Side:B　彼女の世界

泡沫のようにのぼらず、落涙のように落ちることもない。無為に漂い游ぶばかりの『水』を、滴らせる。
白魚の指間より零れる水の欠片。残滓。滴る『名残』の潤いをそっと口に運び―――



にちゃ、



――――んっ

握り潰した白桃を、掬い舐めるように、舌を這わして滴を舐める。指の甲を啜り、吸い取って口にふくむ。


こきゅ　　こきゅ　

　　こきゅ　　　　　　　　こきゅ
　　　　　　こ　　く

飲み干す喉は、未だ、潤う事を覚えたがらない。
『彼女』は涙を浮かべる。手に落ちたそれをも飲み込む



―――――ぁ

水滴が破裂する音に鈴を転がすような声が反芻する。
一緒に毀れた水を、静かに啜って、唇を閉ざした。
焦がれた様に癒えぬ渇き。喘ぐ声は時折苦悶に満ちる。








Side:C　もう１つの世界


ふい、と、意識が浮上した。
最初に感じたのは、怠いと思うぐらいの体の重さ。意識がはっきりしてくるのに従い、反比例でもするかのように鉛みたいな重さと鈍さが伝わってきた。
全身、特に頭。鉛であって、鉄じゃないだけマシであるが。

「…………」

緩慢な動きであったが瞼を開けた。まだ半分より上は開かないが、周囲を目の動きのみでゆっくり捉え出していく。
光を遮断するような分厚い紅色のカーテンが風に揺れ、窓際に飾られた花が俯く。簡素な卓と椅子のひと揃え、チェスト。それ以外は何もない部屋。

「……ここ」

どこだ、と虚ろに呟いた。
まだ気怠げで動く事も儘ならない。そのうつろな呟きに応える声があるはずも―――

『　にゃぁ。　』

―――ないことは、なかった。
黒猫がベッドの端に、ひょいと飛び乗ってくる。こちらを見つめて数秒。もう一度、鳴いた。にゃぁ、と。
傍の窓から風が吹いた。柔らかな風が。今何時かは分からないが、髪を揺らしたその感触は確かに柔らかく。

猫に一瞥くれた後、気になって再び横手に目を向けようとした所で、

「……あれ？」

唐突に、視界の端に眼に入る。耳にする声。
瞼を三分の二まで開いたところで、同時に声が聞こえた。ひとのこえがした。

「……なんでアンタがここに」

傍らにいる黒猫がまたにゃあ、と鳴く。代わりに代弁するように鳴かれても、自分はそれを理解できない。
どうしようもなく、久しく見なかった知り合いを見据えて、目を細めた。

「……あなたも、どうしてここに」

食事でも作っていたのだろうか。エプロンを巻きつけて喋る彼女からは良い香りがした。甘い砂糖の香りとすっきりミントのもの。
片や存在を伝えるように猫も一声鳴いた。

「ラウ。あんまり遊ばないようにね」

察するに、この猫は彼女の飼い猫らしい。それにしては異質な気配が湯水のごとく溢れてくる、が。軽くとがめるだけですませるなら害はないのか、それとも単に知らないだけか。
――猫はこちらを見上げて、一声また鳴くや尻尾を軽く足に巻きついてくる。
確か、親愛の印。擦り寄って柔らかな毛並みを押し付けたかと思えば、開かれた窓に向かってひと跳び。気儘に外へと飛び出していった。
ラウというらしい猫が去ってから、彼女の方に向き直る。
最後に会ったのは何時だっただろうかと思考の端で考えて、問いに器用にも片眉が上がった。

「それは俺が聞いたんだけど」

お互いに何故だなんて聞きあうだなんて、笑い話にもならない。軽いため息をついて首を左右に振る。
自分がいった事が正論とは思ってないが、問いを問いで重ねられれば嫌にもなろう。答えようがなくて唇に指を当てて考えている様子だった。
もう一つ二つと目を瞬かせて、仕方なく話題を変える。

「あの猫、アンタのなの」
「……私の」
「へぇ……」
「……そう腰掛けてばっかりだと食べられません、から。こっちに寄って。先日見つけた、雪の様に溶けやすい砂糖で作った御菓子があって―――」

先に目についていた卓に菓子の盛られた机を寄せる。
それ、と視線で示して、己はやっぱり緩慢な動作ながら体を曲げる。
未だ重たく感じられる額に手を当てる。「手助けは必要？」と聴いてきたのはのろのろと首を振って答えた。


◇


契約者として自分は目の前の人と『契約』した。エンブリオとかいう区分に属する素養を持っていたとかで、自分は半ば安全を確保する為に彼女を契約した。
元々別世界の人間だ。右も左もわからない混沌とした世界を歩くのはマフィアを相手にするよりも面倒で難しい。だから彼女と契約してやった。

「シツジの素養？」

すとん。座りながら、何の説明もなく、不意に要点だけ聞いた。

「あなたとは契約に当たってシツジっていうエンブリオを『入れた』。だからその力を馴染ませている段階」

何と、形容して良いものか。ふいと細まった闇色の目に視線を刺されてか、急におどおどし始める。夜の藍を湛えた髪が風吹く窓へと向け、流される。
やや長い沈黙を経てから、彼女が髪を揺らして目の前に。

