――警鐘が鳴り響いた。
　甲高い音に、横になっていた体が覚醒する。
　外はまだ薄暗い。夜が深いと判断し、すぐさま飛び起きる。

　遂にか。そう思った途端、胃に重みを感じた。緊張が全身に回っていく。
　
　氏族長が王からの要請を拒否し、使者を送ったのは数日前。遅からずこうなることは予測できた。
　だから、そのために手を尽くしてきた。

「アイギル」

「うん。いけるよ」

　相棒からの返答はすぐに返ってきた。
　砂の妖精アイギル。二対の羽に纏い、散らす砂はほのかに熱い。熱砂の大地に生まれたエンブリオもまた、故郷を荒らされたくはないと思っているのだろう。

「行くぞ」

　使い慣らした得物の爪。伸縮自在の特殊爪と革鎧を身に着け、仮眠所を飛び出す。

　空には月が出ていた。乾燥した砂漠の空は遮る物は少なく、天上からの月明かりは煌々と注がれる。周囲の夜闇の端々には、より濃い影ができているほどだ。
　だが、それに似合う静謐などどこにもない。
　至る所から叫びと、武器や鎧の擦れる金属たちの音。
　そして次々と戦場へ向かう戦士たちの駆ける音と、砂漠の日差しよりも強い、闘争への熱気が集落に渦巻いていた。
　
　戦。改めて自覚し、息を飲む。
　砂塵さえなければ月明かりだけでも視界は十分に保てる。しかしそれは敵も同様。さらに言えば人間は視力を頼りに動く。

　厄介な。内心毒づきつつ持ち場へと向かおうとした時。

「ゼゼ！」

　呼び止められ、声の方を向く。
　自分よりも二回り大きな体躯のメスのトカゲ。そこに居たのは、有力な戦士である妹のザミュナ・ディーだ。

「おいザミュナ！　お前なんでこんなとこに？　前線指揮はどうした！」

「抜かりはない！　それよりもお前はネクターの花のところへ行け！」

「！」

　まさかもうそこまで敵が。
　そう思った瞬間息が、心臓が止まるかと思った。

「まさかもう突破を」

「侮るな無礼者！」

　ザミュナの気迫と声に、こっちの声が止まる。傍らのアイギルも驚いてゼゼの背中に隠れた。

「我ら氏族の戦士がそう易々と破れるものか！　あくまで保険だ！　あそこをやられては、この戦の意味がなくなる」

「……いいのかよ、そんな重要なこと」

「構わん。それにお前ならば、誰よりも死に物狂いで守るだろう」

　ザミュナの申し出は願ったりだ。断る理由はない。
　ネクターを間近で守れるならば、それ以上の事は無い。
　それにもしかしたら、コイツ……

「私情を挟むなんてらしくないぞ」

「なんの話だ。ただの適材適所だ」

「そうかい。とにかく、恩に着る。貴殿の鱗に熱砂の加護を」

「我らが血に、太陽の誇りを」


　戦士同士の慣習である挨拶をかわし、ゼゼはきびすを返す。
　進路を前線の反対方向へと、ゼゼは駆けだした。

　戦場へと向かう、殺気立つ何人もの戦士たちとすれ違いながら一心にネクターの庭園へと向かう。

「よかったねゼゼ」

　走るゼゼに合わせ飛ぶアイギルが言う。
　この緊迫にそぐわない脳天気な言葉を諫めるか迷ったが、同意した。

「ああ。だが予断を許さない事に変わりはない。ザミュナ達が負けるとは思えないが、万が一もある。気を抜くなよ」

「うん！」

　元気に頷き返す相棒の姿に少しだけ気持ちが軽くなる。どうやら、自分も大概単純なようだ。

「絶対に守り抜くぞ」



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　オアシスの傍ら。そこに小さな庭園があった。
　石積で囲まれた、簡素な庭園。砂漠の枯れた土壌を乏しい土地改良の知識と、決して多くはないエンブリオの力で耕し、ようやく構築された場所だ。
　その一区画に、ひっそりと赤い花畑がある。
　
　ネクターの花。
　このメルンテーゼの営みの要であり、ゼゼが砂漠を潤すための足がかりとする研究の場。
　
　打ち漏らされた兵達がその間際まで攻め行ってきたのは、早数刻。そしてその頭数は徐々に増えてきている。

「ゼゼ！　まだ戦えるか！」

「当然だ！　この程度、ウヴルカの時の比ではないわ！」

　共に庭園を守る仲間からの声に、ゼゼは叫び返す。
　土色の鱗は討ち取った兵の返り血と自身が流した血で赤く染まり、身に纏った群青の護身呪布は血を吸い黒く変色していた。

