少年は、あてもなくハザマの世界を歩く。傍には少女と大きな猫。
何か言葉を発するのでもなく、静かに脚を動かしている
先程足を踏み入れた街で見たものは。
まるで何かに導かれるように、それを目にすることが運命で決められていたかのように。
イバラシティで語らった少女の変わり果てた姿と、壊れたヘアピンだった。
それだけで察せてしまう──理解してしまった。彼らはもうどこにも居ないのだと
頭痛が酷くなっていく。どうにも、無理に塞ぎ込んだ記憶の蓋が、赤いヘアピンを視認したのと同時に──溢れてくる
これは、そう。 侵略戦争が始まる、たった一日だけ前の話。
ぱちりと目を開くと、室内の明るさが朝を告げている。
今日も目が覚めてしまったなぁ、と日課のように瞬きをして
寝ぼけ眼を擦りながら薄汚れたカーテンを引っ張れば、さんさんと眩しいだけの光が僅かに照らしてくる
朝日に、不快だなぁ、と、呟くこともなく、誰も居ない家という空間をぼんやり見渡す
家と言うには嫌に静かで、でもその静寂が心地良い。良かった、誰も居なくて。
朝は嫌いだ。一日の始まりが、どうしても苦痛だ。
対して楽しい日々なんて、待っていないから
制服姿の、同い年くらいの奴らが視界に入るのが、すごく嫌だ。
どうしてあいつらと俺の間には、こうも差があるんだろう
そんなこと言っていたって、何も変わらないことは嫌なくらい分かっている癖に。
静かな空間に、ひとりぶんだけの生活音が暫く流れ続けて、
床に散らばる制服を踏みつけて、髪もそのままに家を出た。
家に居るのは、嫌いで、嫌いで、大嫌いだ。
人目を避けて、暗い路地裏に向かって、所謂悪い友達っていう奴を増やしていく
友達なんて言ったって、その時だけの方便なので、きっと本当にそう思っている人なんて居ないけれど。
無法地帯みたいになってるとこを歩くのが良い。こんな時間から子供が歩いてても、誰も気にしないような場所。
学校なんて、数えるくらいしか行ってない。やることも、やりたいことも、無いので。
煙草は、ここで教わった。
もしくは、無理にねじ込まれたんだったか、覚えていない
……好きで吸う訳無いじゃん、こんなものをさ。
はじめてそれを口にした時、頭がくらくらして、咳き込んで、ひどい気分だった
路地裏で吐きながら、ふわふわ揺れる煙を見つめたあの時、確かに自分の異能を自覚した。
今となっては見事に依存症。最初は白いパッケージ、それがだんだん物足りなくなって、黄色に手を伸ばした
そこで、誰でも良い。適当に人を捕まえて、とにかく家に帰らなくて済むように
何をされてもいい、どんな事をされてもいい。帰るよりは、酷いことをされないから。
うちは父親がひとり、男手一つで息子を育てる、有名らしい大きな会社の重役とかなんとか。
仕事に真面目で堅実、最近は転勤が多く、イバラシティに戻って来る日は少ない。
温和で優しく、出来た人だと言われているのを聞いたことがある
当の息子の俺と言えば、そんな風に思ったことは一度もなく。
家でのあいつは暴君そのものな訳で、殴る蹴るは日常茶飯事だ
出来る人間って言うのは当然頭も回る。ちょっと服を脱いだって簡単には認識できない場所をよく理解していた
逃げた母に似てるだとか、ただそこに居たからだとか。
理由はいつだってそういったもので、だから、生きてる自分が悪いんだな、と思って。
ひとつだけ褒められた事を覚えている。長い髪は、引っ張りやすくて良いらしい。
頭上に手が伸びれば、それが撫でる行為ではないことだけよく理解していた
──でも、そうだ。その日は確か、思いついたんだ。
ボヤ騒ぎのニュースをたまたま耳にして、嗚呼、帰りたくないなら、帰れなくしたら良いんだなって。
ライターなんて、腐るほど手に入った。燃やす物は、足りなければこの身を焚べれば良い
住み慣れた場所を火の海にするための手段は腐る程あって、それらを実行するのも容易かった。
さあ、早く、この世界から逃げ出そう。
一本の煙草を咥えながら、手始めに父の書斎に火を放った
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智鈎 「………ぁ、」 |
あの日の本当の記憶を"思い出し"て。
唇は弧を描き、笑う、笑う、──ただ、笑う
その光景に、大事な幼馴染なんて登場しない。する筈もない。
そんな事は、分かっていたじゃないか
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智鈎 「そりゃ、思い出したくもないわ。こんなの」 |
記憶改変ってのは、便利だ。
こんなつまらない人間だって、かんたんに笑顔にさせられるんだから
この戦争が始まる前の自分は──
あんな笑顔をしたこともない!
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智鈎 「あー、あー!あーっはっはっは!ははは!はは、」 |
笑う。笑う。
紐解いてしまった"記憶"は、まるで水流のようにどんどん流れ込んできて、
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智鈎 「ああ、ああ!はは、はははは!やめてくれよ、やめろよぉ!」 |
それは全ての反逆。 幸福の、幸せへの否定。
どんなに叫んだところで、吐き気のするような現実はなにひとつ変わらなくて、
感情が、思いが、苦しみが、胸の奥から込み上げてくる。
馬鹿みたいじゃないか!
