燃え尽きたよ。
真っ白にな。
相良伊橋高校に入学して数ヶ月。
俺が何をしていたかというと、何もしていなかった。
当時中学三年を悪(ワル)として過ごした俺の後遺症は凄まじく、
今更誰も話しかけて来やしないし、全てを本当に無気力にかわしていたので、
いつしか周りからは完全にキバなしの腑抜けの猛獣として扱われるようになった。
……いや、そりゃ燃え尽きるし、腑も抜けるわ。
今まで鉄火場ど真ん中に居て、
急に楽しい学生生活を満喫できるかよって話だ。
中学の頃の知り合いは殆ど相良伊橋に来なかったし、
高校デビューを飾るには最高の年ではあったんだろうけども。
そんな風に人生を謳歌するための努力が出来るほど、俺には気力も人間性も残っていなかった。
その一年、振り返っても学校の中の記憶は殆どなくて、
疲れた目と顔で学校と家の間を往復しているだけという記憶が非常に色濃い。
夏前に、俺を育ててくれた婆ちゃんが突然店と家を畳んで渡米してからは、
急遽入れてもらった寮での一人暮らしをしていたはずだ。
この辺の記憶は曖昧で、よく引っ越せたなとも思う。
何故ここまで燃え尽きていたかを後から考えてみれば、
中学時代にあれだけ纏わりついてきていた風凪マナカと多少距離を置けたからという理由が大きい。
それをまるで喜ばしいことのように言うと、悪友からは、
「あんな可愛い子を袖にできるお前の精神が分からん」だの
「マナカちゃんを可愛いと思えないのは目か心が腐っている」だの
好き勝手言われることが多いが、
別にもう今は袖にもしてねえし、あいつが可愛いこと自体は否定してねえよ。
高校に入り、物理的に距離が出来た後も寮の電話に時々連絡は入っていたし、
早くケータイ持ってくださいスマホって知っていますかとたびたびアプローチを仕掛けてきた。
機械も苦手だし食わず嫌いも激しい俺は逃げに逃げていた記憶がある。
まあ機械に弱いこと以上に、苛烈に積極的に関わろうとしてくる風凪自身への苦手意識が多少あったことは認める。
風凪へというよりは、風凪がそう振る舞うことで、
風凪自身に迷惑が掛かるそれが、俺には少しばかり耐え切れなかったといった方が正しい。
ともあれそうやって物理的に切り離された風凪との距離は、
若干の疎遠を以って、極道から足を洗えたこととの合わせ技で俺の人生に腑抜けた数ヶ月を齎した。
今まで散々生き急いできたようなものなのだから、丁度いい休息時間だと思っていた。
い授業をやる気なく聞き流すのも、部活の掛け声をバックに机に脚を乗せて眠るのも、
今まで俺が諦めていたものだったから、その一つ一つが日常への帰還を伝えてきてくれた。
ただ二つ。
『眼球の痛み』と『右目の視力』だけは、元には戻らなかったけれど。
☆ ★ ☆ ★ ☆
夏まで。
正確に言えば、高校一年の夏休みの後半まで。
自分の視力が損なわれていたことを、俺は気づきもしなかった。
実際、右目への違和感は感じていたのだが、そこにあるボヤけも痛みから来るものだと思っていたし、
眼帯による片目の生活にも慣れ、隠している方の右目の視力が落ちていることに気づけなかった。
稼業から足を洗ってからは異能はほぼ使っていないので、
眼科で診察を受け、原因は主に眼精疲労であると聞き、
(ああ成程取り返しのつかないものもあるんだな)
と思った。
「何が原因でここまで片目にだけ負担があるのかはわからない」
「ただ、君にその心当たりがあるなら今すぐにでもその原因となることは中止しなさい」
「でなければ、君は右目の視力を完全に失うことになるよ」
そんな脅しとも心配とも取れることを医者から言われて、ほんの少しだけ凹み、
凹んだのがほんの少しだったことにも凹んだ。
失明の危険性すら日常の中に組み込まれたら、俺は一体何を失ったとき傷つくんだ?
