「――――　おか　えり？」

　ふらり。ふらり。　ゆら　り。　ふぅ　ら　。
　眩暈にくらむ。彼女たちと別れてから階段を駆け上がり、二階廊下へと向かう。
　そこで待機していたであろうエッセ。安全なところにいてもらっていた。
　ふらっと、揺れながらにしてそちらを見る。手足も重たく頭も重たく。どれもこれも、重たげに垂らしながら半身を僅かに揺らして。
　気怠さを身に纏うような姿。

「少し見ない間に、何だか様変わりしたようだけれど」

　エッセは寄りも離れもせぬままに、ゆらりくたりと、偽のそれとはまた違う気色で揺れ揺れる。

「ねぇ―――――　偽」
「……名を継げない花が枯れ果てたところで、咲けないそれは、雑草は雑草。大差はないでしょう。雑草に名はないです」

　そう、零す聲はかすれた。
　渇いた砂ばかりを飲み干したよな、枯渇の響き。
　エッセ紡いだ最後の音には、最早、飽いたとばかりに視線を逸らした。返事すらしなかった。

　はてと、白銀は不思議そうにことりと傾いでみせた。白々しく映ってなければ良いのだが。

「其れを言ってしまったら、エッセはもともと咲かせられないよ。エッセは種や風も水も与えられないと、何もないんだもの」

　共感というには何処か薄いような言葉は、緩やかに浮かべた微笑と共に。

「今まで見せていた偽と、今の偽。同じだけれど。ほら、イメージチェンジ……というのかな。そう言う言葉があるのだと、エッセは知っているよ」

　そんな軽い言の葉で片付くような其れではなさそうだが。

「……偽と呼ばれるのは厭なのかな。ならエッセは何と呼ぼう」

　何も知らぬだろうに　何かもを知っているように。階段に座り込む彼女へと回り込み、正面にしゃがみ込む。
　無垢な子の様の無邪気な子供の。そんな、夢の子。白銀の子。純粋な現への好奇に魅せられて、形を得た其の子と対面する。はたして酷似して見えたのだろうか、其れとも対極。
　――自分と同じ色を移す紫水晶の目は“此れ”の何を見ているというのか。

「何故、呼称を用意する必要が」

　吐息混じりの聲が、ざらりとかすれて呟いた。

「……呼ばれる必要が、何処に」






『　あなたを、エッセと名づけます　』






「……」

　―――――そう、夢に謳ったのとはまるで逆しまの言葉を漏らしつつ、すいと立ち上がると、静寂に包まれる廊下を歩き始める。
　掠れ声が鼓膜を震わす。仮令それが酷く諦観めいたような寂しい言の葉だったとしても心地良い。

「必要が無くとも、私は呼ぶよ。それとも呼んではいけないかな」

　エッセは偽に追従して動き出す。つかず離れずのその距離でついてゆく。緩慢に、それこそ制止されてしまえば立ち止まってしまいそうな、そんな柔らかさ。

「それとも呼ばれてはいけない理由が、偽にはあるの？」

まるで揚げ足取りの様な言葉。酷く穏やかな白銀の声は、少なくとも責め立てているようではない。

「……それで」

　だから、なんだと。飽いた様に呆れた様に、相変わらずの聲が返す。酷く気怠げに物憂いげに、ゆらりゆらりとふらつく足取りは重さを纏ってただただ進められた。
　――まるで病んだ人の、鈍い足。後から引き摺る裾の擦れる音は這いずるヒトの無様な音と、よく似ていた。

「少なくとも偽を不快にさせずに済むよ。構わないと言うのならエッセの好きなようにするけれど」

　ずるりずるりとした音に混ざり込む足音は、その掠れる音よりも緩慢に。

「それとも答えたくないだけ？　それならやっぱりエッセの好きなようにしてしまうよ」

　重たげな足が、突然止まった。途端、渇いた喉が震えた。

「なんで聞くんですか。なんで尋ねるんですか！　嘲笑したいの？　蔑みたいの？　否定するの？　ねぇ、其の為に私を踏み荒らすの？！
　私は名前を与えられないただの雑草！　雑草に掛ける言葉なんかそんなものでしょう！」

　半ば言葉、捲くし立てる様に早口と怒声。半ば吐き捨てる様な悪態。
　終えた後に、戦慄く息をひとつ。長く吐いた。
　一瞬の饒舌に、白銀色がきょとんとする。

「だってエッセは偽が好きだもの？」

　ひとつ　ふたつ　みっつめの瞬きをした。それからそうと白銀は答えた。

「だから偽の言葉が欲しい。偽は誰かに否定されでもしたの？」

　あなたの言葉を殺してしまうような何かが、あったのでしょうかと。白銀は高慢にも問いを重ねて、そして。

「嗚呼、それとも問われることそのものが厭なら、エッセは何も訊かない」

　投げ遣りでなく、怒気を纏うでもなく。





　―――『好き』　って。





「何、それ」

　言葉を欲するだけなら、自分でなくとも構わないだろう。自分の姿を欲するなら、其れこそ夢が夢自身、真似て鏡でも覗けばいい。
　応答も、そろそろ億劫になってきた。ならハジメから、しなければよかったのに。
　どうせいけないと云われるだけで。赦されないだけで。結局其れは失敗にしかならなくて。
　……どうして繰り返してるの、私。

