ぜい、ぜい、と。
苦しそうな呼吸を止めてやる方法すら、わたしにはわからなかった。
喉元を温める手でもあれば、私は何か報いてやれたろうに。
老婆が死にゆくのを、私は何をするわけでもなく、ただ見ていた。
最後の一人だった。
集落に残ったたった一人。随分前から足を悪くして、私の社の掃除にも来ることができなくなっていた。
あばら家に置いた木の板に向かって私への詫びを幾度も呟いていた。
寒くなりかけた秋口に、肺を病んで死んだ。
飢えていたので、彼女は暫く腐ることもなく、枯れ木のように布に包まれてそこにあった。
大きく開けた口に蜘蛛の巣が貼った。
やがて冬が訪れ、野犬が彼女を食い尽くした。
骨が残り、雪に潰されたあばら家が彼女の生きていた痕跡を綺麗に覆い、夏が幾つか過ぎた頃には、集落は森に飲み込まれていった。
彼女は親類に見捨てられ、集落に一人残り、近くの集落とも親交を断ち、孤独に死んだ。
彼女は集落に何を見ただろう?
親と見守った夕日だろうか、夫と毟った山菜だろうか、子を負ぶって帰った畦道だろうか。
蛙の鳴き声に眠る月夜か、外れの枯れ木が折れた嵐か、全てを奪った炎の揺らめきか。
私はそのどれも与えてやれなかった。死にゆく夢を謳うことすらしてやれなかった。
私はただ、それを見ていた。
ただ、信仰を受け取り、何をするでもなく、それを見届けた。
彼女と同じように社は朽ちていて、信仰を失った私は野犬にやる肉も持っていなかった。
彼女よりよほど早くに私の社は森の一部と化していて、森を分け入る道は蔦と落枝に塗れ、かつての私を知る者さえ社には辿り着けぬ有様と化していた。
死体にすら劣る神。
それが私だった。
なんて。
無価値な神。
追放を待つまでもなく、私は私に失望した。
『種を蒔く地を解する力』
タガシラ。
土、人の体、心。
それを種と認識すれば、向かう地を。
それを地と認識すれば、芽吹く種を。
理解できる。たったそれだけの力が成せることはとても少ない。
理解とは、それだけだ。理解をしたところで、為すべき腕がなければ、為すべき力がなければ、何をも為すことはできない。
私は私に失望した!
見守り、理解するだけの身の上に!
私は価値がない、あれらの、ヒトの一片にも満たぬ虚無でしかない!
私がヒトであったなら、
私がヒトであったなら、あの老婆を攫っていったろう。
手を取り、どこぞの街の隅で共に生きたろう。
彼女がそれを望まぬのなら、集落に住み続けても構わなかった。
私がヒトであったなら。
『堕神祠』
ダカンシ。
そうして私は肉を持った。
しあわせになりたい、と、ヒトは言う。
だから私は歓喜をもってそれを迎えよう。
価値のない私が、お前たちに寄り添おう。
お前の望みを叶えてやろう。
「お前はがんばってここまで来たのだね」
聞こえているかどうかわからないけれど、少年がそれを望んだので、私は少年に幸福を与えてやることにした。ぜい、ぜい、と苦しげな呼吸にそっと枯れた手を添えて、私は少年に夢を囁いてやることにした。
少年は不幸な生い立ちだった。旧い農村にも見られた、不幸な子供であったのだ。少年を守るべき大人たちに搾取され、抵抗するすべも持たず、与えられるべき糧を心にも体にも与えられず、しかし『なぜ苦しいのか』を教えられることもなく、ただ、苦痛に喘いでいる。かつて、彼らは湖や崖の下へ身を投げていったけれど、それは孤独な道行きであったことだろう。
彼には今、私がいる。
傷つけられた魂は元には戻るまい。
しかし、緩やかに、穏やかに、眠るように痺れさせ、休ませるすべを私は既に手に入れていた。
それは、ことばを放つ口であり、差し伸べることのできる腕であり、寄り添うことのできる命であった。
「お前の憂いを晴らしてやろう。お前の恐れる全てを退けてやろう。こちらへ逃げておいで。私が守ってあげるから。私はお前を害したりしない。お前の嫌がることをしたりはしない。お前を微睡んだままにしてあげる。よく頑張ったね。幸せにおなり。望む夢を見るんだ。お前はそれができるから」
少年は、僅かにもがいている。
意思とは裏腹に、生命がそうさせる。苦しいだろう、と蜘蛛糸を添えた。生にしがみつく手に絹糸のような輝きが幾重にも巻きつけば、少年は安心を求めるようにそれを握りしめた。
ヒトは、もとより無力ではない。
望めばその手で為すべきことができるだろう。
望めば集落を旅立つことも、温かい手を添えてやることも、
己の見たい夢を望んであばら家にとどまることもできるだろう。
私はそれを伝えてやりたいのだ。
お前は無力ではなく、私はそれを見守っている、と、伝えてやりたかったのだ。
そのためにこの身がある。
穢れた身でも、私自身より無価値なものはない。
蜘蛛糸は幾重にも少年の体に巻きついた。
望むようにできる手のひらと、望む場所に行ける、足がある。朽ち果ててすら、お前たちは為せることがある。
ああ、だから、大丈夫、
「安心して逝くといい」
死体になったって、私よりもできることはあるのだから、
見たい夢をのぞむ意思があるのだから、
望みと、その肉があれば、なんだってできるのだから、
安心して死ぬといい、と、少年に伝えるころ、少年の首の拍動は完全に停止した。
雲は晴れただろうか?
泣き喚いた少年は、安らかに眠っている。
目を瞑らせてやり、地面へと寝かせた。かつてはこの程度のこともできなかった。
端で見守っていた、大きな獣が歩み寄る。これは獣というより、妖の類なのか、彼の魂が綻びていたのを嗅ぎつけていたのだろう。
「死体にも為すべきことがあるのだね。いつの時代も、変わらない」
獣がそれを望むのならば、私は邪魔をするべきではない。死体の肉は神よりも価値があるのだから。
肉と骨を失ったころ、少年はどんな夢を見るだろう?
獣が立ち去る姿を眺め、私は彼を迎える支度をすることにした。
価値のない世界へ、ようこそ。
何にも手を伸ばせないけれど、何もお前に手を伸ばしたりはしない。
暫くはここで、ゆっくりと微睡んでいるといい。
大丈夫。
ふたたび肉を得るための穢れ方も教えてあげる。
お前は望みを得たのだから、私よりもよほど上手く夢を見られるだろう。