
今日も、寒い日だった。
朝。目覚まし時計がわりのアラームを止めて暖かい布団からどうにか抜け出す。
それからふたり分の朝ごはんとお弁当を用意するのはもう三年くらい前からの日課だ。
遅い時間に帰ってくるお母さんに私より遅く起きてほしくて、朝も料理をするようになった。
お母さんがごちそうさまと手を合わせるころ、いってきますと一声かけて家を出る。
お母さんの会社に近くて私の学校に遠いアパートから引っ越すかと提案されたとき、住み続けようと言ったのは私だ。
耳元まで覆うようにマフラーを巻いて、ポケットに入れたカイロを握り締めながら駅まで歩いた。
教室に着くともう何人か先に登校してきていたから、おはよ、といつもの挨拶をして席に座る。
そのうち、ちらほらと他の人たちも登校してきて、面白かったり退屈だったり難しかったりな授業を受けて、デザートをつけていなくて少し物足りなかったお昼を食べて、そうこうしていたらあっという間に放課後になっていた。
このところ部員が増えた部活に顔を出すか迷ったけど、それはまた来週にすることにした。
帰り道にはもうカイロがぬるくなっていたから、途中の自動販売機であたたかいココアを買った。
缶で指をぬくめながら電車に揺られる。家の近くの駅で空き缶にしてゴミ箱に捨てて、しばらく歩いた。
アパートに着いたら念のためポストの中身を確認してから階段を使って四階まで上がる。
運動不足になっていないのは絶対、この階段のおかげだと思う。
夜。お風呂は早めに済ませたし、宿題はあまり出ていない。そのうえ明日は休みの日だ。
だから、もう今日はお母さんが帰ってくるのを待って、いつもより少し遅い時間の晩ごはんを一緒に食べて、眠るだけ。
そういう、寒くて静かな一日だった。
台所に立って鍋を温めなおしながら、ふと最近の——ここひと月ばかりのことを思い出す。
近ごろの私は、なんだかめまぐるしく生きている。
11月の終わりごろ、拗らせていた風邪が治って久しぶりに登校した。
少し緊張しながらクラスメイトや先生と会ったけれど、体調を気遣うように声をかけてくれて安心した。
その後も、窓辺に並ぶ花の形のおもちゃだとか教卓の上に次々置かれていたお菓子だとか、他にもいろいろ……どんどん賑やかになってきたけど、変わらず楽しくてあたたかいクラスだと思う。
来週にはクリスマス会があるので、とても楽しみ。
交換用のプレゼントは決めているから、明日買いに行くつもりだ。受け取った人に喜んでもらえるといいな。
12月の初めには期末テストがあった。
前回、散々な点数を取ってしまっていたし、しばらく欠席していた分も取り戻そうと思ってたくさん勉強した。
テスト前に本を探しにいった図書室で、担任の先生と偶然会っておすすめの参考書を教えてもらったこと、驚いたけど嬉しかった。
参考書は、家に帰ってから開いてみたら分かりやすくて感動した。
……テスト明け、返ってきた点数に驚いて変なことを考えてしまったのは、恥ずかしいからあんまり思い出したくない。
でも、先生のおかげで私が頑張ったからだと胸を張って言えたこと、忘れないでいようと思う。
ちょうどその頃に、住んでいるアパートの人と初めて話をした。
503号室の人、嘘をついたしきっと困らせてしまったから、いつかちゃんと謝りたい。
あんなに心配してくれたのに、私は誠実じゃなかった。……そういえば、まだ名前も部屋の番号も伝えてない。
もし次に会うことがあったら、まずはその挨拶から始めようかな。
それから、緑色の男の人にも失礼なことをしてしまった。
異能は人それぞれなもので、個性だ。人となりだ。それを知っているのに、ひどい態度を取った。
……最後にほんの少しだけ笑っていたように見えたけど、言いたかったこと、伝わったかな。どのくらい伝えられただろう。
ある日は、放課後に立ち寄ったレンタルショップで会った人達に、ひょんなことから映画の鑑賞会に混ぜてもらった。
