雨の音、冷たい空気。──ブレーキ音、そして衝突音。
ひどい雨の降るあの冬の始まりの日。
わたしはあの瞬間、総てを失ったのだった。
伸ばした手は届かなかった。
この手が触れたのは、あの子の手なんかじゃなくて。
生温い──血の感触だった。
指先が赤く染まる。血と、脂の臭いがする。
頭がどくどくと鳴る。目の前がぐらぐらと揺らぐ。
危ない、そんなことを叫ぶことは出来無かった。
例えば、声があったなら。
もっと、違う能力があったなら。
あそこにいたのが、わたしじゃなかったら。
あの子じゃなくて、わたしがそうなっていたら。
わたしを突き飛ばさなければ、ううん。
わたしさえ、いなければ。
「──────ッ!」
殴りつけた地面は硬くて、冷たくて。
そんなことをしても、もう何の意味もない。
あの日、わたしは静かに慟哭した。
わたしの声は、誰にも届かない。
わたしの手は、何にも救えない。
わたしは、失うのが怖くなった。
……………………。
ふわりと、朝の光がわたしの覚醒を促した。
目を擦りながら体を起こす。
──何の、夢を見ていたっけ。
思い出せずに首を傾げた。
思い出せないことには慣れていたから、いつもの通り諦めた。
わたしの記憶は空っぽだ。
自分の名前と、家族と一部の情報以外何も持っていない。
幸いにも、もともと学校にはあまり行っていなかったらしく、
適当に振舞っても不自然さを指摘されることは無かった。
月日は流れていく。
わたしは特に誰とも仲良くなることも、何かに没頭することもなく生きていた。
高校2年を過ぎてもそれは同じで、退屈で味気ない日々を送っていた、
それは別に苦痛じゃなかったし、何かに興味があるわけでもなかったから。
どうでもよかった。誰かも、何かも、自分も。
空っぽなのは記憶だけじゃなかった。
根岸こがねという人物は、空白で出来ている。
底無しの空白。何を落としても、何の音も響かない。
その空白に何かを詰め込みたいとも思わず、
ただただ適当に日々を消費していた。
特別な物語なんて普通の人間に訪れるはずはない。
わかりきった事実で、目の前の現実だ。
──ただ、一点を除いて。
目の前に、同じ顔の人物がいる。
違うのは黒子の位置ぐらい。
わたしの記憶が消えて暫く。
ある日突然彼女は現れたのだ、わたしの前に。
そして、こう言った。
──私と、ゲームをしよう。
ゲームの内容は酷く簡単だった。
わたしは、頷いた。頷くしかなかったから。
「ねえ、最近どうよ」
彼女はいつも通り楽しそうに笑って、わたしに言う。
彼女はわたしと違って楽しそうだ。
学校なんて行きたくないしあんたが行ってよ、そう言って制服を押し付けて。
空っぽなわたしが決してできない顔で笑う。
「ふぅん」
わたしの返答を鼻で笑って、彼女は枕元の目覚まし時計を手に取る。
日曜日、朝の9時。彼女が決まって、わたしの様子を見に来る日。
その日付と時間が彼女の手の中に収まっている。
もしかしたら、わたしもとっくに彼女の掌の上にいるのかもしれない。
そう、思った。
──やがて、時が流れて。
時計塔で彼と出会った。教室でみんなと話した。
喫茶店でクラスメイトと談笑して、寮で恋の話をした。
星空を見ながら彼女と話して、近くまで一緒に帰った。
彼にお節介を焼いて、彼と屋上で喧嘩別れをした。
以前とは比べられない色のある日々。
楽しいけれど、ひどく罪悪感に駆られた。
わたしは、嘘を吐いている、
わたしは、自分が本当に根岸こがねなのか、分かっていないのに。
なのに何も思っていない顔で、その名を名乗って“根岸こがね”の日々を生きている。
それは正しい事なの?
もしも、もしもわたしが本当はそうじゃなかったら?
わたしは、そんな怯えの中で生きている。
……この、不気味な空の下でさえ。
氷の溶ける音、静かな音楽。
呆れたような、優しい顔で彼女は笑った。
伸ばした手、去っていく背中。
彼は酷く暗い眼をしていた。
星空の下、夜の空気。
彼女は、硝子玉のような目でわたしを見ていた。
展望台、冷たい空気の中。
彼は言葉を探すように、口を閉ざした。
どうか、まだ誰も気付かないで。
そう2人は願った。
どうか、私にこの日々をください。
片方は祈った。
どうか、この日々が続くように。
片方は思った。
同じ顔の2人はまだ、誰にも何も明かさずに。
同じ顔で、笑っている。
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