Side：A　夢たちの世界

　すぃ、と空間がねじ曲がる。妖精達が戯れるという森の中へと移動する偽の者。妖精がいれば、花があり。澄んだ水があり、それは豊であれ。。
　真っ白い花たちで出来た絨毯にそっと足が入り込み、体を包み込む。眠るように横たえた体は別所の空間から弾かれ、世界を渡っていた。華奢な体の上に数多の花びらが雪のように舞った。

「…ん、…ふぁ」

　鼻腔をくすぐる濃厚なリンゴの香りに目眩を覚えて、ゆぅらりと足を一歩二歩、下がる。獣が飛沫を飛ばす際よろしく、首を打ち振って意識を持ち直す。遅れて頭上より、はら、と白い欠片が零れ。視界の端に入れてはたと目を瞬かせた。
　周囲を見渡して、息混じりに息をする。
　柔らかな花香と色とりどりの花に包まれている空間を見渡す。
次いで、己が踏みしめた花達のほうを。幾分か散らしてしまったようにみえたが、

「……ん、……あ……あぅ……ぅ」

　なんという事だろう。おもわず四つん這いの体勢で、目を見開いては唸ってしまった。呻いてしまっていた。本当になんという事だろう。


なんと咲いている花の内、実に八割を散らしてしまったのだ！



「あ……ごめんなさい、そんなつもりは」

　思わず手を付いて土下座してしまうほどの見事な散らせっぷりであった。もはや白い絨毯は、穴あきの蜘蛛の巣に様変わりしていた。どうしても居た堪れなくなって、そこに花たちの残骸を手で掬って集める。占めて四十本ほどにもなったから、軽く小山になった。こんもりと盛り上がる山を見つめて、溜息をもう一つ。
　吐き出す吐息に揺らされて、ふわりと揺れる白い塊の花があった。不可思議な花。誘うように柔らかな綿毛と花びらを揺らす。

「……」

　ぼんやりと瞬くとともに、膝をついて手を地面に置く体勢のまま、天に祈るかのように空を見上げた。今しがた散らしてしまったばかりだ。それを活用しようなどと、手を伸ばそうという気にはなれない。


「――――ねぇ」


　顔に吹き付けてきた冷たい風。春先より遅く吹いた冷ややかな冷風。清冽なそれは勢いに乗ってカモミールたちのリンゴの香を吹き流す。ともに、クスクスと、小さな笑い声を運んできた。耳をくすぐる軽やかな音色。

「摘みは、しないの」

　笑う声は性別の判然としない曖昧な声音。偽が瞬いた間に、エッセが其れは傍らに立っていた。後ろ手で両の指を絡ませては　ゆるりと微笑む。

「偽……其の綿。摘まないの？」

　ことりと首が傾いて、偽見下げる。

「……嗚呼」

　肩を揺らし、背を反らせた。とっさに退くべく体を退いて、重心を後ろに。
　不意の来訪に加えて、至近でのその色の出現に驚いた。そして重ねられる問いかけに、促されるようにしてかくりと地を見下ろす。

「……先に、散らしてしまった　か　ら　　　ね」

　摘めない、と暗に答える。続けて傍の積み上げた花の山を見る。
　きょとんと瞬きをしていた鏡色は、次がれた言葉に視線を花へ移し、

「散らしてしまったのなら、使ってあげればいいのではないかな？」

　震える紫色へ視線を巡らせる。
　相手の言葉にその鏡色のあどけない顔を見上げ、続けてもう一度花へと往復させる。

「…そのつもり、だったけど。これ以上は……手を下せない」

　一つ肯いたものの、緩く目を伏せた。いきなり突っ込んでしまう形だったとはいえ、花たちの運命を左右させたのは自分だ。これ以上は殺せない。

「必要ならエッセが摘めば良いよ」

　再び見上げた。紫色に全反射する瞳で映し込み、首を傾げる。
　クスクス。愉しむように笑って、エッセは指先をゆるりと降ろし、地へと腰を落とした偽に合わせるように、しゃがみ込む。そっと目線をあわせるようにして、尚も微笑む。

「――これは良い香りがするのだね。これが甘酸っぱい香り？」

　集められた白い塊の内、一つをひょいと持ち上げる。心地よさそうに、あるいは酔ったように。くたりと首をかしげるのは、疑問と合わさっての挙動。
　「そうですよ」とだけ己は肯定する。
　鏡色は微笑って。さらりと銀の髪を微風に揺らす。

