「君も菫なんだね、アリス」

　いつもの夢の中。佇む少女。声をかければ悲しそうに笑って、こちらに目を向けた。

「教えてもらったのね、菫の話」
「そうだよ。菫の、“最期”のことも」

　頭の中、何時までも離れないのはゼスの言葉。
　このまま居たら、私は死ぬ。恐らく、あの泣き虫な天使と、意地悪な兎の手によって。全てをゼスは口にしなかった。でも憶測ぐらいは出来る。菫が眼を抉られた状態で変死する原因。それは、あの二人の手によるものだ。
　その理由は分からない。分からないからこそ、だ。

「……ねえ、君は何か知ってるんでしょう」

　聞きに来たのだ。この夢の中でしか会えない少女に。

「――アリス・シェリーヌ」

　白い髪に菫色の瞳を持つ、この少女に。

「うん、私は全部全部、知ってるわ。……ずっとアリシアにね、気付いて欲しかったの」

　長い髪を揺らしながらこちらへと歩み寄ってきたアリスは、そっと私の頬に触れた。その指先があまりにも冷たすぎて少し驚いてしまったけれど、でも嫌な気分というわけでもなく、寧ろ落ち着くような、そんな不思議な感覚。

「貴方は私の生まれ変わり……とは、また違うかしら。そうね、もっと近い言い方をすれば、そう、魂の輝きが、似てるのかな」
「魂の輝き？」
「とっても似てるの、私と貴方は。私はそんな人と出会える日を、ずっとずっと待ってた」

　今まではずっと、ぼんやりとしか彼女と話すことは出来なかった。酷く懐かしい気持ちを彼女に出会って抱いたけれど、触れることは出来なくて。会話を交わしたこともあるけれど、起きてみれば朧気なそれで。でも、今は違う。今ははっきりと彼女と話すことが出来てる。
　私が、菫のことを知ったから、だろうか。

　頭の隅でそんなことを考えながら、頬から離れていく彼女の手を視線で追いかける。
　彼女は両手を後ろに回し、数歩私から離れると小首を傾げて微笑んだ。

「アリシア、私はね。……一番最初の、菫なの」　


＊

　シェリーヌ家の者は全員が白髪と蒼眼を持って産まれた。故にシェリーヌの性を持つ者は全て、全員が同じ髪と眼を持ち、それ以外は家の者にとって有り得る筈のものでは無かった。ある日、“菫”の瞳を持つ女児が産まれるまでは。
　家の者は酷く動揺した。科学や医療の進んだ現代よりもずっと昔のことである。何故そのような子が突然産まれたのか理解の出来なかった彼等は、その子を最初異端児として扱い、“アリス”という名だけ与えて一つの部屋に幽閉して育てることを決めた。

　アリスは孤独だった。食事と入浴の時以外は誰も部屋に入ってくることは無く、例え会ったとしても誰も目を合わせてなどくれない。与えられたのは申し分程度の玩具にぬいぐるみ。それらを毎日両手に抱えて、一人きりの寂しさをずっと癒していた。

　しかし、彼女の孤独は永遠のものではなかった。

　世界と世界は繋がっている。扉と道さえあれば、渡り歩くことも難しいことではない。その花はたまたま、世界移動に巻き込まれてこの世界に迷い込んだものだった。
　彼女の部屋のベランダに落ちていたのは、紅い花。拾い上げたのは勿論彼女。物珍しさから部屋にその花を飾った彼女は、花を育てることにした。花が枯れれば、種が出来る。そうして彼女は使用人にお願いし、用意してもらった小さな鉢に土を入れ、種を埋め、水をあげた。毎日毎日一人きり、変わり映えのしない毎日。そんな彼女にとって花を――ネクターを育てることは、繰り返される毎日の中での唯一の楽しみであった。

　きっとそれだけなら何も無かったのだろう。エンブリオの居ないその世界では、ネクターは只の花でしか無かった筈だった。
　けれど、彼女は違った。それは“菫”とは関係無かったのかもしれないし、あったのかもしれない。とにもかくにも、彼女には一つの能力があった。
　

＊


「――私はね、命の無いものに、命を与えることが出来たの」
「……え？」

　予想もしていなかった言葉に目を瞠る。だって、それは迷信ではないのか。ゼスだって言っていた筈だ。お前の母親はそんなことは出来ないだろう、と。それはシェリーヌが菫を神格化する為に勝手にでっち上げたただの作り話だって。
　そう、思っていたのだが。

