
力が解放されていく。それは大日向が知り得なかったことで、世界は流動的である証左だった。世界構築システムの収集も仕事である以上、それは見過ごせない事象だった。
かの狭間へ送り込んだパライバトルマリン曰く、【鈴のなる夢】自体は安定していて、いつでも問いかければ協力を仰げそうである、ということだった。あとは機を見、適切な駒を動かせば良い。大日向は自在に世界を跨ぐ術を持たないが、持っている男とは偶然にも知古であった。ユッカ・ハリカリだ。
“誰でもない”、故に誰にでもなれる。ありとあらゆる世界の可能性を殺し、観測しうる範囲の平行世界の全ての己を、たったひとりに集約させた異界観測学の権威――と言うには人格に難がありすぎて、実績もどこにも出ていないが故に認められていない。正確に述べるのなら、彼が出さないのだ。仮に彼の研究が表に出ようものなら、とんでもない革新が起こる。そしてこの面倒くさがりは、それをよしとしていない。
ほんの少しの聞きかじりによれば、自分たちが元々いた世界は上下の積層構造を成していて、故に上から転げ落ちてきやすいのだという。横に連なっている場合もあれば、ねじれの位置にある場合もあり、一概にどうとは言えず、そして理論は自分のいる世界から離れるほど、通用しない。故にハリカリはごく小さな世界に店舗を構え、それごと移動してしまうのだ。いつだって自分の世界の理論の元にあれば、何もかもがほとんど思いのままだ。もちろんそれには欠点もあり、ハリカリは基本的にそこから出ない。世界のさらに上位にある神々により、世界は常に管理されていて、滅んだ――文明がなくなったと判断されたり、災害に襲われたりした――世界は、それごと消されてしまう。ごく小さな世界の中に一人で収まるということは、“外”に出た瞬間居場所を失うということに等しい。
要するに、あまりにも完璧な引きこもりになる代わり、あらゆる自由を失ったのだ。大日向から言わせればそうで、彼はまた別の表現をするだろう。好みは人それぞれだ。
「次のシークエンスへ移る。幸いなことに【透翅流星飛行】はスムーズに捕縛され……まあまだよからぬ可能性は捨てきれないが、一旦脇に置いていいと判断した」
「はい」
「データ回収等、まだありますが……」
「話はつけてある。忘れずに甘味を持って出向け」
久々に大日向研のメンバーがずらりと揃っている。大日向が外に出れない分、彼らにはあちらこちらに走り回ってもらっているからだ。神に渉外するものがあれば、データ解析を行うものもいるし、土地の情報を集めるものもいる。
「さて。今回全員を揃えたのには理由がある」
「はいはーい!あれですね!!」
「紀野」
はしゃぐな、と窘められている一番年下の学生が次のキーになる。
打倒すべき怪異は三体いて、そのうちの一体は神の気まぐれにより捕縛された。そのうちの一体は今も街を歩いているだろう。最後の一体――【望遠水槽の終点】だけが、不気味なほどに沈黙を守っている。
「かの世界に【望遠水槽の終点】がいるのであれば。こちらにそれに対応するヒトがいるはずだ、それは分かるな」
「はい!!仮初の姿……アレッでもそれってつまり堕ちているということなのでは」
「そうだ。今のところそのように推測している」
世界同士の侵略戦争。かの狭間はその試合会場で、パライバトルマリン曰く『地形すら異なり荒れ果てている』。陸だった場所が水場になり、その逆もまた然り。歩みは厳しく、よくわからないモンスターも出る。時には侵略相手と斬り結ぶこともあるらしい、三十六時間というにはあまりにも圧縮された時間、吉野暁海の感じた何週間かが圧縮され、【鈴のなる夢】に届けられているはずだ。そんな空間で報告上は“それなりに”正気を取り戻してくれたのだから、感謝して然るべきだろう。もちろんその時が来たらの話だが。
「【望遠水槽の終点】には謎が多い。まず何故いるのか?何故【終点】なのか?【鈴のなる夢】との関連性は何か?」
怪異も神秘も等しく、その名前から能力を読み取ることができる。名付けは固定する行為であり、そして呪いだからだ。名もない事象、不明不可思議を一部分でも固定し、それを足掛かりにして攻略する。断崖絶壁に一段ずつはしご、あるいは階段として機能を持つことのできる金属を刺していくように、外堀りを埋め、こちらの定義を強引にでも当てはめるのだ。名付けにはそれほどの意味がある。故に慎重になるか、名乗りを待つべきだというのが通例だった。
【望遠水槽の終点】には、その通例が通用しない。
「……あれは【哀歌の行進】がそう呼んでいただけかと思っていたのですが」
「名がないよりマシだ。そこに何が潜んでいようとな」
会ったこともなければ会話を交わしたこともない。そもそも全く興味はないと言い張るくせに、【哀歌の行進】はそれを【望遠水槽の終点】と称した。年頃の髪の長い女、虚ろな目、そしてあてもなく彷徨い続けているということまで告げて。
「ホイホイ釣られに行くようなものではないんですか、【哀歌の行進】に」
「全くもってそうだ。だが、奴も今は決定打を欠いている」
「……ああ、あの神のおかげですか」
理由は不明だが、【哀歌の行進】はひどく例の神を嫌っており、ここ最近は周辺で見かけることすらなくなっている。紫筑にいたころは常々人の邪魔をするためだけに些細なトラブルを起こしては人を動かしていたのに、だ。本来神の存在するレイヤーは怪異と同一になることはないから、畏れているのであれば納得はできる。畏れているのなら、もっとらしく振る舞うはずだ。それが大日向の持論であり、その通りに考慮するなら、この世界自体を放棄しているはずだった。
