「姉さん、大丈夫?」
「怪我してない? 姉さんは俺が守るからね」
「俺が姉さんの味方だよ」
かたわらの『弟』は私につぶやく。
やさしい言葉をかけて。
望むときに、わたしの傍にいて。
そっと、手をつないでいてくれる……
***
「ひどい。許せない、姉さんにそんなことをするなんて」
「ほら、あげる。姉さんは これが好きだったでしょ?」
「俺は姉さんのこと、世界で一番好きだよ」
出来の悪い私を、仕事を辞めてまで甲斐甲斐しく世話してくれる母。
私のために遅くまで働いて、治療代を稼いでくれる父。
私のなにもかもを 肯定的に受け止めて、そばにいてくれる弟。
『出来過ぎて』いた。
まるで絵に描いたような 私に都合の良いひとびと。
何のために私に尽くしてくれるのかわからない。だって私はあなたたちに支払える対価がない。
今までも、これからも。
共にいられるだけで十分幸せ?そんな手垢のついた言葉は、まったく信じられない。
《半径10メートル以内に自分の領域を展開し、ある程度の生命とエネルギーを操ることのできる異能》
父と母は優しい人だった。だからこそ、おもしろかった。
私がふたりを壊したのだという事実と、その過程とが。
人形あそびでもするように 全てを おもいのまま動かせるのだと 私はいつからか 気付いてしまった。
わかってしまってから
『やってしまう』まで、わらってしまうくらい あまりにも簡単で。
階段を転げ落ちるように すべてが悪くなっていった。
完璧が、都合の良いままに、 私の手のひらの上で 崩れていく。
例えば、父さんの手を両手でそっと包んで 潤んだひとみで 見上げてみたり
成長していくからだの 不安をうちあけてみたり
…父さんと 私との 関係を 母にそっと 匂わせてみたり。
たったそれだけだ。特別なことはなにもしていない。
私が賢く、優しいひとであれば すべてをより良い方向にしようと努力することもできたかもしれない。
でも 私がいつでも求めていることは、すべてその逆だ。
崩れ落ちた破片。破壊によってもたらされる痛みだけが、生まれてからこれまで 不安しかなかった私の路に
ひかりを与えてくれた気がした。
それは 他人から見れば 妄想に過ぎなかったのだろう。
でも私にとって その考えは だんだんと真実になっていった。
きっと私に与えられた場所はすべて、私が私のために作り出したものなのだ。
父と母と、それから弟を 自分の都合の良いように操って、作り出した私のための世界。
だって、こんなにも思いのままに操ることができる。
こんなにも正しくない私の言葉を信じ、それでも、
私を触る父の手は優しい。
母は 母が傷つけた私の身体に 薬を塗ってくれる。
弟はいつでも そばにいる。
これが異常でないのなら なんだと言うのだろう。
彼らがほんとうに 人の心を持っているのであれば、
私という『悪』を 愛することなど しないはずだ。
もしも 本当に 見返りを求めることのない…
無償の愛というものがそこに存在しているのならば、
私は耐えられない。理解できない。
無償の愛の不在の証明、
私が私の為に作り出した おままごとのような愛が
此処にあるのだということを確かめるために
すべてを砕いて壊してしまうこと。
これが私のごっこ遊びなのであれば 全部許されるのでしょう?
***
××年八月 三十一日
物音ひとつしない 夜だった。
ただ鼻にとどく臭気が、 私が私のために作り出した 小規模な楽園の終わりの、 そのはじまりを告げていた。
窓からカーテンを通して、 差し込む月光。
私のベッドの脇に 立ち尽くす彼の 頬と 手が 赤くぬらついて 光っている。
それを見て、私は思った。
――どんな順番で刺したのだろう。母が先かな。それとも父だろうか。
いま、生きているのだろうか。それとももう死んだだろうか。どこで倒れているのだろうか。リビングか、寝室か。
私はそのとき彼に何を言っただろう。 歓喜にうちふるえ なにも言葉にできなかったのかもしれない。
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「全部終わったよ」 |
そう彼は言った。
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「もう姉さんは苦しまなくて済むんだ」 |
私が苦しんでいることに彼はこだわっていた。
何度も聞いた言葉だった。
最初のころは くだらない妄想に囚われているのだなと 冷めた気持ちでそれを聞いていたけれど、
いまはじめて 私は苦しんでいたのかもしれないと そう思えた。
ただ、私の苦しみはまだ終わっていない。彼だけがまだ残っている。
私は……
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「結城は…」 |
純粋に私が被害者だと信じ続けた弟を、いま、一番、最高のタイミングで裏切ることで
彼を後戻りできないくらいに傷つけて 壊すことができると分かっていた。
だから、すべて。
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「結城は間違えたのよ。 私という問題を、間違えてしまったんだわ。」 |
私という人間のすべてを、いままで起こったことすべてが 私が引き起こしたことなのだということを、
父でも 母でもない。もちろん弟でもない。
『私が悪いのだ』ということを、
やさしく
わかりやすく
教えてあげることにしたのだった。
そして、彼は。
***
目が覚める。
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「……?」 |
瓦礫と赤と黒だけが彩る世界がそこに広がっていた。
現実感がないというのに、肌寒い。見慣れない、薄い服を着させられている。
ゆめだろうか。いや、ゆめじゃない。私は、あの榊という男のアナウンスも、ここで起きる動乱も、すべてすべて……
《判って》いる。
私はイバラシティの住民として、アンジニティの侵略に対抗する頭数に 数えられていたのだ。
あの八月三十一日から、まどろみのような時を過ごしてきた。
自分が起きているかも 眠っているのかもわからない 曖昧な時間。
その日々の中で 私が望む事はひとつだけ。
今、どうして目が覚めたのかわからない……醒めれば忘れる 与えられた ひとときのチャンスなのであれば。
私は確かめなければならない。探し出して、会いに行かねばならない。
彼もおなじ《此処》に居ることを、肌で感じる。理屈では説明できない、透明な血の繋がりがそこにある。
私は立ち上がることができた。
どうしてか 干からびた足でも、歩くことは苦にならなかった。
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日向環 「行かなきゃ。」 |
あの枯れ落ちた向日葵が呼んでいる。
私は確かめに行かなければならない。彼が真実を語る私の口を、この喉を
両指でもって締め上げたあの日から。