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　タンポポ荘を後にして、いつか世話になった宿屋に部屋を一つ借りて。
　いつかのように、また三人で眠る夜が来るのだと思うと、ルカは少し嬉しかった。
　し、嬉しいだけではなく、自分だけだと分かるのに、ひどくどきどきして、落ち着かなかった。
　それでも、嬉しいの方が勝るくらいだったけれど。

「話がある」

　アリシアが眠った後で、シズがルカを起こして、そう。
　寝起きのふわふわとした頭では、何の話だろうかとうまく考えることも出来ないで、ルカは緩慢に身体を起こした。
　目を擦って、部屋に備え付けられた、小さなベランダへ足を向ける。
　素足で歩く、ひやりとしたフローリングの床の冷たさに少しだけ、目が覚めるような気がした。

「……あれ。 シズ、眼鏡は？」
「無くていい」
「眼鏡無いと殆ど見えないんだろ？」
「見えなくていい」

　寧ろ、見えない方がいい、とでも言うような、そんな声だった。
　眼鏡を外したシズは、シズなのだが、シズではないような違和感がどうしてもあって、顔の一部のように感じるくらいで、そう言えばシズは、自分が彼から初めて勉強を教わった時からずっと、自分と知り合った時にはもう、眼鏡を掛けていたことを、思い出す。
　十年以上、前のことだ。
　そんなことを急に思い出して、懐かしいなあ、と、ぼんやり。
　もう一つ、その頃のシズは笑っていた気がする、とも。
　十年以上、前のことだ。
　シズが笑わなくなったのは、たしか、

「── ルカ、」
「あ、……っえ、へ、」

　間の抜けた声に、ベランダの壁へ凭れていたシズは小さく息を吐いた。
　最初から話すぞ、と言うシズの話を、ルカは十年前以上を遡っていて何も聞いていなかったワケだが。

「……アリシアにはもう話してある、……元の世界に帰る方法が見付かった」
「ッマジで？！」
「馬鹿、声が大きい」

　しん、と、静かな夜を破くようなルカの声に、顔を顰めて。
ごめん、と謝る声は小さく、シズはアリシアが起き出さないのを確かめてから、話を続ける。

　アリシアに説明したように、ルカにはもう少し言葉を選んで同じように説明した。
はじめのうちは、目をきらきらさせていたルカだったが、ふいに、はた、と何かに気付いて、眉尻が下がる。

「……どうかしたか？」
「ん、と、……ミハウとか、コトカと、会えなくなる、んだよなって、思って」

　此方の世界で、何度も行動を共にさせてもらっている、森の緑色がよく似合う、あの二人だ。
たくさんのことを話したし、一緒に笑って、一緒に戦って、困った時は何とやらというヤツで。
あの二人と共に戦えたから、乗り越えられたこともたくさんあったろうと思う。
彼等と二度と、もう二度と会うことも、なくなるのかと考えて、少し、すこしだけ、

「…………、」
「さみしいか？」
「……ん、……んーん。 また、暫く一緒に旅、出来るんだもんな」

　へにゃりと情けなく笑うルカの、分かりやすい、嘘だった。
眼鏡を掛けていないシズにはよく見えてはいないものの、見えていなくても分かるくらいに。
勿論、その作り笑いがシズに通用しないことくらい、ルカにだって分かっているのだけれど、どうしても。

「さみしい、って、言うとさ、もっとさみしくなるじゃん」
「……」
「だから、言わない」

　そうやって笑うルカの強がりに、シズは何も言って返さなかった。
笑うことで蓋をするようになったのは、いつからだったろうか。
　十年以上、前のことだ。
孤児院に来て間もない頃のルカは、よく泣いていた気がするのに。

「そう言えば、シズ、……どこで聞いたんだ？」
「何を」
「レーヴとアンテが一つになれば、オレ達が元の世界に帰れる、って」
「……ああ、」

　何処で、と言っても、そんな話が訊けるだろう場所は限られている。
レーヴは夢の中でしか、アンテの声は、シズにしか聞こえないからだ。
ルカはアンテに聞いたのだろうと確かめるつもりだったのだが、実際はアンテから聞いたわけではなく、シズにそのことを告げたのはレーヴだった。
　し、

「お前が眠っている間に、一度だけ、レーヴの夢の中に引き込まれたことがある」
「シズが？！」
「だから声が大きいって言ってる」
「……」

　シズがレーヴの夢の中に引き込まれたその夜、ルカはレーヴの夢を見なかった。
朝になり、夢を見なかったことをルカから聞いて、シズは夢の中でレーヴに告げられた話が嘘ではないことに気付いたのだ。
気付いたと言うより、納得がいった、という具合だろうか。
ルカの口から聞くレーヴの話は、（ルカが嘘を吐いているわけではないと分かってはいても）どうにも胡散臭かったから。

