❖某日/イバラシティ・マガサ区/センチュリーコーポA 304号室❖
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狗神 「……はじめるか」 |
玄関をあがるなり、所長は土足のまま、ズカズカと廊下の奥へ歩いて行った。
さすが所長。遠慮というものが一切ない。
ともあれ、すでに居住者のいない空き部屋。
それも、いつ邪魔がはいるともわからないとなれば、靴は履いたままが懸命か。
もうしわけ程度に、お邪魔しますと呟いてから、わたしもパンプスのまま玄関をあがった。
マガサ駅から数キロ。
閑静な住宅街にある真新しい高級マンションの3階、東側の304号室。
そこが事件の現場だった。
三枝 千奈津 (31)
三枝 加奈子 (8)
転居届が出されていながらも、その実、
身元不明の遺体として人知れず火葬されてしまった母子。
真月姫家当主の妾とその娘であり、つまるところ
瑠璃子ちゃんの義理の母と腹違いの妹にあたる。
二人が、なぜ、どのように死んでしまったのか。
その手掛かりを求めて、二人が亡くなった現場へと訪れたのだった。
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黒咲 「さすがにもうすっかり片付いてますね」 |
4LDK。
母子の二人暮らしでは、持て余しそうなほど広いベットルームは、
新居と見違うほど綺麗に清掃されていた。
おそらく生前つかわれていただろう家具はそのまま置かれ、
住人の帰りをいまだに待っているかのようだ。
言われなければ、ここで誰かが死んだなど想像すらできないだろう。
ベットの枕もとに佇むウサギのぬいぐるみが、なんとも痛々しい。
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狗神 「所有名義は真月姫のまま。管理下におかれ、事件の存在そのものを隠匿し続けるつもりだろう。 奥方の口利きで上げてもらったが、いつ邪魔がはいるともしれん。」 |
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黒咲 「不法侵入で前科だけは勘弁ですよ」 |
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狗神 「だな。さっさと済ませて、おさらばといこう」 |
そういうと、所長はさも当然のように骨ばった手をわたしに差し出した。
わたしもごく自然に、その手をしっかりと握る。
別に、いまさら握手をしているわけでも、そういう気分に浸りたいわけでもない。
これから、現場検証をはじめるのだ。
それも、一般的なものとは一味違う、"過去"の現場検証。
――トプン
生暖かい液体に、身体全体が漬かるような感触。
すると、目の前に広がるベットルームの様子は、さきほどとはまるで違うものに変わっていた。
家具はブルーシートによって覆われ、青い作業着に身を包んだ清掃員たちがあわただしく床を磨いている。
廊下に並んでいる2つのボディバッグには、おそらく母子の遺体が収納されているのだろう。
これがおそらく遺体発見の直後。
所長に情報を提供した清掃員たちが、遺体の後処理を行っているときの"記憶"だ。
心なしか清掃員たちの表情も暗い。
幼い子供の遺体に心を痛めているのか。
身元の揉み消しに後ろめたさを感じているのか。
彼らの発するオーラも、全体的に哀色の青を示している。
淡々と作業を進める清掃員。
その1人を所長が指さした。
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狗神 「業者をしらみ潰しにあたってるとき、こいつに出くわしてな。 口は固かったが、まぁ……気の小さいヤツだったよ。」 |
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黒咲 「"記憶"に潜ったんですね」 |
当たりをつけた参考人に、あの手この手でゆさぶりをかけて記憶を掘り返し、
一瞬のすきをついて、その記憶に"潜る"。
記憶潜航の異能をもつ所長ならではの常套手段だ。
この顔ですごまれた男性には同情を禁じ得ない。かわいそうに。
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狗神 「後ろめたい記憶ほど、忘れがたいもんさ。 とはいえ、目当てはまだ"ここ"じゃない。
もっと"深く"いくぞ」 |
集中を深めるように息を吐くと、所長は身をかがめて、
空いている手でフローリングの床に触れた。
――トプン
全身を覆う生暖かい感触と、視界に一瞬よぎるノイズ。
さらに数時間、"深い記憶"に潜ったのだ。
ベットルームの様子はさらに一変し、
行き交う人影も、清掃員から、スーツ姿の男たちに代わっている。
家具を覆っていたブルーシートも今はなく。
鼻を刺すような異臭が室内全体に漂っていた。
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黒咲 「これって、いわば当主の"私兵"でしょうか?」 |
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狗神 「奥方の読みがあたっているなら、な。 で、こいつは何色のなんだ?」 |
手を握っている間は、所長とわたしは視覚を共有している。
正確にいうと、所長がリアルタイムで
わたしの記憶を知覚しているのだけれど、そこは詳しく説明するとややこしい。
とにかく、わたしが見えている"感情のオーラの色"を今だけは所長も同じように見えている。
もっとも、その色の意味するところは、わたしにしかわからない。
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黒咲 「"警戒色の黄色"ですね。」 |
屋内をせわしなく行き交うスーツ姿の男たち。
携帯でどこかに連絡を取る者もいれば、
現場検証めいてベットルームを物色している者もいる。
その誰もが、全身からビビットな黄色いオーラを発していた。
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狗神 「警戒……ってことは」 |
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黒咲 「シロですね、こいつらは。 おおかた、遺体を発見して、慌てふためいてるってとこかな。 襲撃とか、暗殺とか、いろんな自体を想定してるんでしょうね 」 |
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狗神 「音信不通で、様子を見に来たってことか……」 |
携帯で連絡をとっている男から漏れ聞こえる会話からも、それは明らかだった。
ベットの上には、大小の腐乱した遺体が2体。
寝間着を剥ぎ取られて、裸のまま並んで横たわっている。
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狗神 「…………」 |
遺体のすぐ傍まで寄ると、所長は無言で手を合わせた。
今、目に見えている光景は、"記憶"から構築された仮初にすぎない。
とはいえ、所長なりにけじめはつける必要があるのだろう。
わたしもその横にならんで、静かに手を合わせた。
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狗神 「これから"遺体に潜る"つもりだが……お前、どうする?」 |
