(今回の日記は、PTMのものと合わせてお読みください。)
蝙蝠の怪人は荒廃したハザマを駆け抜けていた。
|
バツ 「――嗚呼、畜生ッ! 『手』が足りねえッ!!」 |
既にハザマに来てからどれだけ時間が経っただろうか。三分? 五分? それとも……。
今は時計を見る時間すらも惜しい。
最初に襲ってきたナレハテを異能で従え、妹と壱子を探させた結果、二人の居場所はすぐに分かった。
ナレハテどもの群れの、中心――。
それは無情にも、彼女たちの生存が危ぶまれるほど危険な状況であった。
「みうちゃん―――――!」
壱子の悲痛な叫び声。襲い来るナレハテは、今まさに巳羽の命を奪わんとしている。
|
バツ 「(くそっ、何を迷ってやがる、結城伐都ッ!! 男を見せやがれッ!!)」 |
己を奮い立たせるように、自らを叱責する。
イデオローグの権能は音波による『他者の使役』。
軍勢に対して単騎で飛び込んで状況を変えるような力は持たない。
――けれど。
けれど、それでも。
イデオローグは、否、結城伐都は、飛び出さずにはいられなかった。
少女へ噛みつかんとしたナレハテを、殴り飛ばす影が一つ。
その半身を異形へ変えて、荒い息を吐き出しながら。
|
バツ 「お、お、おれの妹に……何しやがるってんだ!!」 |
ああ、情けない。恐怖で声が震えてしまう。
「……バツ君?」
「バツ兄、ばかっ。素手で戦うなんて──」
背後から聞こえてくるのは妹の声。心配そうに身を案じる壱子の表情も、振り返るまでもなく分かった。
何故こんなことを。自分で自分の行動が理解出来なかった。
これまでイデオローグという怪物は、必勝の盤面を整えてから勝負してきたというのに。
|
バツ 「なんだよこれ……この胸の中の熱いもんは……!」 |
他者を支配する異能。それは即ち、術者本人は弱点そのものだ。
故に、何の勝算も無く自らが飛び出すことは、紛れもない悪手である。
|
バツ 「畜生、上手く考えが纏まんねえ……。 こんなこと、アンジニティにいた時は一度だって無かったのによ」」 |
それは、妹や壱子には聞こえぬほど小さく呟かれた言葉。
誰をも信じることが叶わぬあの世界では、けして選ぶことのなかった選択。
|
バツ 「でも、なんなんだろうな……。 馬鹿なことしてんのに、死ぬかもしれねえってのにさ……。 たった一つだけ、分かることがあるんだ……」 |
状況は何も好転してはいない。ナレハテの群れは尚も集まり、悍ましい声を上げるばかりだ。
けれどそれでも、怪人の――少年の心には、爽やかな風が吹いていた。
誰に向けているでもない言葉を紡げば、己の権能を行使せんと静かに構えて。
|
バツ 「おれは今、後悔なんてしちゃいないっ!」 |
その瞬間だった。
「興醒めだ」
何かが、瞬く間にナレハテの群れを喰らい尽くしていた。
それは炎。それは捕食者。力で力を捻じ伏せる、純然たる破壊の意志。
「なんだ、その無様な姿は」
目の前に降り立った紅蓮の魔術の行使者が、冷たい輝きを湛えた緋色の一瞥を向ける。
「手始めにこいつらを喰らうのか。けしかけたところを助ける一幕を演じ『使える駒』を手中に収めるのか。そう思って眺めてみれば、まさか無策で飛び出した挙句に犬死に寸前とはな」
軍勢を灼き、立ち昇る業火は天へ届くほど。
酷い臭いだ。肉が焼ける音と混じる、怪物どもの断末魔。
その中にあっても顔色一つ変えることのない、明らかに異質な存在。
イデオローグは知っている。目の前のこの男の正体を。
熾盛天晴学園の教師? 否。彼は、
『こちら側』だ。
|
バツ 「――冗談だろ、『ザクロ先生』」 |
吸血鬼オニキス。
自身と同じくアンジニティに堕とされた咎人にして、自ら獲物を狩り立てる従者無き王。
忘れるべくもない。かの王は、己の策を破った相手なのだから。
絶体絶命の状況だ。
天河ザクロの正体は、イデオローグを知るアンジニティの民。
|
バツ 「(仲間の振りをして取り入るか? いいや、あの男には通じない)」 |
かといって、妹たちを連れてこの場を逃げおおせるとも思えない。
既に炎は此方へ狙いを定められている。背を向けたところで灰にされるのがオチだろう。
――もしも、可能性があるとすれば。
脳裏に浮かんだそれは、一か八かの賭けだ。
そうして、イデオローグは決断する。
|
バツ 「おれだって分かんないんだよ……どーして身体が動いちまったのかさ」 |
口八丁が通用しないというのなら、偽ることなく真実を語る。
それが、今の彼に打てる唯一にして最善の手であった。
|
バツ 「無様で結構、おれだってダセーと思ってるよ。他にいくらでもやりようはあったってな。 こんな衝動、初めてだった。心臓が焼けるみたいに熱くなって、そいつに従って動いてみたらこのざまさ」 |
|
バツ 「……でも、悪くない。悪くねーんだ。 ガラじゃないことしてるかもしれないけどさ。 後ろの二人を逃がす為だったら、あんたにだって喧嘩を売ってやる」 |
「……は、てめえが陽炎に浮かされるとはな。すぐに消えるぞ、何もかも。手を伸ばしたところでせいぜいが冷たく固まった蝋の感触が残るだけだ」
吸血鬼は言った。
あの束の間の安息は、揺曳する陽炎に過ぎないのだと。
|
バツ 「直ぐに消える、か。その通りかもな」 |
イバラシティに味方をして、侵略を止めて、それから先はどうなる?
あの地獄のような世界に逆戻りして、また微睡むことすら出来ない現実で生きていくのか?
そんなことは、考えるまでもない。
考えるまでもないことだった筈だ。
けれど、巳羽や壱子……それに、学園やイバラシティの『結城伐都』の友人たちがその地獄へ堕ちることを、胸の奥で燃え盛る炎が許してはくれなかった。
|
バツ 「だから、そう。こいつはいつもの裏切りなんだよ、きっと。 このくだらないゲームと、あのくだらない世界への、ね」 |
後悔は無かった。不思議と恐怖も消えていた。
暫し黙ってイデオローグの言葉を聞き入れていた吸血鬼は、返答とばかりに炎の大蛇を霧散させる。
「お前がいつまで寝言をほざき続けられるか――少しだけ興味が湧いた。暫くは茶番に付き合ってやるよ、コウモリくん」
|
バツ 「茶番で結構。おれ自身にも分からないこの夢の終わりまで、精々生き永らえさせてもらうさ」 |
――だからこれは、
怪人イデオローグではなく。
|
バツ 「……ああ、いちこちゃん、巳羽。怖がらせてゴメン」 |
|
バツ 「大丈夫だよ、この姿は異能の副作用なんだ。ほら、このハザマって場所、異能が強くなっちまうだろ?」 |
――夢の中で、初めて“いのち”を与えられた少年の、『始まり』から『終わり』までの物語。
|
巳羽 「バツ兄は、『バツ兄』って事だよね……?」 |
|
バツ 「勿論さ。おれはずっと……最初から、さいごまで。おまえの兄貴の――」 |
――
結城伐都の物語。