空はいつも淀んだ色をしている。一度この世界を歩き回った事もあるが、景色はどこもほとんど変わりない。ただただ荒廃と、薄闇があるだけ。だからいつしか歩く事を止めて海を眺めるようになった。
この世界の海は黒い。波の音はするが、潮風や潮の匂いがあるかはわからない。それを知覚する術を、俺はとうの昔に失っているのだから。
海を眺める事にさして意味があるわけでもない。この世界で見られる景色の中で唯一懐かしさを覚えられるものだから、なんとなく眺めているだけだ。
「 」
この世界に来てから何人かの住人と出会った。人の形をしている者もいれば、形容し難い異形もいた。大抵は一度出会ったきりで顔も姿も忘れかけているが、俺の傍らにいる“これ”だけは違う。
“これ”は紫色の霞のような姿をしているが、霞と違って意識もあるし口もきける。ただ口がきけると言っても大抵は独り言を言うだけで、会話が成り立つ事は稀だ。
いつかどこかで見つけた時から、“これ”はずっと俺の側にいようとする。名前は知らないし、俺に纏わりつく理由もわからない。懐かれたのかもしれないし、あるいは取り憑かれたのかもしれない。
「 、 」
意味があるのかも疑わしい独り言を聞きながら海を眺めて、感情の残骸に浸る。それが俺の日常で、全てだった。
あの声がするまでは。
ワールドスワップ。侵略。仮の姿。最初は理解が追い付かなかった。けれど、思考を巡らせるうちにそれらの行為に意味を見出す事ができた。
渇いた心に血が巡り、薄れていた感情が次々に蘇る。この世界には何もない。俺が■すべき人間も存在しない。けれど、外の世界にはきっと全てがある。青い空も、草木に覆われた大地も、澄んだ海も、そして人間も!
■せ、コ■せ、殺せ!沈めて、裂いて、潰して、貫いて、切り刻んで、奪い尽くす。生命を、鼓動を、生の証を。新たな世界を手に入れれば再びそれが叶う。全身が歓喜に打ち震え、朧げだった自分の存在に輪郭が戻る。そうとも、殺す事だけが俺の存在意義だ。俺は人間を殺すために存在しているのだ!
昏い天を仰いで哄笑する。俺はもう虚ろな影法師ではない。憎悪を取り戻し、憤怒を思い出して、俺は再び怨霊となった。
往こう。光射す世界へ、輝かしい外界へ。
再び殺すために。俺が俺であり続けるために!
○
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“ ”
《否定の世界》の住人。
存在する事自体が許されざる罪。
きらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい
おれなんか きえちゃえばいいのに
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「お前、望みはあるか?」 |
語りかける声に、閉ざしていた瞼を開く。
暗闇の中で白く光る、背の高い輪郭。あたたかくてやさしい、おれの光。
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「俺にはある。俺は、 」 |
なに?
よく聞こえない。
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「はは、は、は……」 |
光が揺れる。真っ白な色から、目を刺すような赤へ。
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「っははははは! ははは!ははははは!」 |
獣の吼える声。赤い獣が、空に向かって牙を剥いていた。
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「共に往こうじゃないか。なぁ。 ——名も無き怪物」 |
レスター
世界を奪えと、獣はおれにそう囁いた。