
それはよくグリフォンと呼ばれる架空の――神秘の生き物だった。煌々ときらめく炎を纏い、無の空間の光源となっていることを除けば、まだ普通のグリフォンと呼ばれただろう。
目の前にいるのは神性だ。それが故に神性で周囲を照らしている。
「本意ではないこと……?なんのことだ……」
「私がしたくないことは全て本意ではないの。例えばわざわざこんなところまで出向いてくるような」
神。神秘の頂点に君臨する侵してはならないもの。授業ではそう習った。
神の怒りはすなわち神秘の怒りであり、神秘の怒りの多くは不可解な事件や事故、甚大な自然災害として現世に現れる。神と接触することは意外なほどに簡単だが、ほとんどの人間はそれが神であることに気づかない。神々は己の信仰に寄与する人間に対しては優しく、それ以外には厳しい。八百万の神々という言葉があるように、一芸特化の下々の神から、強大な力を持つ一柱まで、神の範囲ですら幅広い。そして総じて神々は、自分の利にならないことを嫌うのだ。
神々の力を身に降ろし、それを振りかざすこともまた神秘とされた。おのおのの神社に伝えられている一子相伝、あるいは信仰に対して等しく返される神秘の力。紫筑大学にも民俗学のひとつとして神々を修め、その力を利用する研究グループが存在する。
――自分たちには関係のないことだと思っていた。大日向は時に神すら超えるが、西村は神そのものに出会ったことはないつもりでいた。こいつは気づかないような神性ではない。八百万と十把一絡げにされるようなものとは全く異なる、確固とした信仰を糧とする神に属するものだ。
「私は炎。御火籠の炎。どこかで忘れ去られても、決して尽きることのない炎よ。あなたは悪ね。私が良しとしない悪。私“は”よしとするかもしれないけれど」
だから、一目見られただけで動けない。
「あなたはどうして悪になったのかしら?」
神はこちらを見てはいなかった。燃える炎が獣の身体を包み、ひときわ強く光ったかと思うと、そこには一人の少女が立っている。巫女装束にも見える服から小さな手が覗いたかと思うと、【透翅流星飛行】のことを煌々と照らしていた。炎が燃えている。燃えているのに、熱は何も感じない。
「……悪。俺を悪だって?」
「そうよ。私の基準だから、きっとあなたとは合わないわ。私の基準で全てが決まって、私はそのように動くの。それが私たちの常識」
「悪だなんてそんな。俺は息子を探しに来ているだけなんだ」
「いいえ」
それは言い訳よ、と一言言うのが聞こえた直後、足元が崩れる感覚があった。より正確に言えば宮城野に抱えられているのだから、彼女がバランスを崩したほうが適切な解答なのだろう。
一言も言わせぬままに視界から消えていく神、そして怪異。
「他にも何か頼まれているんじゃないかしら。代償に」
それを最後に、世界が反転する。
炎には二面性がある。恵みとしての炎と、破壊としての炎だ。
その二面性を持つ二柱を祀る神社があり、彼女はそのうちの一柱だった。
結論から言うと、彼女の持っている側面は忘れ去られている。秩序によって文明を大きく発展させた善なる炎、それらが人々に崇拝され、混沌とした破壊を生み出すばかりの側面は、都合の良いときにだけ頼られる。
秩序でありながら悪であるということは、人々を焼き払うことに躊躇いがないということだ。一柱が怒ればもう一柱に全てが傾き、そうしてバランスを取られているはずだった。古のときはそのようにできていて、しかしもうとっくに忘れ去られている。文明の伴った秩序とは、そういうものだ。だから、とっくに諦めがついていた。一柱としては諦めがついていたからこそ、彼女は社に縛られない。いつ怒るか分からない神と違って、まだ話をしていいと思っている。人間の善性を信じている。
片割れは、人間などは悪虐にして卑劣で、そして愚かなものだと言い切っている。仮に愚かであるとして、“私”が手を差し伸べないのなら、誰が愚かな人間たちに手を差し伸べるのだろうか。
――そのための私。
だから、それがもはや人ではなくても、対話を試みてみたいのだ。その結果からありとあらゆる因果を捻じ曲げたって遅くはない。
「……」
「そう、あなたが本来知ることのなかった、あなたの息子の名前。居場所。それらを誰かから教えてもらうかわりに、彼らの情報を抜き取って渡すことを……取引として持ちかけられたのではなくて?」
推測ではない。過去を覗き見て得た事実だ。誰か、とこそ伏せたが、それが【哀歌の行進】なのも知っている。己の内に囲った西村一騎の魂より、【哀歌の行進】は情報を求めているように見えた。大日向深知という神すら超えるもの、あるいは神殺し、可能性殺しの女と渡り合うためには、情報の優勢が必要だ。頭一つ抜け出さないと、頭脳と知性で殺しに来る。あれはそういう女だ、というのも、彼女は感じていた。下手をすればその対象は自分にも等しく向く。そうなればどうするか、と問われたら簡単で、こちらから協力を申し出ればいい。自由な身というのはこんなに肩の荷が軽くていいことなのに、“私”はそれをよしとしない。それが秩序でありながら悪ということなのだろう。
「……そう、そうだ、西村一騎。【右手の幸運】」
「どうしてあなたが、という問いかけも、私には必要ないわ。だって、分かるんですもの。あなたは別の世界に逃げていったけれど、あなたたちは私に連なる貴重な人たち。だからこうやって大切にして、話しかけているのよ。――ニシュカ・パーシスタンス、いいえ、西村彼方。あなたは名前の通り、遠くに行ってしまう定めだった」
