ずっと貴方を捜していました。
私はどこへも行けないけれど、貴方がどうしているかをいつも心にかけていました。
私に心なんてものはないはずだけれど、永い永い年月が私の上を過ぎ、いつしか私は貴方がた人間が心と呼ぶものに近いもの――たぶん人のそれより未成熟かつ不完全なものだけれど――を得ていたのです。
だから、私はずっと貴方を待っていました。村の入り口から少し奥まったこの場所で。
当時の私がいたのは、村の入り口に植えられた桜並木から少しばかり奥の方へ離れた場所でした。
奥といってもここは土壌も日当たりもよく、私は太く強い幹としなやかな枝、可憐な花々を纏う立派な大木へ成長することができました。私という器に満たされた力は溢れ、周囲の土地にもあまねく作用しました。季節ごとに美しく変化する村の入り口は、付近一帯の名所となりました。
道を往く人々は桜並木の美しさに目をとめ、足を止め、口々に美しさを讃えて通りすぎます。あまりに美しいので、桜並木の奥にもっとも素晴らしい木である私がいることに誰も気づかないのです。
私を気にとめる人は誰もいませんでした――貴方以外は。
貴方だけが、私に気づいてくれたのです。
子供の頃から好奇心でいっぱいだった貴方は、まるで子兎が跳ねるかのように私に近づいてきて、その大きな瞳をさらに大きくして感激してくれました。貴方は私を秘密の隠れ家にしました。そして私には、貴方の隠れ家であるという意識が生まれました。
花の季節でも、貴方は他の人すべてが褒め称える桜並木の美しさになんて鼻も引っかけず、両手いっぱいに本を抱えて真っ直ぐ私のところへ走ってきます。
「今日も隠してね!」
そう言って、私の太い幹の陰に腰を落ち着けると、日のある間中にすべて読んでしまえとばかりに本を読みふけるのです。頭上でこんなにも美しく咲く私の花に目もくれず。
私はただの桜の木でした。私には知識など何ひとつもありませんでしたが、貴方がしていることが、人から隠れる必要があり、もし見つかればたいへんな目に遭うのだということは貴方の態度から容易に知ることが出来ました。
私の生まれるにも満たなかった心は、貴方でいっぱいでした。
貴方は私に意味を与えてくれた。
貴方だけが私を必要としてくれる。
もし、貴方がいなくなることがあれば、私は……。
ソウオモッテイタノニ。
貴方から流れた血が地面を汚す。赤く、赤く。
目の前で壊されていく貴方に私は何もしてあげることができなかった。
貴方によって生まれはじめた心が初めて感じたのは、救いようのない悲しさだった。
知砂妃。――知砂妃!
名前を呼びたいのに呼ぶ喉がない。出せる声もない。その悲しさは今生まれようとする心を絶望的に歪めていく。
知砂妃。ちさき。チサキ。
私はただただ、音にならない声でその名を呼び続ける。
目を開ける。視界に広がるのは自室の天井。先ほどまでの、桜の下に横たわる少女の遺体ではない。
千崎は時折この幻覚に襲われるようになっていた。今のように夢の形を取る場合もあるし、日常のふとした瞬間に囚われることもある。クラスメイトから言われて気づいたのだが、道を渡っている時などに幻覚に陥れば拙いなとは思う。幸い、今のところ大事には至っていないが。
「なんやったんや……」
しかし、今見た夢は、既に形を失い崩れかけていた。千崎はいつもそうなのだ。夢を覚えていることが出来ない。
あの桜はこの前自分が咲かせた学校の木なんやろうか? それとも別の? そもそもそんなことはあったんだっけ?
意識をはっきりさせようと、冷蔵庫の中にあった、スーパーで買ったばかりのラムネの缶を開ける。
炭酸の強いラムネは涙の味がした。