「もういい」

　くた。と、項垂れた。頭を垂らしながら再び進める歩はやがて角を曲がって、のろのろと階段を上がってまた歩く。

「素敵な夢やお話が聞きたいのなら、勿論偽でなくとも構わないよ。だけども偽の言葉は偽しか紡げない。エッセは偽の真似は出来るけれど、偽にはなれないもの」

　それこそ己を厭うのであれば、否定の言葉を並べ立ててしまえばいいものを。そうされなかったのを良い事に、白銀はつらつらと語る。

「エッセは今、偽の言葉こそ聞きたいと思うし、偽が何を考えているのか知りたいと思うよ」

　ゆるりゆるり。等間隔の距離は保たれるまま、やがて出たのは調理場だ。どうして其処へ向かうのか、問いかけもせず。

「それが例えばエッセの事を嫌いだなんて言葉でも、やっぱりエッセは偽が好きなままだと思うから」

　言葉を聞きたい。知りたい。好きだから。求めた其れ。それでもまだ、見つけられない其れ。

「…　、」

　白銀の聲は、押し付ける風ではなかった。同じ様にしろと強要する風でもない。エッセはそうしてくれない。そうしない。

「……」

何故、と頸を捻りながら、立ち止まったのは水道の前。

「……………」

　ノズルを捻って、水を満たす。波紋広がる水面を見下ろした。見下ろす先のおのれの顔は、ひどくゆがんで、ぐんにょりしている。
　そこで偽は周囲を見渡した。水道周りを――コップがないことに気付いたからだ。
　目につく場所にはどこにもない。否、それよりもコップをとって水をすくう行為が面倒になってきた。
　植物を伸ばして直接吸引するのも手だが、あの戦闘の後では動かすだけの労力はない。いっそ頭から突っ込んでしまうか。
　思うや否や、へたりとしゃがみ込む其の姿。

「偽、偽。直接顔をつけたら濡れてしまうよ」

　硝子球でも転がすよな笑み声を小さく震わせて、のそのそと一度離れると、遠くに仕舞ってあったコップを拝借する。

「手間じゃないのなら、コップを使ってみるのがいいと思う」

　しゃがみ込む其の傍らまで寄り、水道の水にコップを差し入れる。入れた水を、コップを　偽へと差し出す。

「……、……　　　」

　白銀の手ずから汲まれた水を、水を湛えたコップを、其れを差し出そうとする姿を目の当たりにした紫が、酷く戸惑う様にふらつき、視線を泳がす。
　『取れ』と云われてない。取る事に限定されていない。強いられていない。冷えた骨のように白い指先が、臆病な小魚めいて、そろりと覗く。惑い、迷って、何度も虚を彷徨って―――――数分程の長い逡巡。
　……汲まれた器におそるおそる触れた。

「エッセはね、偽が居て楽だと思う様にしたいと思う。だから、きっと偽が楽だと思う方が正解」

　例えばコップを取ることすら億劫だと、その水面に顔をつけてしまうのであればそれもまた。白銀はそう告げて、そうしてコップを受け取ってもらえたことでうれしくて、やわい笑みを浮かべる。　

「けれどそう、偽がエッセの勧めてくれた方を選んでくれたのは　“嬉しい”。　だって、エッセはちゃんと偽が厭じゃない方を選べたって事でしょう」
「……うれし、」

　憂い、ではないの。愁うのでは。此れは“嬉しい”に値する行為。
　楽。厭じゃない。嬉しい。　――くるくると頭の中を回る言葉に、やっぱり、眩暈しそうになりつつも素手で受け取ったカップを、ゆっくりと持ち上げて、寒さが強くなって冷えそびるつめたい水をひとくち。
　舌を滑り、喉を通って染み渡る水の澄んだ冷たさが心地好くて。安息めいた息が、こぼれた。
　求めるままにカップを仰いで、喉を鳴らして、……すっかり飲み干した、一月振りの水。

「……」
「仮令、偽が好いていなくとも。エッセが偽を好きなことは、変わらないよ」

　ほぅ。と、息を吐く。地面に座り込んで、カップを両手に持ったまま、とろりと目を瞑る。―――そのままくたりと、カラダを横たえて、夢の中に、連れたがり。微睡みの息はやがて、寝息に。
　夢の中へと沈む臆病な花。エッセはようやっと傍に寄れば、抱き寄せる。
　夜には閉じる輝きを、邪魔しないように、そうと吐息を吐き出すような柔さで。。

「……おやすみ。良い夢を」

　今は唯、微睡の中に。夢の中ではせめてあなたを苛むものが無いように、隣で見つめていたい。




　せめても　あなたが夢を見る間は　傍に。

そう言ってまた少年は無邪気に笑う、そして一つ思い出すように言う。

ぼそぼそと言っては彼女に包みを渡そうとする。
中身はクロマ・セロシアで買ったであろうパーティードレス。

聞きなれぬ言葉だったのかモクはきょとんとする。
もしかすると香りというものを知らない、それか知ることが出来ないのかもしれない。

ただ、その言葉に込められた思いは理解したらしく、モクは笑顔で偽にこう返した。

自分がフロストドラゴン辺りを召喚するのと、手間は変わりなさそうに思えた。
もしかしたら氷の塊でも召喚しているのかもしれないが。

可笑しそうに笑う偽を、どこか不思議そうに見ながら、まあいいか、と受け入れる事にした。

鼻息も荒く宣言する。

プリンにも種類はいろいろあったりするやつもあったりするよね！

捕らわれている心はまるで彼女の言うような茨の蔦に絡み取られているようで。
どこか、もの悲しげに、惜しむかのように、彼女の救いを求める言葉が哭き声の様に聞こえる。

　と、当人の居ない間に、そういうことにしていた。

　そうして、話も一段落した頃に。

　　　　　　タッタッタッタッ