
采配ミスだったかもしれない。自分たちは限りなく相談したが、結果は二分されてしまった。あまり抵抗はなかった。どちらかと言えばよりいつもに近づいて、やりやすくなった――ように思う。
自分たちは「いつも」を保ったが、「いつも」を保ちきれなかったことにも非はある。けれど、反省している暇も、立ち止まっている暇も、ない。ならどうするか?歩くしかない。先に進むだけが道ではなく、時にはこうして阻まれることもあろう。むしろ冷静に、思考している“全く新しい”己を披露することができるだろう。
結論から言うと、さらに変化する。その一言に尽きた。肉体をギリギリまで紙に戻し、記載されている全てを無理矢理にでも引き摺り出す。常に変化し、在り続ける。千変万化の百科事典、それが求められている。この場に対しても、あの主従に対しても、彼に対しても。
人であることを極限まで削ぎ落とすことに抵抗はない。元から放り投げてきたものだから、そんなものはどうだっていいのだ。問題は自分の意志、自分の心、精神の在り方で、それが決して揺らぐことがないのなら、少なくとも残り二十時間を『咲良乃スズヒコ』として過ごすことは可能だ。驚くほど答えはすぐそばにあり、そしてそれが光源だったが故に見落としていた。
フェデルタ・アートルムが自分のことを咲良乃スズヒコとして認め続けてくれるなら、それでよかったのだ。
「よし、俺。食事に関連するところを吐いて」
「……」
獣は貯蔵庫であり書架であり、そして獣は重石だった。
ぱかりと開いた口からずるりと落ちてきたのは、研究者をしていたころの自分だ。より正確に言えば、人の姿をした本だ。
自分にとって、本のページを当てずっぽうに捲るより、人の形をしたものの腑分けをするようにして探すほうが効率が良い。本には目次や索引が存在しないこともあり、“俺”が無意識に編纂した本になど、そんなものはない。分かっていた。故に、腑分けをした方が早い。
人が比較的少ない方面でよかったと思っている。こんなこと――自分で自分を捌くことなど、見られたくないに決まっていた。自分の異常性を晒すだけだった。
正中線に借りたナイフを添わせる。まさか彼もこんな使い方をされているとは思うまい、と思いながら、その皮膚を裂いた。生き物を切っているような感覚はどこにもない。紙をまとめて切っている。臓腑が見える部分に現れてなお、その感覚は変わらなかった。皮膚を裂いたのにも関わらず、血が溢れることはない。この“俺”には血は通っていない。代わりにインクが、墨が、あらゆるところに張り付いている。仮に今、メインの身体が傷つき破壊されたとしたら、そこに飛び散るのは赤ではなく黒だ。それは自分の能力に拠るもので、要するに“思い出してきた”のだ。
(……とりあえず、胃か?)
アフタヌーンティー、という言葉を思い返している。子供……と扱う年齢ではないのだろうけれど、子供の言うことを、自分は知らなかった。あるいは単純に無縁だったか、聞いたものをどこかにしまいこんでいるのかもしれなかった。
関係ないだろう肝臓を除け、横隔膜を押し上げて胃を引き摺り出す。食道と十二指腸、それぞれの境目だろうところで切り離した瞬間、臓腑の姿は消え失せる。片手で持てる程度の厚さの本に変じた『胃』には、内臓の面影はない。
本を開き、該当の記述がないか探していたそのときだった。
「……何やってんの、アンタ」
「フェデルタ」
絵面で言えば最悪そのものである。瓜二つの人間(?)を突然解体し始めたと思ったら、悠長に本すら読んでいる。呆れたような声が出るのも当たり前だろうな、と思った。
羽織を脱いで今まさに胃を抜かれた方の“俺”に掛けたら、そういうことじゃねえよ、という声がする。
相対している自分は、びっくりするほど落ち着いているのが分かった。自分の中に、明確に自分以外の自分がいる。それを少しずつ育てて、もうすぐ“新しい俺”が生まれる。
「……で、さあ」
「あまり気にしなくていいよ。俺たちのいつぞやのどうしようもなかった関係よりはマシなことをしている」
「いや……」
だからそうじゃなくて、という言葉。
「……落ち着いてんな」
「そうだよ。落ち着いてなきゃこんなことしないからね」
ナイフありがとう、もう少し借りていたい。それを告げると、どうにも腑に落ちない顔でいた。それもそうか。こんな使い方をされると思っていなかったのだろう。いや、自分だって想定してはいなかった。そこにちょうどよくナイフがあったから、その刃をむしろ順当に利用しただけだ。
順当に刃を滑らせたナイフは、他人の目にはまるで凶行に映る。というより、そもそも『本』が本の形をしていないのだから、常識らしい常識は何も通用しない。
「本には目次があるでしょう?」
「……おう」
「ないものもあるんだけど。そうなったとき、当てずっぽうするより、俺はこうした方が早いわけ」
胃なら食べ物、目なら見たもの。肺なら吸い込んだもの。筋肉は歩いたり触れたりしたもの。神経系――特に大脳は、最大の記憶領域。ごく薄いスライスですら分厚い本に変じるだろう。その他臓腑は……なんだろう。肝臓に飲酒が関わる、くらいしか今は思いつかない。肝臓はありとあらゆることに関わっているから、肝臓を切り出せば何かしらには当たれるのかもしれないが。
今一番欲しかった情報は、まず胃を参照したかった。食べ物の情報なら、そこを当たるのが一番早い。
「人間のことはそれなりに分かるから、“俺”のどこに、俺の目的のものがあるのか……ページを捲るよりずっと楽。そういうことなんだけど」
