
凪いだ心でいる。それだけが感想で、それだけが思考だった。
叩き伏せることができた侵略者と、本質は何も変わりはしないのかもしれない。少し、ほんの少しだけ変わったスタート地点から、歩み出す方向が違っていただけ。否定の世界を否定するため、あるいはなんとしてでもそこを抜け出すため、その歩みを進めて――残り半分。
強化された聴力と視力が、少しばかり後ろを行くもうひとつの集団を捉えている。
彼らは何か変わっただろうか。彼らはこの道程の中で、何か見つけただろうか。自分は見つけた。ようやくというべきか、実に灯台下暗しだった。
「先生」
それはいつの間にかこちらを追いかけてきていた。かつてのペット……まあ、ペットだったのだろう、同じ研究室で世話の当番を回していた生き物だったものは、今は体毛の色が自分と違う。つまり、別の所持者が何らかの思惑でこちらに放ってきたものだ。
パライバトルマリン、あるいは神の御使いは、今仕えている人間の色をよく表す。……と、いう結論になった……と、記憶している。本の世界で解き放ってから、もう二度と会うことはないと思っていたが、世界とはどうにもうまく行かないものだ。
「……あまり話をするつもりはないよ」
「うん、それはそうだと思う。ぼくのこと得体が知れないな、って思っているんでしょう」
「ああそうだとも。今のお前からは俺と同じにおいがするから」
比喩だ。要するに、今これを所持しているのは、知識探求に対して意欲があり、頭がよく、“わざわざこんなことをしてでも”この場所を知ろうとしている。迂闊に何かを曝け出すことは避けたい、と思っていた。それは今の状況にも言えることで、分断された上で引きずり回されて、引きずり回して、全てが上手くいかないことは当たり前だが、イラつく要素は複数たった。だがそれを前にしてもなお、自分の心は凪いでいる。不思議なことに。
ずっと懐に忍ばせている刃が、全てを語っている。いつでも自分を切り離せる。自分を放棄し、自分に呑ませ、新しい自分になる。たった一本握りしめただけで、こんなに余裕が生まれるなんて、とても。
「同じにおい。それは、要するに、探し求める人間だということ?」
「その物言いからしてそうだよ。俺のとこにいたときはそんなんじゃなかった」
「じゃあしょうがない。ぼくは生憎そういうもので、今は先生にだって強気だ。ぶっちゃけ先生のこと、先生って呼ばなくていいしね」
ついてきていることには気づいていた。けれど、別に話をする理由もなかった。向こうから何か仕掛けてくるまでは、何もしないと決めていた。
パライバトルマリンは、その特異性が故に、生物学的に下位の存在だったとしても警戒しなければならなかった。彼がわざわざ意思を持って出向いてくるということは、自分に用がある誰かがいるのだ。それ以外の理由で、わざわざ会いにくるようなことは絶対にない。そう、自分で言っていたのを記録している。
「じゃあそうしたらいい。どうしてわざわざ先生とか呼ぶんだ」
「今でも尊敬しているから。それは理由にならない?」
「……余計な知恵をつけたね、ほんと」
ない眼鏡を直しそうになる。この世界に現れるに当たって、眼鏡は不要なものだった。五感は強化され、ありとあらゆる力が増幅されている。視力は矯正せずとも遠くまで見通せたし、なんなら調節することさえできた。
ピントを合わせた先の生き物は、合わせる先の目が存在していない。それらしいところはあっても、それはただの模様だ。この生き物の感覚器官は触覚だけだ。
「先生。先生は、いかにも怪しいけれど、それしか頼れそうなものがないとき、それに手を伸ばす?」
「……」
瞑目する。
かつては振り払った手のことを思い出した。
「意地が悪い言葉回しをするね」
「先生もそうだと思うよ。ぼくは質問の答えを待ってる」
「……ったく。考える期限は?」
何かがある、と確かに思った。けれども、悪い予感はなかった。人間をやめた成れの果てにわざわざ縋ってくるようなことなのだから、どうせ相手だってろくでもない。恐らくこの解答も、出すまでの時間にほぼ猶予はない。
「うーん。あと三時間くらいで出してほしいかな」
「……はあ」
その通りだった。
瞳の奥は伺えない。存在しないものの奥は見れない。ただ、体毛の色だけを見ている。具体的にどこの人間、というのを割るには、情報量が足りないし、そもそもどこの誰が何をしようとしているかを確かめたところで、これが自分のもとに来た事実は覆らない。
要するに、もう何か大きなことが動いていて、そのためにこれを利用していて、自分にも何かしらの用がある。そういうことだ。
「考えさせる前に、今の持ち主くらいは明かしてもいいんじゃあないの。得体の知れないやつの相手はお断りだよ、それどころではないから」
「ふうん……?でも、絶対知っているよ。それでも?」
「それでもだ。あとで後悔するかそうじゃないか、くらいの違いしかない」
わざとらしく考え込むようなポーズを取って、それは言った。
「大日向深知。先生の、向こうの姿の先生だけど」
「いつ聞いても後悔する名前だよ」
圧縮されて送り込まれてくる名前のひとつだ。大日向深知、知識のためなら手段を選ばない蛮族。ある意味で理想的な研究者で、絶対同僚としては存在していてほしくない研究者。
若く優秀で、それでいて貪欲で強気と来れば、同じ世界の同じ時期に生きていたら。絶対にどこかでやり合うことになっていただろう。
それがパライバトルマリンを握っている、ということについて、少しだけ思考する。