「レーヴから聞いた。 その後で、アンテからも、色々」
「元の姿に戻ったら、レーヴ達はどうなるんだ？」
「……訊いてない」

　アンテが言うには、元の姿に戻ることは出来ても、自分達を元の世界へ帰した後で消滅するだろうとのことだった。
レーヴが持つ、あのウサギの姿では、あの器では、力の強さに、重さに耐えかねて、いずれ、と。
それでも、レーヴが元の姿に戻ることを望み、はじめは拒んでいたアンテも、今はもう何も言わない。
アンテは消滅することを恐れていて、けれど今は、レーヴと共に、いずれ消滅することを、受け容れている。
ふたりの間に何があったのかまでは分からないが、アンテは“そうした方が互いの為だ”、とも。

「オレ、アンテとどうやって契約すればいいんだろ」
「……、」

　ルカの問いに、シズは自分の手首へ目を遣った。
レーヴの色より淡く、仄かな光を帯びているそれは、シズが身に付けているブレスレットだ。
細いチェーンの先、小さく揺れるのは空より深く鮮やかな、青い、蒼い石。
そのブレスレットをすい、と示して見せるように、ルカへ。

「……アンテは、コイツに宿ってる。 から、これをお前に貸す」
「それでいい、のか？」
「俺が契約を破棄して、お前が契約し直せばいい。 ただし、レーヴとアンテが一つになったら、名前が変わる」

　レーヴもアンテも、他のエンブリオ達もそうだ。
そのエンブリオの力を引き出す為に、呼び起こす為には名前を呼ばなければならなくて、名前を知らなければならなかった。
　名前が変わるということは、レーヴやアンテではなくなるということで、

「……名前が分からなかったら、力、借りられない、よな……？」
「本当の名前は“スエテ”、──俺達が元の世界へ帰る時に、呼べばいい」
「それも、アンテが教えてくれたのか？」

　一つ頷いて見せたシズのブレスレットを、まじまじと見詰める。
　いつだったかシズが夢の中でアンテと契約した、その日に気付いたが、それより前からシズはこのブレスレットをつけていたらしい。
　ルカは、いつからシズがつけていたのかを知らないが、このブレスレットがシズにとって特別な物なのだろうということくらいは、分かっていた。
　ブレスレットに向けるシズの目が、少しだけ、少しだけやさしくなるからだ。
　本人はきっと無意識だろうし、言っても否定されてしまうだろうけれど、ルカには確信があった。
　付き合いの長さもあるだろうが、ルカはそうした人の機微に（良くも悪くも）敏いからだろうと思われる。

「……オレ、アンテと話がしたい」
「契約したら出来るようになるんじゃねぇの」
「だといいなあ」

　言いたいことがあるんだ、と、ルカはぽつり、呟いた。
　言いたいことがあるなら、今言えばいいだろうとは思ったが、恐らく、それでは駄目なのだろう。
　逆に、契約を破棄すれば、自分にはアンテの声が聞こえなくなるということだ。

「……そう言えば、さ、」

　シズが目を細めたのをルカが見上げて、首を傾ぐ。

「もしかして、シズの具合が最近良いのって、アンテのお陰だったりするのか？」
「……なんだそれ」
「だとしたら、アンテとシズ、契約解いちゃマズいんじゃ、ねーかなって……」
「……、」

　嫌な間が空いた。

　シズがそうして沈黙したのに対し、ルカは目を丸くして、笑顔がだんだんと、失せていく。

　嫌な間が空いている。

「……シ、──」
「これでいい」
「……、」
「俺には今しか無いし、時間も無い。 ……それに、元の世界に帰ることを、誰よりもアリシアが望んでる」

　だから、と、シズが部屋を、ベッドで眠ったままのアリシアを振り向いて。

「……契約を破棄したからって、すぐに死ぬわけじゃねぇから、そんな顔すんなよ」
「…………、」
「聞こえねぇ」
「なんで、そん、なの、」

　ルカとシズとの間に、食い違いがあったとして。
　そんなものは些細なことで、ルカが泣きそうに、怒りそうに俯いて、どうにか声を絞り出す。
　シズはアリシアからルカへ向き直り、震えた声が言わんとしたことにハッキリと、


「── 好きだから、」


　けれど、何かを押し殺すように、静かに、


「……アリシアが、好きだからだ」


　しん、と。

　ルカは。
　ルカは、シズがアリシアのことを好きだということには自分の気持ちに気付くより前に気付いていたし、ルカ自身、思っていたよりも驚かなかった。
　すぐに何か言って返さなかったのは、返せなかったのは、ルカの中でどうにか何とか釣り合うようにとさせていた天秤が、シズの声に、言葉に、想いに、大きく揺れたからだ。
　三人一緒に居たいのだ。
　その為に、この気持ちを抑え込む為に、これでも。

「……っでも、アリシアがそんなこと知ったら、」
「言うつもりはねぇよ、」
「ッ、え、」
「アンテに生命力を分け与えたことも、アンテに身体を支えてもらっていることも、
　そうでもしねぇと具合悪くて仕方無ぇことも、……アリシアのこと、──好きだってことも、全部」

