「幸せになってください」
そう言って、千崎は母を送り出した。
父を亡くしてから、ずっと支え合ってきた家族だった。そう思いたいのは千崎だけで、母親的には支えて貰うどころか、手のかかる厄介なコブだったかもしれないが。
千崎は母の再婚には反対しなかった。逆に賛成した。今までお母ちゃんは散々苦労してきてんから、その苦労が報われる時が来たんやって。新井のおっちゃんがええ人なんはウチも知っとるし、お母ちゃんを幸せにしてくれるよ。
千崎の気持ちを確認したうえで、母は再婚話を進めることにした。が、その話は簡単には進まなかった。
ひとつは、新井のおっちゃんの親族からの反対だった。弁護士という堅気な仕事をしている彼にはやはり堅気な親戚がいて、トラック運転手の未亡人で水商売経験のある千崎の母との再婚に難色を示したのである。そんな相手と再婚しなくてもつり合いの取れる女性だって、何なら初婚のいい娘さんだっていくらでも紹介できるんだとか、新井のおっちゃんにも男女二人の子供がいるので、その子供たちの情緒に配慮した相手を選べだとか、そういった面倒くさいことこのうえない反対である。話は千崎のところにまで聞こえてきた。
新井のおっちゃんは千崎が知っている頃と変わらず出来た人で、親族の良識的だが非常識な意見を得意の弁論で片っ端からたたき伏せ、千崎の母を安心させた。新井のおっちゃんが真面目で退屈だとかいう身勝手極まりない理由で浮気した前妻を紹介したのが親戚筋だったため、新井のおっちゃんとしても言うことを聞く気はなかったようだ。
もうひとつは、千崎が再婚には賛成しても、新井家に行くことを拒んだことだった。これには千崎の母も新井のおっちゃんも揃って仰天した。
「ウチは新井のおっちゃんちには行かへんよ。千崎のままでええ」
やっぱり反対なのか、と母に聞かれた。そうではない、と千崎は反論した。
理由はいくらでもあった。新井のおっちゃんがいい人なのは知っているが、養父となった時にその関係のままかはわからない。親の再婚相手からの虐待なんて話は、悲しいけれどこの世の中にはいくらだって転がっている。
新井家に行けば大学生の兄姉ができることになるのも気を遣うし、向こうだって今更こんな弟は欲しくないだろう。
母が以前水商売をしていたというだけであんなにも噛み付いてきた親戚に、千崎の趣味がバレたらどうなることか。ほらあんな女を嫁にするからだ、連れ子がオカマだったじゃないかああ気持ち悪い――そんなことを言われるのだ。
そんな場所になんて、行きたくなかった。気ままに自由にやりたかった。
そんな親族からウチがお母ちゃんを守るんや、とは欠片も思わなかった。
新井のおっちゃんは本当に出来た人で、千崎に法律を用いて、君は母親の庇護下にあるべき子供であり、一緒に新井の家に来るようにと説得しようとしたのだが、その時点で千崎は15歳を越えていた。再婚相手の養子として同じ戸籍に入る普通養子縁組は、15歳以上ならその子供自身が届け人となる必要がある。千崎はこれを拒んだのだ。
母親は最後まであの手この手で説得をしてきたが、千崎の気持ちが揺るがないと知ってついに折れ、千崎を残して新井家に再嫁する運びとなった。
千崎は法律上は、たった一人で亡き父の籍に置いて行かれたことになっている。
実際のところは――どうだろう?
千崎は、自分が不幸だったとは思っていない。
なぜなら、子供の頃。ひとりの家に帰ってきたテーブルに、メモと一緒にプリンが置いてあったから。
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「……」 |
人の集まる場が好きで、賑やかにするのが楽しい。
人の集まる場が好きで、つどう人たちを咲かせるのが楽しい。
願いを叶えたい。
好きなことを貫くためなら、どんな難関(コト)も気にならない。
願いを叶えたい。
赤い花を咲かせるためなら、どんな惨劇(コト)も気にならない。
血の赤が気になる。突然のことに戸惑うけど、惹かれている。
血の赤が気になる。突然浴びたあの日からずっと、惹かれている。
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「……」 |
短くて長い夢から覚める。
また1時間ぶんの時と記憶とを刻む。
夢の自分は、やっと血の赤の美しさに目覚めてくれた。
これで、夢の中でも赤に浸ることができるようになるのではないか。期待に胸が弾む。
早く赤色に染まりたい。あの街を赤く赤く咲かせたい。
あの街を。あの学校を。夢の自分が大切だと思っている様々な場所を。
いちばん好きな赤色に染めたい――。
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「なあ」 |
夢の中の自分が問いかけてくる。
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「チサキ(ウチ)は、ホンマにそう思ってるんか?」 |
夢のチサキは、悲しげな目でチサキを見つめている。
せせら笑って、ウチはこう答える。
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「決まってるやろ? 楽しゅうて仕方ないわ。 チサキ(ウチ)かて見たやろ? あの血染めの桜の花。ウチはあれが欲しゅうて欲しゅうて仕方ないんや」 |
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「待った。血染めのて……」 |
有無を言わせず、夢を頭の中から追い払う。
あいつ
(チサキ)は夢。ウチ
(チサキ)が現実。
今は侵略の時。今日も敵が待っている――。