【透翅流星飛行】の顔が歪む。
ある日突如として霧に魅せられ、家族を置いて姿をくらました男。すべてを忘れたまま霧の向こうで新たな家庭を築き、それすら瓦解させた男。炎はそれすらも知っている。
「西村彼方は死んだよ。ニシュカ・パーシスタンスも死んだよ。どちらも関係ない。関係ないだろう」
「いいえ」
死とは、まず肉体に付随する感覚から消え落ちるらしい。死んだことなんてないから、こればかりは憶測でしか話せない。この神は生まれたときから神なのだ。
そして世界では、行方不明になった人間を便宜上死んだものとして扱う、というのも、この神は知っていた。何を思ってか時折やってくる、人が見つかりますようにという期待も何もしていない、形だけの願いが持ち込まれる。それをどうすることもせず、祈られるのをただ見つめていた。自分の領分ではないし、自分が手を出していいものではないと知っていた。大抵の場合、それらはもう死体となって朽ち果てていて、それならば知らないほうが幸せだ。だから、何のリアクションもしない。それが彼女の善性だ。
「あなたの死は形だけ。肉体が腐ちるという通過儀礼を通っただけ。真に輪廻すべき魂はそこにあるでしょう?」
ひとつだけ、話をしなければならなかった。
何故自分が彼ら――西村家に肩入れし、こうして首を突っ込むことを厭わないのか。
「お前は俺で何をしたいんだ?」
「何をしたい……あら、あらあら!そんなつもりは全くないわ。だって、私が自分でやったほうが早いですもの。けれど、あなたはちゃんと話をしたほうがいいのよ」
遥か昔、信仰が隆盛を極めていた頃、御火籠神社――二柱の神がおわす社には、二つの家が連なっていた。
ひとつは東明家。今もなお、秩序の炎を奉り続ける本家。ひとつは西守家。今はもう忘れられた、混沌の炎を奉っていた分家。
時代の波に飲まれる内、西守家はありとあらゆる場所に散っていき、そもそもの字すら口伝の内に変わってしまった。神のおわす場所を守ることは別段義務ではないし、彼女もまた東明家に守られてはいる。故にどうでもいいといえばどうでもよかった。
今抱えている魂が、目の前にいる怪異が、西守から生まれたものでなければだ。
西を守るということは、炎の眠りを守ることを意味する。炎はときに空に輝く太陽と混同され、故にその字を与えた。覚えている。東が明るくなることも、日が昇る方角を見、神を待つための名付けだった。覚えている。
「どうしてそうなってしまったの。せっかく、私に連なるものなのに」
死を超越してしまった男へ手を伸ばすのは、情けだった。
【透翅流星飛行】に何が起こったのか、ひと目見れば分かる。だからこそ情けを掛けたくなった。だからこそ、彼女はどこまでも善性だった。
「情けはいらないよ。情けをくれるくらいなら死をくれよ。神様だったらできるんじゃないのか?」
「……。……それは無理な話だわ、まだね。私にも癪に障ることだってあるの」
そうして、炎は籠になる。灼熱地獄、あるいは温かなゆりかご。
世界の裏側で焼き散らした怪異の魂を拾い、【混沌たる御火籠の炎】は、静かにその場を後にする。
見知らぬ家の庭に放り出されていたはずなのに、その縁側で大日向がお茶をしばいていた。
半分キレながら自分たちもお茶をもらって、疲弊した肉体と精神を休めている。神の神気に中てられて、どうしようもなくなっていた。全ての行動を縛られ、見ていることしかできなかった。
「……そういえば、件の神とか、言ってましたね……」
「言ってましたっけ」
「言ったな」
よく冷えた麦茶。家主不在の家。そこにあまりにも平然と居座っていた大日向は、多くを語るまでもなく、ただただその家の離れの方を見ていた。庭の雑草は何かに焼かれたようにしんとして、歩きやすい空間が保たれている。
「アイスとかないんですか」
「あるんじゃないか?見ていないから知らん」
「よし」
「えっ、でも、人のお家ですよ……?」
「いいんですよ全部そこのクソチビメガネのせいにできますから」
この家に何が詰め込まれているか、西村は知っていた。そのはずなら、アイスもあって叱るべきだし、食っても文句は言われまい。クソみたいな仕事で疲弊したのはこちらだ。
冷蔵庫の前にたどり着き、冷凍庫の扉に手をかけた瞬間、とてつもなく鳥肌が立った。
「……」
「一番下の段に高いアイスが入っているの。それを私にちょうだい。あとは好きにしていいわ」
「……かしこまりました」
神もアイスを食うのか、というのは、愚問の領域だった。言われたとおりに高いカップアイスを取り出し、スプーンも勝手に取り出し、縁側に戻ると、さも当然のように炎の一柱がそこに座っている。今風の服に置き換えられた巫女装束。異能の闊歩する場においては特に問題にならない鮮やかな目の色と、耳の位置から生えた羽。
「結論から聞こう。どうなった?」
「どうにもならなさそうだから、焼いて捕まえてしまったわ。ひとつのことを見て、そこに一直線に向かおうとしているのは、とてもよく似ているわね」
「ではしばらくは預けておこう。ボクらの目的は達されている」
「そう、ありがとう」
アイスを受け取る手は相変わらず小さく、言われなければ、意識しなければ、これが神だということになんて気づかない。神とはそういうものだと分かっていても、彼らの在り方、立ち居振る舞いについてなんて、何も干渉できやしないのだ。
「【透翅流星飛行】は解決した、ということで?」
「仮のな。今追いかけるべきものはそれではない」
あとふたつ。
そろそろ情報が戻ってくる頃だろう、と言った大日向の瞳はギラついている。