　言うつもりはない、と、そう、言い切る。
　押し殺すようだった、さっきの言葉よりも強い声音で、シズは。

　仄暗い金色の双眸に、ルカの情けない顔が映っている。
　シズにはそれが見えていない。
　同じように、ルカの青みが強い緑色の双眸に、シズが映っている。
　シズにはそれが、見えていない。

　つらそうに見えるのだ。
　何がと言われるとルカには説明できないが、敢えて言うなら、何もかもが。
　それがルカには辛かった。

「……な、んで、言わねえの」
「いくら馬鹿でも、お前にだって分かるだろ」
「……、」
「大事な人には笑っていてほしいって、そう思うだろ」
「ッだけど、」
「……あいつ、やっと笑ったんだ」

　アリシアの笑顔がだんだんと少なくなっていったのは、今から少し前のことだ。
　原因が何であるかなんて分からないし、知ろうとして彼女の内側へ踏み込もうとすれば、繊細な彼女を傷付けてしまうことは目に見えていて、だから原因なんてそんなもの、この際どうでもいい。
　それでもアリシアが、今も昔も変わらずに、

「家族の話してる時、あいつは昔も今も笑ってただろ」
「……うん」
「だから、俺は何も言わない」

　彼女が会いたいと願うなら、一日も早く会わせてやりたいと思う。
　その為なら、この身が今更どうなったところで、どうせ長くはないのだから構いやしない。
　知らなければいいことだってあるのだと、それをシズは知っていて。
　我儘と自己満足の入り混じった、こんな汚い想いなんてそんなもの、彼女に、アリシアに差し出せる筈が無い。

　
　気付かないままでいてくれれば、それでいい。

　しあわせで、居てくれるなら。


「……、…………」
「コトカ達の前で、そんな顔すんなよ」
「……うん」
「……、……ごめんな」

　部屋の中へ戻ろうと、シズがルカの横を通り過ぎる、時にだ。
　何に対する「ごめん」だったのか、ルカには分からなくて、思わずシズの腕を掴む。
　掴まれるとは思っていなかったんだろう、シズの肩が跳ねたのを、ルカは見逃さなかった。

「シズ、……なんで、今、」
「……」
「……シ、──」
「放せよ」

　ルカが怯んで、手を放す。
　さっきまで話していたものより、ずっと低い声で、シズがまた何かを押し殺したのだとは分かっても、その「何か」が、ルカには分からないまま。
　小さく、小さく、ルカが謝って、シズは肩越しに振り返り、ルカを一瞥した。
　目を凝らすようにルカを見、何かを確かめて、すぐに向き直る。

「……さっさと寝ろよ。 起こしたの、俺だけど」
　

　帰ると言う言葉に、目を瞬かせた。
　一瞬、沈黙して、

　少しだけ、寂しそうな表情を浮かべたものの、直ぐにいつも通りの調子に戻って。

書の名前を挙げながら、並ぶ二人の顔をそれぞれ見比べる。
その視線の先が何を追っているか、探るように瞳を覗き込まんとして。

ふにゃりと、困ったように笑いかけるシズの頭へ腕を伸ばし。
その揺れる頭髪を撫で付けようとした。

ドラゴンだった頃の姿、と聞かれて、思いを馳せるよう瞼を伏せる。

龍の姿では、人の世には馴染めぬだろう。
そう一言補足した。


言葉を選びながらも、なんとか言い募ろうとするルカに対して、
ふ、と、少しだけ、気が抜けたように表情を緩めた。
そうだな、と、相槌。

それが過去を語ることばで、
だから全て、置き去りにされた寂寞が滲んだ。

こちらの事情が、そのまま異世界に当てはまるかは分からないにしろ、不思議そうに問い。

ルカの言葉に、そうですよね、と笑う。
その笑みからは、気負いがなくなっていて。

手放しで褒められれば、照れて目を逸らし。
それでも首を左右に振って、そんなことは、と言いつつ言葉を継ぎ。

だから、続いたんだろうと。

格好良い、と言われれば、目を丸くしてから。

イェジが見かねたように呟く。きっと、彼に悪気はないのだろうけれど。
褒められることに慣れないミハウにとっては、嬉しさよりも、どこか気恥ずかしさが先んじるようだ。

　些か気にした様子で、訊き返した。
　そう言う自覚はあったらしい。

　一度、言葉を切った。
　それから、首を横に振って、

　気にしないで、と少しさみしそうに、それでも小さく笑った。

　真顔である。

　彼の様子を見るに、彼の身体の問題もあるのだろうけど。それには敢えて、触れなかった。

ぶわり、とイェジの周辺を青い光が取り巻く。
それを横目に、ミハウはフレイルを構えると、じっと相手を見据えた。

　イヌワシは、一つ、大きく羽ばたいた。