「……あー、アンタが納得してやってんだったらいいよ、誤解されんなよ」
「俺が見ているから平気」
この世界で、自分は二人――一人と一匹で存在している。獣の自分はよく言うことを聞き、見張りを命じればそのようにし、人を乗せるように言えば優しく従う。根っこが自分だとは思えないほどに、それは独立していた。これはいつか自分の元から、離れていってしまうのだろうか。衝動を少しずつ飲み込ませ、力の貯蔵庫としてきたこれは、この戦いが終わったらどうなるのだろうか。
ふと、そんなことを思った。それより前に、言うべきことがあった。
「覚えてる?フェデルタ。いや、覚えてなくても、メッセージで残してくれたから再生できる。あなたの言ったこと」
「……覚えてるよ。アンタのそばで待つって言った」
本を閉じる。開いた本にアフタヌーンティーの記述はなかった。つまり、自分は経験したことがない。と、断言できる。
閉じた本は手の中で瞬時に灰になっていく。
「……待たせてごめん。俺はようやく納得した」
「……納得?」
「冷静さを欠いていると本当に何もできない。俺は愚かだったと思う?」
「……正直に言っていいんだよな?」
愚かさに向き合う覚悟というのは必要だ。自分の頑なさに手を入れるのも同様にまた、覚悟がいる。何せ。基本的に自分が正しいと思って、思い込んで、そこに向かって走り続けていたのだ。
だから頷く。
「愚かか、そうじゃないかで分けるなら間違いなく愚かだったと思うよ。けど、それはアンタだけじゃなくて俺もそうだった。大体、愚かじゃない人間ならこんな事にゃあなってねえ」
あのとき、確かに自分たちは愚かだった。
短い時間の間でもともに歩くと決めた人すら放置して、自分の怒りと感情だけを優先した。
「だけど、そうだな……あんま、こういうの言うタチじゃねえけどよ、愚かな事に気付いてやり直せるのも、思考が出来るイキモノだからこそだろ?なら、俺達まだ人間なんじゃねえかなって、思うよ」
「……そうだね。あなたはそう言う人だ」
獣が歩いてくる。
役目を終えた『本』を頭から飲み込むさまを、二人揃って何も言わずに見ていた。これのどこが俺なのだろうと、ゆるやかに思考した。その思考に切っ先が入る。
「なんでナイフ借りたんだ」
「アフタヌーンティーはおまけにすぎなくて。……髪を切ろうと思った」
「……あ、アフタヌーンティー?」
時間は過ぎているらしい。けれど、狭間の空はいつまでも不気味な色のままだった。
午後の空など、とうてい望めそうにない。けれども彼は望んだ。
「知ってる?アフタヌーンティー」
「アフタヌーンティー?……なんか豪華なおやつの時間みたいなヤツだろ?アリィが魔王の頃やってたの見たぜ」
「えっ」
「なんだよ」
「いや……何でもない。忘れて」
一色迦楼羅。有能な従者を連れた、好き嫌いの多い少年。
自分のことを知りたいと歩み寄りを見せてきた、自分がかつて見ることのなかった子供の年齢の少年。純粋で、それ故に取り入りやすいと思っていた。けれども、彼にはぴしりと通った芯がある。有能な従者が仕えるに相応しい、ぴんと立った確かな意志。だからこちらに向かって、まっすぐに切り込んできた。
「迦楼羅くんが言ってたんだ。一緒にいるのに何も知らない、一番分からないのは俺だって」
「あのお坊ちゃん、俺にもそうやって言ってきたぜ。俺の事は……イバラの事込みで信用してるらしいけど、アンタは何もわかんねえって。わかんねえから知りたいって」
投影されている別の自分は、あまり活動的とは言えなかった。それは自分の学生時代によく似ていて、出歩くよりずっと、大学に籠もって学び続けている。学び続けながら、穏やかな過程を享受している。それに怒り狂ったときが、もう何日も前のように思えた。実際は、一日も経っていないのに。
出歩かないということは、必然的にどこかにいる誰かと話をすることもない。出くわしているかもしれない可能性を、自分が潰し続けている。けれど、自分の投影であればそうだろうと納得している自分もいた。
「知る場として、アフタヌーンティーを提案されたから……自分の記録を検索してみたんだけど、なかったんだよね。たぶん文化圏っていうか、生活層が違う気がしていて」
「まあ、マジでお坊ちゃんみたいだからなあ。実際は城にでも住んでるんじゃねえの?」
微かな笑い声に、自分でも驚く。
ああ、笑う余裕があるのだ。力を得て、安定してこの世界の敵を切り捨てられるようになって、確かすぎる余裕が生まれた。
「貴族とか金持ちってのは、ロクなヤツがいねえと思ってたんだけど……世界が違えば、変わるモンだな、とは思う」
「俺もそう思う」
きっと穏やかな顔をできている。あのとき、あの本の中とまでは行かずとも。
「で、まあ、それまでに髪切ってイメチェンしようと思って」
「……イメチェン、ねえ。そう、なるほど」
「なに?」
「いや、何でもねえ」
重石を下ろそうと思ったのだ。いつの間にか自分に課していた思い込み、あるいは絶望を、一度自分から切り離そうと思ったのだ。
そのとき“俺”がどうなるかまるで分からなかったけれど、どうにかできる自信があった。はじめこの世界に降り立った頃が嘘のように。一時間ごとに降りてくる記憶も、いつの間にか切り分けられるようになっていた。それを慣れと呼ぶのか、それとも許しと呼ぶのか、今はまだ区別はつけないでおく。
「フェデルタに切ってもらってもいいかもね、髪」
もう少しだけ借りる、と。そう言って、ナイフをシースに収めた。
次取り出すときは、この髪を切るときだ。