「私だけが特別だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。菫でネクターを手にしていたのなんて、私ぐらいだろうから」
「ネクターが、関係あるの？」
「そう。……といっても、ネクターを育てながら、ぼんやり考えただけなのよ」


“こうやって花を育てながら、一緒にお話出来る友達が居たら、どれだけ楽しいだろう”


＊　


　ぼんやり考えただけであった筈だった。それなのに、不思議なことが起きたのだ。
　少女が上の空で水をやっていた時だ。今まで好んで誰も触れようとしなかったその肩を、つんつんと叩く小さな手。驚いて振り返った少女の目の前に居たのは、兎のような、熊のような身体を持った小さな生き物。ネクターと同じように真っ赤で澄んだ目をじっとこちらに向けて、首を傾げた。

　最初こそ驚いた少女であったが、彼女が種族は違うといえど言葉の通じる生き物であると分かった途端、楽しくなって沢山の会話を交わした。今まで誰とも出来なかった些細な他愛の無い話。少女の話を聞いていた彼女も楽しげに彼女の言葉に返事を返し、静かだった部屋の中は一気に明るさを増した。

　そして眠る直前、少女は気付く。部屋の中の、兎のぬいぐるみが無くなっていることに。
　どこにやったわけでもない、捨てた覚えも全然無い。どうしてだろうと首を傾いだ少女の視線に入ったのは、自分の隣で眠る小さな生き物。手や足はともかくとして、頭には兎の耳、腰には兎の尻尾。
　まさか、と思った。


＊


「どうしてだかは、分からないけれど。……育てたネクターと、私の願い。それが、きっとぬいぐるみに命を与えた」
「ぬい、ぐるみに」
「ええ、そう。……貴方の傍に居るエティ、元はただのぬいぐるみなの」

　信じられるようで、些か、信じ難い話だった。自分を見下ろしては楽しく笑い、他人を蔑んでは面白そうに哂う。そんな彼女が人形だなんて言われても。
　それでも、目の前のアリスが言うのだから本当の話なのだろう。そもそも、嘘を言っても仕方ないし。

「……ということは、ピユも、ゼスも？」
「そうだよ。もしかしてって思って私が次の日に同じことをしてみたら、違うぬいぐるみにも命が宿った」

　ぬいぐるみが、ネクターによってエンブリオに。可笑しな話だ。有り得なさそうだとは思うが、今三人が存在していることが何よりの証拠。

「びっくりしたし、おかしいなって、……でも、そんなこと気にならないぐらい、とても楽しかった。三人とも凄く個性的で、私ずっと一人ぼっちだったから、四人で話したり、遊んだりするのがとても楽しくてね」
「……うん」
「だから、友達、だったんだ。いつの間にかあの子たちのことが大事になって、ずっと、ずっと楽しく笑い合って過ごせれば、良いなって。……でも、ダメだった」

　アリスが視線を落とす。伏せた瞳はじわりと滲んで、彼女の表情から笑みが消える。
　何か声をかけるべきなのだろうか、そう悩んだもののどうすればいいのか分からずに、ただ次の言葉を待つことしか自分には出来ず。

「……どうしてもね。離れないと、いけなくなった」


＊


　少女が外に出ない内に彼女の評価はいつの間にか上がっていた。最初こそ異端児として彼女を恐れた家の者ではあったが、よくよく見ればその瞳の色は蒼の瞳よりも人々を惹き付ける、魅力に溢れたものであることに気付いたからだ。もしかしたらあの瞳には不思議な力でもあるのかもしれない。そんな適当なことを最初に言い出したのは誰だったのか分からないが、いつの間にか少女はシェリーヌ家の大事な人物として認識されるようになっていた。
　だから家の者は、そんな特殊な彼女を政略結婚の鍵として扱おうとしたのだ。濁りの無い澄み切った“菫”の瞳。その輝きを欲しがる男は多く居た。彼女自身もまた美しい娘であり、それも多くの人々を惹き付ける原因となったのだろう。

　けれど彼女はそのように誰かの元に行きたいとは望まなかった。それでも、家に逆らうことは出来ない。
　逃げ出すことも叶わず、刻々と家の為に犠牲にされてしまう日は近づいてくる。

　少女は三人と離れたくなかった。行きたくない、離れたくないんだと毎夜泣く少女の姿を見て、三人もどうにかして少女を此処に留める術はないかと考えた。
　もしここで、少女と三人が諦めていれば、また違った未来があったのかもしれない。若しくは枕に顔を埋め涙を零す少女の姿に、三人の精神がそこまで磨り減っていなければ、明るい未来もあったのかもしれない。