「ここだけは、絶対に通しはしない！」

　並ぶ牙を剥き、ゼゼはアイギルを伴い一歩前へと踏み出す。

「まだ何も遂げてない内に、むざむざと終われるものかよ……！」

　今一度、爪を構える。幾度と無く鎧を貫いた爪はくたびれ、その尖端は元の鋭利さを失いつつある。
　
「ゼゼ！　また来たよ！」

　アイギルの示した方角、新手の影が見える。
　こちらも消耗は軽くはない。纏っている砂はいつもの半分ほどにまで減少している。

「やるぞ……」

　乾いた土を蹴る。
　走る。近寄るまで待ちなどはしない。
　これ以上、ネクターの花には一歩も近付けはしない……！

「アイギル！」

　叫ぶなり、相棒は力を解放した。
　砂の妖精の名の通り、アイギルは砂を意のままに操る。
　局所的な砂の嵐すら造作もなく生み出す。

　突如として巻き上がる砂塵の壁。魔力を帯びた砂嵐は兵士達の足を止め、たじろぐ彼らの姿を包み、閉じこめる。

　人間が目を頼りにするならば、完全に奪い尽くす。
　砂嵐の壁で姿を隠し、粒子を眼球へと直接浴びせて目を潰す。

　姑息。
　そんな事は分かりきっている。
　共闘する仲間達も、苦々しい視線をこちらに送っている。
　氏族の誇りたる、真っ向からのぶつかり合いの真逆をいく戦法。この戦を終えたら、このやり方を糾弾されるかもしれない。

　構うものか。
　形振りなど構っていられない。

　解かれる砂嵐。間髪入れず突っ切り、敵兵へと肉薄。
　眼球に入った砂に苦しむ敵兵に飛びかかり、首筋へ容赦なく爪を突き立てる。

　その時、夜闇を切り裂くような鋭い光が来た。

「ゼゼ！」

　アイギルが叫ぶより早く、ゼゼは爪を引き抜き倒した敵兵から離れた直後。飛来した閃光が、事切れた兵士を黒焦げに焼いた。

　魔力を帯びた雷光。敵のエンブリオの能力。

　メルンテーゼの戦とはエンブリオの力の総力戦。いわば多種多様な魔力同士の応酬だ。
　炎や雷を操っての直接的な破壊から、神経や精神を侵す毒の行使。どれも一瞬の油断も許されない。

「厄介な奴！」

　炭化した死体を飛び越え眼前、雷光の術者へと駆ける。
　敵兵もこちらに気付いた。術者が第二射の動作を見せる。

　躊躇わず、踏み込む。
　
「おおおおらあああああああ！」

　
　走る雷光。
　夜闇に咲く紅蓮色の爆炎。
　それらの直中をかいくぐり。
　殺したら次の敵。また殺して次の敵。傷を負うとも次の敵。
　減らす。侵略者どもを倒し減らす。

　戦の終わった後など、考えている余裕は一分も無い。
　謗りも罵りもいくらでもすればいい。この防衛線を乗り越えられてしまっては、この戦の意味も未来への可能性すら摘み取られてしまう。

　――ネクターの花を守り抜く。

　その一念がこの身に流れる冷たい血すらもたぎらせる。

　傷を負えば、矢尻に盛られた毒を浴びれば、すぐさま即席の処置を受け戦線に戻り、爪を振り回す。

　それを繰り返す。
　繰り返す度に濃くなる血煙。
　砂が流れた血流を吸い上げる。

　刃向かう敵が続く限り、ネクターを奪おうとする者が絶えぬ限り。

　ゼゼという一頭の蜥蜴人は己の爪を振るい続ける。




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　どれくらい経っただろう。
　どれだけの敵を屠っただろうか。
　どれだけの仲間が命を落としただろうか。
　まだ俺は立っているのか……

　鎧には夥しい傷跡。流れる血の冷たさが鱗を伝う。　
　疲労と負傷のせいか何もかもがどこかぼんやりと、遠く感じる。
　薄く開いた目に倒れた仲間が見える。血にまみれ動かなくなった敵兵も見える。血を吸った砂が黒い。
　遠く、うっすらと朝焼けが昇ってきた。
　気温が高まってくるというのに、気だるく重い。まるで全身の血を鉛に入れ替えたようだ。このまま倒れてしまいたいと思ったとき、自分はまだ立っているのだな、とどこか人事のように思った。

「アイギル……いるか？」

　自分の喉から出たのは掠れた切った、それこそ砂流のような声だった。

「うん……」

　弱々しい声はそれだけを答えた。ただ何処にいるかは見えない。足下だろうか。
　けど生きているなら、それでいい――

「……」

　緊張の糸が一本途切れた。
　ついに堪えきれず、体が砂の大地へと倒れてしまう。

　敵は……まだか。誰か教えてくれ……

　倒れ伏したまま、ゼゼは譫言のように呟き続ける。
　
　もう自分の声も聞こえない。だが、何かが近くに来る音だけは聞こえてきた。

「――で、伝令！」

　で、んれい……？

「今、戦線から伝令が来た。敵を、王の軍勢を――」

　退けた。

「……っ」

　退けた。

　退けた、退けた、退けた退けた。

「しりぞけ、た……！」

　何度も、何度も反芻する。
　勝った。
　言葉にしてやっと、その実感が体中に染み渡っていく。

「ゼゼ……！　ゼゼ、ゼゼ！」

　いつの間にかアイギルが顔のすぐそばにいた。
　その姿はゼゼほどではないが、ボロボロだった。エンブリオを直接狙った攻撃に何度かさらされたせいだ。加えて、力を限界まで行使したためか、透明な妖精の羽は所々が欠けている。
　だがその顔には陰りはない。半べそを浮かべた泣き笑いの表情で、何度も何度も自分の名前を呼んでいる。