彼女の目的は間違いなくこの狭間の世界にあり、そのためにこの生き物を利用していることは目に見えて明らかだ。“招待”がなければ踏み入ることも敵わない世界に、どうやってこれを送り込んできたのか、そもそもこの世界に何の用事があるのか――分からないことばかりだ。何を目的にして声を掛けてきたのか、そこから疑っている。
「まあ無理もないか。先生は大日向さんのことたぶん苦手だもんね」
「できたら関わりたくないのは確かだけど。目的が読めない相手とどうのこうのするのが嫌いなんだよ」
「ああ、それは簡単だよ、先生。先生も絶対納得するもん、自分がもう一度やらなきゃならないって」
「……なに?」
もしそれに表情があったのなら、ねっとりと笑っていたに違いない。
ただ愛らしく、小首を傾げることしかしないのだ。けれど、それは明確な意思を持っていた。
『望遠水槽の終点のために、先生は動くよ』
終点。つまり、どん詰まりの袋小路。かつて自分が陥ったどうしようもない状態。右に行けども左に行けども解はなく、前には進めず後ろには戻れない。追われに追われて、逃げることすら頭から抜け落ちてしまうのだ。その極限を味わったからこそ、分かる。
極限下にあるとき、ひとは何も分からない。そもそも、自分が極限下にいることすら感じることができない。あとから指摘されて、俯瞰して、それでようやく納得する。――例えばほんの十八時間前のように。
(何を考えているのだろうね)
三時間後と言えば、一度準備のために戻るタイミングだ。ゆるく首を傾げる。
あの場所ももう、安全圏ではなくなると聞いた。どこにいても、誰がどうしていても、皆等しくこの世界の理によって振り分けられる。それだけで済んでくれればよかったのに、時に何もかもうまくいかない。それでも、自分は落ち着いている。
「なあ、スズヒコ」
何を問われても。
「……どう思う?あのうさんくさい奴の通信も、さっきの通信も」
「どうも思わない。それが世界かゲームの理なんでしょう」
焦りに満ちている顔を見ても。
「……俺は、ナレハテになんかなるんなら、その前にここで死んでいいと思ってる」
訴えかけるような声を聞いていても。
「……そんな事あり得ないって言いたげだな」
当然そう思っていた。
絶対にありえない。させない。そう思っている。
「絶対無いって言いきれるのかよ。絶対なんて、無いんだろ?もしかあった時には俺は、迷いたくない」
「絶対はない。ならば可能性もないわけではない。俺は迷わないことを尊重する」
それが不安定になっていることが分かっていても。
「……最悪な事にだけは、なりたくねえんだ」
「最悪ねえ」
ここに来るまで、最悪なんていくつも転がっていた。それを俯瞰できるようになったのは、自分に余裕が生まれたからだ。まるでその時が来たときのエクジステロイドのように、自分はどこまでも冷静で平穏だ。
「……そもそも、俺は、あんたがまた狂っちまったら耐えられる自信が無い。もしそうなっても、あんたを殺して俺も死ぬつもりだ」
「できるならいくらでも。そうならないつもりだから抵抗はするけど」
いつの間にこんなに追い詰められていたのだろう。自分は彼を見ているが、彼は何も言わない。何も言わないということを良しとしていた責任?そんなわけはない。それで良しと言えなくなったから、こうして言いに来ているはずなのだから。
「……じゃあ、万が一、俺が駄目だと判断したら、すぐに全てを終わらせる。弁解も、抵抗もさせない」
「終わらせることができるならいくらでも。」
傘を荒れた大地に突き刺して、思わず両手を広げてしまった。そうしても今なら勝てるという自信が強くあった。それは相性とかいうものではなく、もっと根本的な、自分が大地に強く足をつけている、という自覚から来るものだった。
ここで終わることは本意ではない。だからこそ、あらゆる可能性を考慮する。自分がいたい場所はどこでもない。仮初の平穏でも、罪に塗れた大地でも、その狭間でも、どこでもない。
「……俺は、アンタの言葉を信じるよ。そんな事、ありえないんだろ?」
「そう、ありえないよ。俺は最後まで可能性を捨てないことにしたから。……あ、今暇なら手を貸してもらえる?」
「は?」
長く編んだ髪を抱え込んで、ひたひたと歩き出した。
フェデルタから何か言われても、その歩みを止めるつもりはなかった。ついてくるだろうと思っていたから。
翻るのは刃。
“俺”に咥えさせた長い三編みを、ざんばらに切っている。三編みのまま刃を入れさせているために、髪の毛を焼いてもいいことにした。そうでもしないと、武器にすらする髪に刃が通らない。
「……いいのか」
「仕上げは自分でするから」
何なら何かお守りにでもして仕込むかい、という冗談を飛ばせるくらい、自分は落ち着いている。今刃を入れている彼がどう思っているかは知らないが、どのみちこの髪の毛は使いみちがないなら“俺”が全てしまってしまう。
「いや、そうじゃなくて……」
「だから、焼いて切ったぶんもあとで俺がどうにかするっつってんの。具体的に言ったほうがいい?もうちょっと短くする」
もみあげの毛が巻き込まれないよう押さえながら、ばさばさと落ちていく髪の音を聞いている。例えるのならこれは罪だった。例えるのならこれは足枷だった。ずしりと重く引きずるように、自分から伸ばした。いつでも切ることができたはずなのに、そうしなかった。それは、自分に相応しい枷だと思っていたからだ。
故に、これはもういらないものだ。
「……ああ」
「何?」
どさり。
髪の束が落ち、すっかり軽くなった肩で振り向く。
「初めて会った頃みてえだ」
「クッサいこと言わないでよ」
獣がひときわ大きく鳴いた。