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黒咲 「今更、それ聞きます?」 |
えい、と握る手に思いきり力を込めてやった。
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黒咲 「さっさとやることやって、帰りましょう。 瑠璃子ちゃん、1人で留守番させたままだと、また泣いちゃいますよ。」 |
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狗神 「……愚問だったな」 |
観念したように小さく笑うと、
空いている右手を伸ばして、所長が遺体を――三枝千奈津さんの額に触れた。
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❖2019年10月/イバラシティ・マガサ区/センチュリーコーポA 304号室❖
「かなちゃん、もう寝よう~」
ナイトランプでほのかに照らされるベットルーム。
水色の寝間着の女性が、ベットを整えながら、声をかけると、
ピンクの寝間着の幼い少女が、ぱたぱた足音をたてながら小走りに入ってきた。
生前の千奈津さん、そして加奈子ちゃんだろう。
「まま、まま」
ベットの上にあがると、加奈子ちゃんは甘えた声をだしながら、
手にした携帯タブレットを千奈津さんに差し出した。
「はい、はい。1話だけだよ」
千奈津さんがタブレットに触れて、操作する。
子供向けアニメが再生されると、加奈子ちゃんはタブレットを手にしたまま、
うつ伏せに寝転がって、モニターを眺め始めた。
その小さな身体に毛布をかけて、笑みを浮かべる千奈津さん。
ベットから少し離れたクローゼットの傍から、
わたしと所長は、その母子の様子を眺めている。
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黒咲 「……微笑ましい親子ですね。」 |
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狗神 「……」 |
穏やかな時間。穏やかな表情。
2人を覆うオーラも、安らぎ色の緑。
これが二人の最期の時間になるとは、とても思えない。
やがて、小さな寝息が聞こえてくる。
千奈津さんは、加奈子ちゃんの手からタブレットをどけると、
ちいさく「おやすみ」とささやいて、ナイトランプを消した。
ベットルームは、静寂と暗闇に包まれる。
聴こえてくるのは微かな空調の音だけ。
2人を包むオーラも、しだいに鎮静色の水色に代わる。
この場に本来いるのは、この母子のみ。
特に危険が差し迫っている様子もない。
ここから、どうすれば二人は亡くなるのだろう。
ありえるとすれば、体調不良による突然死。
けれど、親子が同時になんてことがあるだろうか?
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黒咲 「……!?」 |
それは、3時間ほど経った時だった。
最初は、千奈津さんが目を覚ましたのだと思った。
彼女の周辺のオーラが、ほのかに色づいたからだ。
だが違った。
色づき始めているのは、彼女の周辺ではなかった。
変化したのは、この室内、すべてを満たす空間だった。
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黒咲 「…………っ」 |
ベットルーム室内を満たすほどの大量のオーラ。
それが流動的に変色して、あたかも無数のシャボンが漂うかのように、
周囲の空間を虹色に染めてゆく。
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狗神 「……これは……どういうことだ!?」 |
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黒咲 「……わかりません。こんなもの、視たことがない」 |
わたしが視る"色"は、人の感情を視覚化したものだ。
そこに人がいなければ、当然、色も視ることもない。
だが、この状況はどうだ。
無数の色で溢れかえっているにもかかわらず、その感情を発する本人がいない。
ベットの上に横たわる二人は、いまだに鎮静色のまま。
所長と手分けしてクローゼットや戸棚を開けるも、第三者の姿は見当たらない。
そもそも、広い室内を満たすほどの"色"を発する人間を見たことがない。
室内を満たしていた無数の"色"が、ほんの一瞬、収束する。
ベットに横たわる母子の枕元に――。
一か所に収束した"色"は、その濃度を深めながらも、依然、玉虫色に輝いている。
そこに、"なにか"いるの――?
ぞくりと悪寒が背筋を走った。
次の瞬間、ベットに横たわる二人を包む色が"消えた"。
感情の消失。
それはつまり、二人の命が潰えたことを意味する。
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黒咲 「……」 |
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狗神 「……」 |
そこにはもう、"色"はなかった。
さきほどまで室内を華々しく満たしていた虹色が嘘だったかのように、
きれいさっぱり"色"は消えて失せてしまった。
残されたのは、二人の遺体のみ。
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黒咲 「……」 |
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狗神 「……最期の瞬間。どう見えた。」 |
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黒咲 「……2人を包む鎮静色が、消えました。 いえ、一瞬のことなので、はっきりとは言えませんが……消えた、というよりも……」 |
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黒咲 「吸い込まれたようにも……あの虹色に……」 |
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狗神 「……お前もか。」 |
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黒咲 「……いったい…」 |
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狗神 「異能による殺傷、と見るべきだろうな。 とはいえ、謎が多すぎる。殺害現場から、これ以上追うのは無理かもしれん。」 |
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黒咲 「容疑者を絞りますか。」 |
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狗神 「……ああ。 わかってはいたが、やはり一筋縄にいきそうにないな。」 |
大きく息を吐くと、所長は天を仰いで、右手をかざした。
"記憶"から浮上するための予備動作だ。
ベットに横たわる母子の遺体に手を合わせてから、
わたしは所長の左手を握り、共に浮上していく。
残された二人の最期が、せめて安らかなものであれと祈りながら。