――Agnus Dei，（神の子羊、）
――qui tollis peccata mundi:（あなたは世の罪を除き給う）


　それは、私の姉、カーミラ・ピットが好んで聞いていた、賛美歌でした。
　この曲を聞く度、教会で吸血学の研究をしていたカーミラの姿が、思い起こされるのです。

「ねぇ。ローラ。どう？」

　カーミラは私に、撫でるような声色で語りかけます。あの蠱惑的な捕食者の声！　あれを聞いて、平然としていられる人間は、男女問わず存在するはずがありません。
　そのくらい姉は超然で、同時に逸脱していました。

「どう……と、言われましても」
　ですから私――ローラ・ピットが、そのような呆けた返答をしてしまったのもまた、無理からぬことなのです。
「この状況よ。素敵じゃない？　教会で悪魔の研究をするのって」
　カーミラは吸血人のことを、しきりに“悪魔”と呼んでいました。
　彼女は吸血人である私とは違って極々平凡な人間でしたが、だからこそ吸血学に対して、悪魔の知識と認識していたのかもしれません。

　私は、その時からぼんやりと気が付いていました。
　――彼女が、私達などとは違う、本物の悪魔であるのだと。




　ラウラ・レ・ファニュは、有り体に言えば困惑していた。

「っ。まっ、話を――」

「――問答無用ですッ！」

　氷の刃と、炎の嵐。
　苛烈な二種の技を見事に連携させ攻撃してくる人物が、二人。

「……交渉どころではないか。ベルクレア騎士団の人間は喧嘩っ早い、と聞いてはいましたが」
　蝶のように攻撃を躱すラウラに対し、軽薄そうな焔使いの男――ドロワが言葉を返す。

「酷い話だなぁ。否定はしないけれど」
「無駄口は、後にして下さいッ！」

　最初に攻撃を仕掛けてきた氷使いの女、リーゼロッテはドロワを窘めると、休む間も与えぬ程に激烈な魔法を放つ――が。大量の氷塊は全て虚空を切り裂く。

「……。ほぅら。私はこちらですよ」
　上空から声。すると隙の出来たリーゼロッテをカバーするように、紅蓮の焔が飛び跳ねるラウラを襲う。
「しししっ。流石に空中じゃ、回避は出来ないよね？」
　口元に手を当て、得意気な表情を見せるドロワ。

（流石に一筋縄では行かないか……）
　眼前に迫る豪炎を前に、ラウラは――自身の手首を切り裂く。
「この女、人間ベースの吸血種か！」
　噴き出した鮮血は凝固し、膨張し、真紅の盾へと変質。襲い来る焔を防ぎながら落下していく。
　勢いを失い、掻き消された焔。術を行使したばかりのドロワに、お返しとばかりに盾が投擲される。

「しまっ――」
　盾は空中で流動する血液に戻ると、再び凝固し、槍の形へと変化する。
　最早逃れられない。ドロワがダメージを覚悟した刹那。
「――貴方に怪我でもさせたら、カーナルド様になんて言えば良いのよ」
　血液の槍は氷壁にその勢いを阻まれると、溶けて水滴と混ざりながら地面へ流れ落ちた。

「強かったね」
「ドロワ、貴方が手を抜くからでしょう？」
　氷がひび割れ、崩れ落ちる。
　二人が予想していた通り――ラウラは既に、煙のようにその場からいなくなっていた。

　　　†

――miserere nobis.（我らを、憐れみ給え。）


　最近のカーミラは、召使いの妖精がお気に入りらしいです。ブラウニーだとか言う妖精の血液を、しきりに吸って遊んでいますが、あれの何処が良いのか、正直言って私には理解しかねます。
　本来吸血人が無闇やたらと妖精の血を吸うことは体に良くないのですが、彼女の場合種族は吸血人ではなく人間なので、そういった意味でこれらの吸血行為を愉快がっていたのでしょう。


　どうせ、一時的な話です。すぐに妖精の血を吸うのなんて、やめてくれるはず。
　そんな私の期待は、しっかりと芽吹くことになります。

「やっぱり私、ローラの血が一番美味しいと思うの」
　嗚呼、思わず綻んでしまうこの頬をお許し下さい。私は吸血人でありながら、人間であるカーミラに血液を吸われることを、望んでいたのです。
　血を綴っている彼女は、如何なる吸血鬼よりも荘厳で、絶対的な……そう。まるで概念のような存在だったのですから。人より上位の存在に心奪われることも、無理からぬ状況だとご理解下さい。

「吸ってあげるわ。ローラ、おいで――？」
　強引に肩を引き寄せられたあの時、私は間違いなく恍惚としていました。
　幼い時分より幾度も幾度もカーミラに血液を吸い取られていましたが、一度たりともそれを退屈に感じたことはありません。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ヴァンパイア
　彼女は吸血人ではないけれど、だからこそ正統な吸 血 人である私の血を吸うことが出来たのですから。これが退屈に思えるはずがありません。
　私は、幸せでした。

　　　†

　――初めて彼女に名前を聞いた時から、僕はそれを、奇妙な符号だと考えていた。




　ラウラ。それは僕――ミラルカ・ハウダニットが、このメルンテーゼに来て、初めて出会った少女の名前。



　ローラ。それは僕――ではない誰かの記憶の中で、出てきた名前。カーミラの妹。
　

「これは偶然なのか？」
　二つのスペルは一致する。しかし何故。
　仮にラウラが偽名を使っていて、本名がローラであったとして。わざわざ、偽名であると特定出来るような名前を使うはずがない。

　ならば別人？　しかし記憶の中の声色は非常に似通っており、偶然にしては出来過ぎている。

　心の奥で、そんな声が聞こえた気がする。

　僕はただ黙っている。
　心の声に、耳を傾けながら。

　
　帽子を取って、ぺこりと頭を垂れる。

少年の出す案を楽しそうに聞く少女。

氷のような冷たい、ともとれる笑みを浮かべた少女は、しかしすぐに表情を崩し続ける。

そのような相手を減らす意味はないでしょう？
少女はそう少年に問いかける。

では二つ目をお願いします。
一つ目の案はどうやら却下されたようだと推測し、少年は続ける。

学も教養もあるとは言えませんからねぇ。と少女は柔和な笑みを浮かべる。
どうやら二つ目の案も却下されたようだ。
少年は三つ目の案を告げる。

少年の言い分に、少女は驚いているようだ。

青年はすぅ、と息を吸い、ゆっくりと尋ねた。

自分に対することだと思っていなかったのか、首をかしげる。