「あなた、道で倒れていたから、衰弱していたから。回復させるためにやむを得なかった」

覚えているのは僅かな事。現代世界を軸として普段通り過ごしていたら、この世界に落ちてきた。
タイムトリップとか、そういうものらしい。
怪奇現象やら何やらはともかく、ファンタジー世界に紛れるなんて経験は自分にはない。
都市伝説も情報もコネも使えないから、確か頼った。

眠気も何も、怠さも何も一時ぜんぶ吹っ飛んだかのような声を出した。顔をしたともいえる。

「……悪い。ありがとう」

声を零して、ぽかんと間の抜けた顔で目線の高さの下がった相手を見返した。その相手は安心してから、満足そうにしていたけれど。

「……名前」
「ん……」
「名前ちゃんと聞いていなかったよな。なんていうんだ、アンタ」

きょとりと目を丸くしてから一拍。偽は微笑み、花瓶に挿してある花を一瞥。種類は分からないが、桃のような香りがほのかにする。

「――白桃の女」

肘を机の上においた彼女はいじわるめいた笑顔でそう云った。

「……そ」
「素っ気ないですね、あいかわらず」
「豹変するアンタに云われたくない」
「……素直じゃない」

どっちがだ、と悪態を突こうとした口は、目の前に差し出されたカップケーキの目算処理するのに時間をくった。
差し出しながらもカップケーキを片手にかぶりつく彼女はマイペースだった。食べろ、と眼は語る。
甘ったるくむせかえるような匂いがするそれを勧められ、一口。

「そこそこ。頭をばかにするくらいただれてるスイーツ脳なら喜ぶんじゃない？」
「貶しているんですか？」
「さぁてね」
「……それで、これからどうするんですか？」

シツジのエンブリオとして活動する場合、たまにで良いから一緒に出掛けるのに手伝って欲しいらしい。彼女は一揆という時代錯誤めいた渦中に巻き込まれたらしく、共に奮闘しているらしい。
ただ直接的な支援は必要ないらしい。

「……元の世界に戻れるなら付き合ってやる」

ずっととどまっていた返事をようやく返す。
手つきは傍に置かれた菓子を貪り、そのままに視線のみ相手へ上げようとする。だいぶ落ち着きはしたが、この話題が返れば溜息が零れる。

「で、まず何をすればいいんだ俺。契約主なんだから、命令とかあるだろ？」
「そうですね」

カップケーキをもそもそ食べながら、指に手を吸うようにして砂糖を舐めとると。

「あなた、学生でしたよね」
「そうだけど」
「なら、学校を創りましょう」

（相手の動揺と続いた言葉にくすっと笑って）

（相手の心中を見透かしたように、そんな事を楽しそうに口にする）

手でこのぐらい！と示しているのは手のひら大。一般的なサイズです。

無意識的なものなのか、わずかに察するものでもあるのか、頭を抱えるように添える手は耳を隠しているようにも見えました。

一心不乱にあなたからもらった蜜を舐め始めます。
感想は、聞くまでもないでしょう。

　出した結論を。受け取らないという答えを告げる。
　と、偽と名乗った少女はこちらの答えに柔らかく笑んでみせた。
　下した決断を励ましてくれている、そんな笑顔の様に見えた。

　なんとなく、救われた気がした。そう思うと、自然と感謝の言葉を紡いていた。

　そして手渡される小さな麻袋。
　指先で触れてみると、それなりに硬い小さな粒のような感触が返ってきた。

　予想をしつつ手触りを確かめていると、偽から袋の中身の説明を受けた。
　中身はネクターの花の種であると。
　欲していた物が今、手の中にある。それは紛れもなく喜ぶべき事でもあった。
　だが、しかし。

　知り合った者が襲われた事を聞き流すことなど出来るはずもなかった。
　これはある意味ネクターよりも大事な事柄である。

　恩を受けるならば、それに報いるのも礼儀である。
　そうして、ゼゼは偽の答えを待つ。

手を這わされて泣き声が小さくなった…

撫でられてだいぶ落ち着いたようだ…

そして懐から上質そうなハンカチを取り出して涙をぬぐった…

なんとか立ち直ったようだ…。

元の明るい気丈な彼女に戻り始めた。
太陽のようなその笑顔は眩しかった気がする。

ちょっと気になったようだ。

かなり気になっているようだが、話したくない可能性もあるのか
そこまで追及はしないようだ。

軽く頷いて返したルカの言に、横で小さく、シズが息を吐いた。
その平和の、礎と言えば聞こえはいいだろうか。
過去、数多く起こった争いの、その上にある副産物として、今の文明や平和があるのだ。
それをシズは知っていて、ルカは知らない。

良いことを思い付いた、つもりだったらしい。
ぱあっと明るんだ顔でルカが言えば、ぴしゃりとシズが口を挟んだ。

溜息混じり。 それは、疑心や、不信からくるものでは、なさそうだが、

独り言のように、そう。

　彼女の言葉を聞いて、ただ不思議そうにそう返した。

　

　そう言って、照れ臭そうに小さく笑った。
　けれど、それから、

白の中を進んでいると、それらは現れた。地下牢に巣食う者か、城の主がけしかけた番兵か。
その中で目立つ1つの妖女を見る。

龍は両腕を脱力させ、下ろした状態で低く構えた。



彼の右頬がわずかに釣りあがる。

ふいに殺気をまとっていく――

彼の両腕がまるで別の生き物のようにうねりを上げた。

そのさまはまるで四肢の無い爬虫類のようだった。

妖怪たちはどこまで抗えるでしょうか