学校が終わってから誰かのうちへ行って遊ぶのなんて、もう随分と久しぶりのことだったからドキドキした。
みんなでお菓子を食べながら映画を見て、笑って——そんな、普通の高校生みたいなこと。
本当に楽しい時間だった。
……こうやって思い返すと、たったひと月の間にいろんなことがあった。
いろんな人と会って、話をした。
いろんな人が、この街で生きていた。
たとえばの話。
たとえば、知らない人が明日いなくなる。
ラジオのニュースで知ったりすると、少し悲しい気分になる。
怖いな、と思って、残された人のことを考える。
辛いだろうな、苦しいだろうなって。
でも、結局のところ他人ごとで、寝る頃にはもう気持ちが切り替えられているんだろう。
たとえば、同じアパートの住民が明日いなくなる。
たぶん、しばらく気づかない。
ポストに溜まっていくチラシに疑問を覚えて、ある日、ああ、いなくなってたんだ、と分かる。
気づかなかったことに、少し罪悪感のようなものを感じたりするかもしれない。
たとえば、違う学年やクラスの人が明日いなくなる。
見かけないな、なんて思っていたら、いなくなったことを知らされる。
タチの悪い冗談だと思って、笑うかもしれない。
でも、本当のことだと分かったら、きっと笑えない。
最後に会ったときはいつだっけ?と記憶をたどって、最後ならあのときああしていれば、こうしていれば……っていくつも後悔するんだろう。
たとえば、クラスメイトや先生が明日いなくなる。
登校しても姿が無くって、ホームルームのチャイムが鳴ってもまだ現れなくって、遅れてやってきた先生からそれを聞かされる。
ひとり少ないだけで、教室がとても静かに感じられたりして。
我慢しきれずに、泣いてしまうのかもしれない。
いなくなったひとりの隙間が埋まることは、進級するときまで、きっと無いんだろう。
たとえば、お母さんが明日いなくなる。
……考えたくはない。
ないけど、きっと……食べ方、眠り方、話し方、歩き方、泣き方、怒り方、笑い方……ぜんぶ、今までどうやっていたのか、もやがかかったように思い出せなくなる。
これからどうやったらいいのかも分からなくなって、生き方が下手になる。
……そういう風になるんだろうな、とぼんやりした予感がある。
たったひとりの、かけがえのない家族だから。
いつかその日が来るんだろうけど、まだ、耐えられない。
たとえば、誰かが明日いなくなる。
誰がいなくなったとしても、誰かが少し、生き方を忘れるんだろう。
でも、すぐに日常を取り戻す。
朝は変わらずやってきて、
アラームが鳴ったら起きなきゃいけなくて、
冬は寒くて、
おはようにはおはようが返ってきて、
授業は滞りなく進んで、
お昼になればお腹がすいて、
ホームルームが終わると放課後で、
部室に行ったら部活をやっていて、
自宅のポストにはときどきチラシや手紙が入っていて、
友だちと遊ぶ時間は楽しくて、
病気や怪我をしたらしっかり休んで、
試験前にはテスト勉強をして、
真剣に悩むようなこともあって、
ホットココアの缶はあったかくて、
仲がいいきょうだいでも喧嘩することがあって、
嬉しいことや楽しいことがあったら笑って、
夏は暑くて、
髪や爪が伸びたら整えて、
ひとり欠けてもクラスはクラスで、
気の合う人や合わない人がいて、
喉が渇いたら水を飲んで、
自信をもってやれば案外うまくいくこともあって、
時折やってくる不幸や理不尽に怒ったり泣いたりして、
心を揺さぶられるような映画や音楽に出会って、
たまには制御できない自分に驚くようなことがあって、
着られなくなった服は捨てて、
お腹がすいたらご飯を食べて、
シワが寄ったハンカチにはアイロンを掛けて、
ひとり欠けても家族は家族で、
ラジオはニュースを流して、
日曜の夜は憂鬱で、
電車は駅へ着いて、
光は眩しくて、
夜が更けたらまた明日のために眠る。
私が死んだとき、そうだったように。