　だけどその時、少女も三人も限界だった。
　三人は少女が大事だった。自分に命を与えてくれた少女を、自分たちを友達として大事にしてくれた少女を、何としてでも守りたかった。
　それでも自分たちに出来ることは全くと言っていい程無くて、無力さをただ噛み締めるだけで。

　だから、ついそんな一言が零れてしまったのだ。

“菫さえ無ければ、良かったのにな”

　冗談のつもりで彼が零した言葉を、本気にしてしまった二人。
　限界だった二人はその言葉を本気にして、少女が家を出るその前夜、とうとう一つの罪を犯した。
　気付いた時には既に後戻りなんて出来る筈が無く、真っ赤に染まった自分たちの身体と、床に伏せた少女の姿。
　そしてその横に転がっていた“菫”を視界に入れた瞬間、二人はもう、正気では居られなくなった。

＊


「私に、そこからの記憶は、無いの。生きていたのか死んでいたのか、今ではもう、どっちだったかも分からない」

　ぽたぽた。自分と同じ色の瞳から零れる透明な雫が、地に落ちた。それでも尚、彼女は震えた声で言葉を続ける。

「……でも、その時にきっと、三人は正気じゃ居られなくなった。それでもただ一つ、強い想いだけがあの子たちの胸の中にはあるの」
「強い、気持ちって？」

　だから自分も言葉を遮ることなく、寧ろその続きの言葉を促した。
　必死に話そうとする彼女の邪魔をしたくなかったというのもあるし、何より、私が気になるからだ。
　この話は全て、きっと、自分が知らなければならないことなのだろうと分かっているから。

「菫というものは、持ち主を不幸にする、悪いもの」
「……悪いもの」
「そういうわけじゃ、きっとないの。それでも、おかしくなってしまったあの子達の胸には、その思いしか今はなくて」

　だから、と。彼女はそこで言葉を切った。それ以上は言わなくてもわかるだろうと思ったのだろう。
　菫の変死。眼を抉り取られて死んでしまう彼等。私たち。それは、あの子達が行っていることだ。あの子達にとって菫は、シェリーヌの菫はいけないものだから、無くしてしまわなければならないのだと、きっとそんな思いで。
　怖い、とは思わなかった。おかしいとも。寧ろ、今この胸に抱く感情は。

「……あの子達は、私のこと、大切にしてくれてただけだった」

　ただ、その方法を誤ってしまっただけなのだ。彼女に幸せになって欲しくて、それでも出来ることがなくて、唯一思いついたのが、それだけだった。

「皆良い子なの、とっても、とっても良い子なのに、……このままじゃ、ずっと、同じ過ちを繰り返してしまう」

　何故だか痛いぐらい、彼女の気持ちが伝わってくる。繰り返す過ちを止めてあげたい。気付かせてあげたい。それなのに、もう死んでしまって、何も出来ないもどかしさ。

「だから、ね、アリシア。私は貴方のこと、ずっと待ってた」

　彼女が自分の瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳を私も真っ直ぐと見つめ返す。漸く、理解出来た。
　彼女が自分を待ってた意味。いつの日か彼女が自分に投げかけた言葉の意味と、わけもわからずそれでも自分が彼女に言葉を返したその意味。

　今ならはっきりと、全部わかる。

「私と同じ輝きの魂を持つ貴方にしか、きっと出来ないの」

　何を、彼女が望んでいるのかも。

「貴方にはきっと、私と同じ“力”があるから、だから、……お願い」


「……救ってあげて」


　涙を流しながら、それでも彼女は笑った。
　だから私も、同じように笑みを返す。


「――うん」


　一つの覚悟を、胸に抱えて。

　帰ると言う言葉に、目を瞬かせた。
　一瞬、沈黙して、

　少しだけ、寂しそうな表情を浮かべたものの、直ぐにいつも通りの調子に戻って。

ぶわり、とイェジの周辺を青い光が取り巻く。
それを横目に、ミハウはフレイルを構えると、じっと相手を見据えた。

　イヌワシは、一つ、大きく羽ばたいた。

息をついて、周りを見渡す。危険がないことを確認すると、武器を下ろした。

　ウルヘアは得意気だ。

緊張した面持ちで、一礼したあと。武器を構えて見据える。