「……聞こえているよ。アイギル」

　ゆっくりと起こす体は重い。だが、心は鎖を外されたように軽くなっている。

　――オオオオオオオ！

　昇る暁に向け、誰かが勝どきを上げた。
　次々と氏族の戦士達が天に吠える。高鳴りが連鎖する。
　勝利が至上の美酒となって、戦士達の心に染み渡る。

　ゼゼの心も然り。
　いや、他の者以上の喜びと安堵が胸中に満ちていく。

　希望を繋ぐことが出来た。この手で。
　ぼろぼろになった爪で強く、震えるほどに強く拳を作る。

「ゼゼ！　ぼくらも！」

「ああ」

　力強く拳を掲げる。腹の底から、喜びを声に出す。


　――太陽よりも熱く眩しい輝きが、ゼゼの目の前を通り過ぎた。

　その光をただ目を見開き、見送ることしかできなかった。


　勝どきが消えた。
　一瞬の沈黙。

　そしてネクターの庭園から昇る黒煙が、すべてを悲嘆に飲み込んだ。
　
「消せ！　すぐに消化しろ！」

　飛び交う檄の言葉、波及する混乱。状況を理解できていない者も多い。

　その最中。ゼゼは一心に足を動かす。

　狼狽える者を避け、転がる武器や遺体を蹴散らし、燃える庭園に向けて走る。
　急いで、消さなければ。それだけで頭が満杯になる。
　焦燥に心臓がかつて無いほどに暴れる。

　――消さなければ。

　近づくに連れ、火の臭いが強くなる。

　――消さなければ。

　燃える赤色が、熱が漂ってくる。

　――消さなければ……！

　燃え盛る炎の中に、消失する花の姿が見えた。

　――消さ……

　瞬間、世界が反転する。重力に引かれた視線が、砂の地面へと傾けられる。

　転倒したと、砂を食ってようやく気付いた。

「くそがっ……！」

　毒づいている暇など無い。一刻も早く。
　だが消耗しきった体は、意に反して立ち上がらない。
　ならば這ってでも進む。歯を食いしばり進もうとした時
。

「ぼくが行く！」

　傷ついた羽を広げ、アイギルが羽ばたいた。

　走るゼゼにしがみついていたらしいが、今そんな事は関係ない。

　傷ついた砂の妖精はよろけながらも、一直線に。
　燃え盛る炎の中へと、その小さな体で飛び込んだ。

　
　ようやく消化が始まったのは、アイギルが突入してから数分後だった。

　遅すぎたとしか、言いようがなかった。

　術者が一斉に水を浴びせ、鎮火した炎の跡には黒く焼け焦げた、ネクターの花だったものばかりが残っていた。

　だが全滅ではなかった。

　炎の中、アイギルはその身を呈して守り抜いた。
　ただ一輪の、最後の花を。

（ゼゼが声を荒げたので、少々驚いているようだ）

（こちらは冷静である）

（と言ったきり、石のように固まっている）

ネクターが大事じゃないわけじゃないけど、とつけくわえて

顔に出ていたか、と少し恥ずかしげに、ぼそぼそと喋る。

鞘に入れたままの剣を示し

確りと深く頷く。

突然脳内で喚いたエンブリオに《ウチはウチ、余所は余所》と言いつけつつ。

ちょっと驚いた様子で尋ねる。
彼女の世界では、あまり識字率は高くないらしい。

仮に異世界交流をすれば、気は合いそうである。
刃と拳が混じり合う事は、火を見るよりも明らかだが。

その状況を想像してか、からからと笑う。

手をコキコキと鳴らしながら、にやありと笑った。

そういうと少女はニヤリと笑みを浮かべて貴方をみすえる

たまに無茶やらかすから、と苦い顔で。

たとえ一揆が終わるまでの足止めをされても追いつける自信はあるらしい。
不敵に笑う青年である。

言っていたところ、飛んできた問いに耳をパタリと動かしつつ、

何もかもを飛び越えて迎えに来てやるぜ、と。
そんな宣言である。

しっぽうねうね。

カゴにいっぱいイチゴを摘んできた。

そう言って明るく冗談を言うように笑う。

　そして、一頻りゼゼは笑う。念願がかなったと、狂喜する様に。

　大爪を構え、何時にない闘士とともに戦いに臨む。
　バリオだけが。意気込むゼゼの姿を痛ましげに見ていた。

　

　

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