もはや日常への帰還は相当に困難なものかもしれない。
病院の帰り道、そんなことを考えながらとぼとぼと道を歩いていた。
道の先。
見慣れた姿があった。
見慣れた姿が、見慣れていない表情を伴い、街中をふらふらと歩いていた。
その姿に違和感を覚えて。
多分、もしかするとそれが初めてかもしれないが、そいつに対して自分から声を掛けた。
「風凪」
声を掛けると、少しだけビクりとして振り返る。
俺の顔を見止めると、少しだけ間を置いてからパッと顔を明るくして、
「あ。センパイ。奇遇ですね」
と返してきた。
俺はいつも通りのその顔に苦笑して、
「お前、今オフってたろ、スイッチ」
「まるでセンパイと会うときはいつもオンにしているみたいな言い方ですね?」
「俺と会うときオンじゃねーのかよ。センパイならオフのままでもいいか、じゃねーよ」
「私がオフのまま会えるのはセンパイだけです。自慢してもいいです」
たまに会うなら。
たまに会話するなら。
まあ適正な距離を以って接するなら。
まあ風凪マナカという後輩は、いい後輩だと思う。
しばらく会わなかった違和感を、会話のキャッチボール二回で適正な状態に戻してくれるのは、
俺のおかげではなく、風凪の気遣いが上手いからだと思う。
「風凪は学校帰りか?」
俺が聞くと、制服姿の風凪はこくんと頷く。
「センパイは、街中で女の子に声でも掛けていましたか?」
「だとしたら声掛けられた女の子がお前になるぞ」
「はい、でしたらお茶の一つでもしますか」
「……お前最近自然に奢ってもらう流れ作るの上手すぎるだろ」
俺が呆れながら財布の中身を思い出していると、風凪は何が楽しいのか小さく笑う。
ともあれまあ気分転換にはいいかと風凪と共に近くの喫茶店へと入った。
黒服に拉致られる形ではない喫茶店の入り方を、
久しぶりに思い出した日だった。
☆ ★ ☆ ★ ☆
他愛ない話をしたと思う。
ここで何の話をしたのかは曖昧だし、どうせ想像するにしても、
若宮線引の冴えない高校生活の話とか、
風凪マナカの物足りない中学生活の話とか。
まあそんな話をしたように思う。
喫茶店で当たり前のものを当たり前のように頼み、
明日が当然訪れる前提で誰かと話すのが久しぶりで。
その時間は自分にとって『後から思い出せないほど平和』だからこそ貴重な時間だった。
「はあ、じゃあまだ彼女も出来ていないし、バラ色の高校ライフとは縁遠いんですねぇ」
「学校変わったくらいで何か大きな変化あるかよ。
お前だって高校くればドブ色の高校ライフが待ってるぞ」
「大丈夫です、センパイといういい前例がありますから」
「反面教師かよ……」
当然のようにパフェを奢られてる後輩に文句ありげに言うと、
今更ビビりもしないで風凪はふふ、と小さく笑う。
「まあ、それで街中で後輩引っかけてしまうんですから、切羽詰まってますねセンパイ」
「だからナンパした覚えはねえって」
「そうですか?」
「大体……まあ、そうだよ」
言葉を急旋回させて。
もくもくとパフェを口に運ぶ風凪を見ながら、テーブルに肘をついて顎を手のひらで支える。
俺が何かを言いかけたことまでは察したようだが、何を言おうとしたのかわからなかったのか、
風凪はすぐに興味をなくしたようにパフェに挑んでいく。
大体。
大体、俺とお前の仲だぞ?
そう言いかけた口を噤んだのは、別にそれを口にするのが不味いわけじゃない。
ただ、一つ、言いかけたときに何かふわっと疑問が浮かんで、意識がそっちに飛んだだけだ。
大体。
俺とお前の仲だぞ。
若宮と風凪の仲だぞ。
……どんな仲だ?
先輩と後輩ではある。
同じ学校のよしみでもある。
同じ委員会で活動を共にした仲である。
が、そんな関係であるならば、自分も、風凪も、山ほどいる。
いや、正確に言うなら。
そんな関係ならば。
風凪のような後輩はいくらでも『いた』し、
今もその関係を続けることは『できた』けれど、
俺の場合はそうじゃない。そう、『しなかった』のだから。
こんな感じで、普通でいること自体が異常で。
今も当たり前のように目の前でパフェを食う相手は、
「……センパイ何を真剣な顔してるんですか? 格好良くないですよ別に」
という軽口を言ってくるような相手は、普通は一人残らず自分から離れて行ってしかるべきなのに。
……なんでこいつだけ離れていかなかったんだ?
風凪が首を傾げるので言葉を返す。
「ああ、ぼんやりしてた」
「あー、ダメですね。重症です。かわいい彼女さん見つけて、早く幸せな高校生活送らないと」
――その時。
自分がどれくらいそれを考えて口にしたのかも、よく覚えていない。
ただ。
もし、万が一。
億が一。兆が一にでも。
風凪が、もしかしたら最後の一線を踏み越えてくるようなことがあれば。
今よりも深い関係を求めてきているのであれば。
全ての危険が去ったとは言い難い今。
これから先も、何があるかわからない自分の血に汚れた人生に少しでも関わらせるくらいなら。
正当に。真っすぐ。明確に言葉にすることで。誘い水をしたその気持ちに拒否を与えることで。
――ここで、自分の手で終わりの線引きをすべきだと。
そう、思っただけだった。
「んじゃさ、風凪が付き合ってみるか?」
驚くほどさらっと告げたその言葉に。
断ることを前提に告げたその言葉に。
風凪は。
一瞬だけ驚いたような顔をした。
それが、何に驚いたのかは分からなかったし、動揺して膝でもぶつけたのか机が少しだけ揺れた。
カタカタとした揺れが収まるまでの数秒の沈黙。
だがすぐにいつもの風凪の顔に戻ると一言。
「……センパイと私って、そういうのじゃなくないですか……?」
☆ ★ ☆ ★ ☆
その後何を会話したかは、さらに覚えていない。
なんとなくいつもの会話に戻ったがどこか上滑りしたような感じになり、
風凪のパフェの完食を以って風凪はいつもの感じで先に家に帰っていった。
俺は一人、その喫茶店のオープンテラスで顎に手をやっていた。
しばらく、彫像のように固まっていたが、なんとなく思考が固まってきた。
まあ、もしかするとだが。
或いはだが。そういう可能性があるかもしれないという話でしかないが。
俺は、風凪自身のためを思って、風凪が自分に好意を抱いているのなら、
先回りしてその恋心を折る必要があると思い、それに『終わりの線引き』とかいう格好いい名前を付けた挙句。
それを言葉にして、後輩に怪訝な顔をさせて……いや、それ以前に。
うん。
もしかして、なんだが。
「……俺、今フラれたか?」
誰か。自分じゃ判断つかないから。
この日記を読んでる人がいたら。
……はっきり、でも優しく俺に教えてくれないか。