そもそも【哀歌の行進】という存在自体がイレギュラーの塊で、故にそれを狩ろうとしている。あるいは力を削ごうとしている。等しいと証明が可能なものが、同じ世界にあってはならない。大日向を始めとする神秘研究における基本原則であり、頻繁に出没するドッペルゲンガーに対する基本対応の仕方だ。自分の姿を見ると死んでしまうのであれば、先にその自分を倒せば良い。自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬということ自体が俗説で、学びさえあれば恐れる必要はなにもないが、全ての人が神秘や怪異に興味を持っているわけではない。専門家とはそのために存在している。
「望遠水槽とは厳密に定義されたものではないが、おおよその想像はつく。水槽という時点でな。そうだろう」
「はいっめっちゃ分かります!だからあたしですね!!」
「……正直他にも向いている人間はいたと思うんですが、何故?」
「クレールパイセンはもっとあたしに優しくしてくれてもいいと思うんスけど!?」
「そこを突かれると痛いな。だが陸羽も手を回せんと来てはどうしようもない」
水槽。すなわち水族館。
紫筑大学第四学群神秘研究科には海の神秘や怪異に特化した部門が存在し、人魚研究科のある陸羽大学との連携を強く推し進めている。神秘・怪異学の総合が紫筑なら、人魚学に特化しているのが陸羽大学で、人魚ゲノムデータベースをアルモーグ大学との連名プロジェクトで構築し、今まさに人魚学のトップに存在している。そこから人員を借りてくるのが最も早かったが、あいにくその手は使えなかった。彼らは今子供の人魚の観察と観測に忙しい。
であれば、自分の手元の手札で代用するしかない。最も海に近く、魚に近いのは紀野いずもの能力だ。多少の難があっても、そのためにサポート要員を用意している。遠隔サポートの二ノ平、戦闘サポートのクレール、移動サポートの宮城野。可能性を正しい方向に導きたいのであれば、そこに投資を惜しむべきではない。
「……チッ。陸羽が無理ならうちのラボも無理か」
「何かあったんスかね?」
「お前はもうちょっと情報にアンテナを立てろ」
「そう貶めても何も出んぞ、クレール。もうお前の仕事は分かったろう」
視線がごく一瞬交わった。
気づく上級生、気づかない下級生。明確に出る差を見、大日向は笑う。
「……はいはい承知。要項をまとめておいてください」
「もう少し後になる。まず気づいてもらう必要があるのでな」
では解散、という鶴の一声に、学生たちが散り散りになっていく。
同じ場所をずっと回っている。それは本能で感じていたが、出方も何も分からなかった。
ここがどこで、わたしが誰か、何もわからないまま歩き続けている。こんなどん詰まりの間隔は、いつかに味わったようなものの気がしていた。
歩けど歩けど先はなく、鮮やかな青色と魚影だけが続いている。大きな貝が口を開け、そこから盛んに泡が立ち上っていた。壁沿いに歩いているはずなのに、どこにも辿り着かない。辿り着けない。
『迷っているのか?』
「……」
知らない男の人の声だった。男の人は怖かったから、自然と距離を取ってしまった。距離を取っても、視界には青しかない。
『いいのさ、そのままで。外は怖いところだ』
「……わたし……」
わたしは誰。
言葉は泡にすらならずに消え、ただ虚空を見つめている。
外は怖い。怖いところだ。隣の国に行ってしまった父と姉のことは何も分からず、母は病で死んでしまった。ひとりで生きていくのに、外の世界は恐ろしすぎた。
だから、そう、
『ここは誰にも邪魔されない狭間。そして向こうには、望んだ平和な世界がある。簡単なことだ、勝ち取ればいい。できるだろう?』
「わたし、」
『武器を使えるのだから。』
血の臭い。むせ返るかのごとき死の臭い。そうしている限り永遠についてきて、獣ではなく人のものへ塗り替えられていった、錆びた鉄の臭い。
初めて己の両手を見て、“わたし”はびっくりしてしまった。それは人の形こそしていたが、青く透けていた。そこにべったりと血が張り付いていた。
『さあ、ここを終点としよう。君という可能性の不幸せの歩みの。そして、ひとつ前に進みたまえ。そうすれば活路は見えるだろう。』
誰かが甘く夢のような言葉で囁いてくる。
わたしは、従っていいのだろうか?わたしはここで立ち止まっていいのだろうか?わたしには行かなければいけない場所があるのではないか?
いけない。それ以上いけない。わたしはこの言葉を聞いてはいけない。
「――触らないで」
貝が閉じる。
青い目がぎらりと光り、全てを追い出す。拒む。能力によって生み出される強固で絶対な防御、そして拒絶。
わたしはずっとひとりだった。
深く、深く、潜っていく。落ちていく。子供は溺れた時、何が起こったのかわからないまま静かに沈んでいくらしい。そんなことを思い出している自分も、何が起こっているのか分かっていないのだろう。
深く、深く――堕ちていく。堕ちていく。誰も助けてくれなかった。周りで見ているだけだった。わたしはどうしようもなく不器用で、人付き合いができなかった。わたしは何もできなかった。わたしは、わたしに、罰を与えたかった。
不出来なわたしに。誰の期待にも答えられないわたしに。何も救えないわたしに。この世にいるべきではなかったわたしに。
一粒零れた涙がどこかに落ちた瞬間、視界は真っ赤に染まった。ああ、これがきっとわたしへの罰だ。ようやく不出来なわたしを罰してくれる誰かが現れたのだ。卑怯なわたしを攻め落とす正義の剣が、わたしを無限に突き刺してくれる。
そのはずだったのに。