「あなたはいつも、美味しいものを食べて幸せな顔をするけれど、これと同じで心地良いから？」
「勿論……そうよ。エッセが感じている感情は、私も同じものだから」

　楽しそうに、あるいは物珍しそうに、エッセは羽毛布団に抱き着くかのようにその手を白い沢山の綿に這わす。興味深々とした様子に胸を弾ませるエッセに向けて、ふと。

「……エッセは、人間達と同じように味覚……夢によって味とか、好みとかはあるの？」

　柔く表情を緩めて、エッセを真っ直ぐに見返した。
　ぱちくりと、少し息を飲むのはエッセの方。甘ったるく色濃い林檎の香りが喉の奥まで詰め込まれる。

「あなたと同じで何でも食べることはできるけれど…好みらしい好みで言うなら、綺麗なモノとか、幸せな夢の方がエッセは好きだよ？　あとはそうだね、ヒトの想像だったり話してくれる物語も好きかな」
「なら……甘いもの。……ヒトの食べ物は食べれないの？」
「食べることはできるし味覚もあるけれど、栄養をとれるわけではないかな」

　所詮は夢そのもの。人の夢を体現した存在が、何故人を唯の食い物にできようか。

「だからあなたからいつもお腹一杯貰っていて、エッセは嬉しいよ？」

　飽くなき探求。飽くなき事象。様々な事が起こり得るこの場所は、まさに夢魔にとって私腹を肥やさせるに相応しい場所。夢であり魔である優しい夢魔は、くたりくたりと偽を、色を写した紫の眼で、紫色を見遣る。

「ねぇ。あなた《リリス》は他にどんな物語を魅せてくれる？」

　偽――リリスは困ったように。しかし緩やかな凪と笑みを浮かべる。口の片端をもたげて。

「……私が見せるのは、つまらない物語だけだよ」

　エッセと同じ、倖せを望み、倖せを与え、幸せでありたいと願うだけの花のお話。
　何が幸せかは人それぞれ。無理やり与えるでも、奪うでもない。　願いを叶える為に奔走する混ざりものの偽花。
　瞼を伏せる。しかし相手から目は離さずに、最後まで聞き入ろうとする態を取る。

「私はあなたの本質とも、ちゃんとお話したいのだけどね」

　それはまた別の機会に。
　いつまでも呆けて座り込んだままの偽の前に立つ。妖精の森の中は彼らが祝福する様に、柔らかな風がゆるりと吹いて。春先の暖かな風が、ゆらゆらと髪を揺らして。

　エッセがそっと手を差し伸せば、偽はゆったりとその手に甘えて立ち上がった。

きっと知識があれば人ならざる者について幾つか思い浮かびそうですが…

　爬虫類にとって寒さは天敵。もし知っていれば幸いだ。
　砂漠を知らないにしても、雪国を歩いたことがあるかもしれないと思い、トカゲは尋ねる。

　そしてそして。こちらが小声で尋ねると、どうにもそれが可笑しく写ったらしい。クスクスと笑いを零す様子に、どこか決まりが悪そうに首筋を掻いている。

　手渡されたネクターの種を含んだ袋を受け取った。
　手にした感触。それを確かめるように、両手の平で大切そうに包み。

　例え、百の感謝の言葉を重ねても足りはしない。
　この一揆が始まって以来、初めての成果らしい成果を得られたことにゼゼは深く感謝しそして、大きな喜びを心に感じていた。

彼女の頭を優しくなでる。

彼女に教える。
行き急ぐなと。
過ぎた時間は戻らないと。
時には、必要な『安定』という言葉を。

そんなところに鍵が。 いや、正確には、錠前があるとは。
手品師の手元を見詰めるような、種も仕掛けも無いって、分かってはいるけれど。

語彙の乏しさにこんなことしか言えないけれど、分かりやすい例えに成程、って頷いて
どんな想像をしたのかは兎も角、えらく驚きながら。

それから、

本当は。 本当は少しだけ、ほんの少しだけ、こわかったのだ。
手を差し出すことよりも、差し出された手を取る方が難しいことだと知っていて
だから、手を取ってくれるかどうか、ほんの少しだけ。

握ってくれた骨色の、彼女の手をしっかりと取って、小さく振って。
うれしいのと、やっぱり何だかさみしいのとで、顔を伏せて、少しだけ笑みを作ったりして。

確かめるように、そう。
自分が名残惜しまないよう、ぱっと手を放して、シズの後を追い掛けていく。

その言葉は、どこか、悼むようでもあったかもしれない。

龍は両腕を脱力させ、下ろした状態で低く構えた。



彼の右頬がわずかに釣りあがる。

ふいに殺気をまとっていく――

彼の両腕がまるで別の生き物のようにうねりを上げた。

そのさまはまるで四肢の無い爬虫類のようだった。