イバラシティであんなにただ笑って、人を信じて、悩んで、庇って。笑って。
そんな無意味なことに全力になって、
それが楽しくて!
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智鈎 「ああ、あああ!嫌だ!嫌だ嫌だ!戻りたくない!戻りたくない!」 |
現実に帰りたくない。戻りたくない!
どうして何もないまま、放っておいてくれなかった!手の届かない幻の幸せなんて与えやがった!
知ってしまった、得てしまった!"幸せ"を!
それに手を伸ばす方法を、知ってしまった!
伸ばしたいと願うことを、希望を抱いてしまった!
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智鈎 「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!嫌だ!たすけて、助けてよ!逃してよ!」 |
叫ぶ。叫ぶ。
その叫びは誰かの耳に届くのだろうか。誰かの心に、届くのだろうか?
どうあっても、きっと、届いて欲しい人の元には伝わらない
そういう巡り合わせなのだろう。望むことは、落胆する事だと、よく知っていたじゃないか
淡く淡く願う事すら意味が無かったから、とっくの昔に辞めたじゃないか!
いつの間にか頬は濡れていて。
それが自分の瞳から流れたことに気が付いたのは、暫くして傍らの少女に拭われてからだった
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夢璃 「………」 |
知らなければ良かった。こんな思いをするなら、幸せなんて知りたくなかった
繋がれた手の暖かさを、頭を撫でられる事の嬉しさを。
思いが通じ合うことの悦びを、愛し愛される幸せを。
故に、望んでしまう。叶わないと知りながら!
幸せになりたい、と、無意識下で小さく小さく呟けば、少女はただ頷いた。
これからどうするつもりなのか、どうしたいのか。まるで全部分かっているみたいに。
微笑んで、答えるのだ。
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夢璃 「なろう。幸せに。」 |
この少女は、どうして自分の側に居るのだろう。
何故涙を拭ってくれるのだろう、支えてくれるのだろう。
その答えをぼんやり掴みかけて、いや、彼女が言わないのなら、態々聞く必要もないのだろう。
ありがとうと一言だけ伝え、腕を伸ばして大きな猫の喉をひと撫でして、ごろりと鳴らされる声に少しだけ自己満足。
虚ろな目で、それでも確かに奥底には希望が灯っていて。
一歩、また一歩と歩き出して、
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智鈎 「ね、──── 、 、 。」 |
誰に言うでもなく、何かに祈る。
幸せは、あそこには存在しないから。違うところへ、行かないといけないから
途端に足元に纏わりつく手首は首へと伸びてきて、ぎゅっと呼吸を妨げた。
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智鈎 「、 」 |
声にならない声を吐く。
この手首が何者なのか、どうして今自分の首を締め上げるのか
ちかちかと点滅していく景色を前に、それらは、どうでもよかった。
心の何処かで、理解していたから。
脳への血液を奪っていくそれは想像以上に苦しくて、それでも抵抗する気は起きなくて。
ただ、あの温もりが、正義をうたう笑顔が、暗い路地裏を照らすような光が脳裏に浮かべば、ゆるりと身体が踠いて、
それを思考ごと──
何かに絡め取られて。
きっと、本気で抵抗すればこの手は簡単に引き剥がせるのだろうけれど。
逃れてどうする?侵略戦争が終われば、また何もない生活に戻るのだろうか
彼の居ない生活に、戻るのだろうか。
それは、嫌だなぁ、と、逃れるために伸ばしかけた手を、止める。
『 。』
『 、 。』
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智鈎 「(……セン。)」 |
脳裏に浮かぶ言葉の音、香り。
どう足掻いても、彼と自分の世界は交わらない
それならば。いっそここで、足を止めて、それこそを幸せと形容するのは、どうだろうか。
あの世界で生きるよりは、きっと幸せな筈だ。
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智■ 「(もう、疲れた。疲れたよ、 いいだろう?)」 |
呼吸を奪うこの手は、確かに暖かくて。
伝わってくる、優しい思い。
そういえば、誰かが、この侵略戦争をチャンスだと形容していた
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■■ 「(ああ、それなら、良いな。 また、)」 |
──
彼の隣で、笑えるかな。
そのまま、すっと暗くなっていく視界と共に、意識は段々と薄れていった。
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夢璃 「あ、」 |
少女は見届けていた。少年のさいごを。
四肢を黒い蜘蛛糸に絡め取られ、四肢から力が抜けていき、呼吸が止まるまでの間
少しだけ離れた場所から、同じように祈っていた。
彼が幸せになれるように、と
屈んで、地面に落ちた槍を拾い上げる。先程まで少年の所持品だったものだ
悲しい、という気持ちは出てこなかった。
彼は最期、笑顔だった。辛く苦しい世界から逃れられて、良かったなぁと私も仄かに笑う
こういうとき、自分はアンジニティで産まれたんだと実感してしまう。
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夢璃 「……私、侵略、出来るかな」 |
自身の無力さは痛感しているつもりだ。
付け焼き刃で侵略が叶うものではないと、分かっている
それでも、足を止める理由にはならなかった。
少年に──少年だったものに背を向けて、ハザマを歩く。
大きな猫と少女は道を違えたが、それを気に留める余裕は今の少女には無かった