
―…某日某所にて
「私が思うに…我が国において怪異が怪異でなくなったのは明治以降だ」
幻想の哲学者は唐突にそう言いだした。
「瓦斯灯の台頭により闇は追いやられ、妖怪は住処を追われた。止めは科学という名の兵器だ」
茶碗をトレーに置き、ヤツは私の目の前に座った。
「まあ、その布石は江戸時代にはあったのだが…」
「したいじん」
「そう、国学だ。江戸中期に芽吹いた布石が根を張り枝葉を広げ折口学を生み出した」
バターナイフを振り回しながら語り始めたヤツを放置し私は食事を始めた。
少し冷めたコーヒーをすする。…この学食のコーヒーは何故か常に少し冷めている。
値段が値段だけに文句はない。
「西洋だってそうさ、科学の台頭で妖怪は神秘性を失い、ただの事象に成り下がった」
持ってきた文庫本を開くと栞代わりにしていた映画のチケットが落ちた。
ヤツに無理やり連れていかれて観たものだったか…内容の記憶はない。
チケットを拾うついでにヤツをちらりと見るとトーストにバターを塗っていた。
塗りすぎだ、バカ。
「大航海時代には魔の海と恐れられた場所だって、貿易風と偏西風の狭間で凪やすいだけの場所と暴かれた。
神秘性を失った魔の海域は、北緯25度から35度・西経40度から70度の海域になってしまった。
サルガッスムに舵を取られ船員が命を落とし、主を失った船が漂う船の墓場は失わせれたのだ」
噂が噂を呼び、いらぬ尾鰭背鰭が生え、そうしてロアが生まれる。
科学という兵器はそれらを一枚一枚剥ぐかのように否定していく。
…ヤツが以前言っていた言葉だ。
「それでも人間というもの根本は変わらない、兵器を手にしてもなお怪異は消え失せない。
そうだな…船幽霊なんかそうだ、あれの根底にあるのは海で死に弔われなかった者達の霊に対する死霊信仰だ。
ほら、よく聞くだろう。盆のころに海に入ると連れていかれるという伝承。
あれは潮流の変化による危険性という事象に船幽霊という死霊信仰を被せた戒め…怪異だ」
「死霊信仰」
一瞬、しまったと思ったがもう遅い。
ヤツは私が反応したこと満足げな表情を浮かべている。
反応してしまった以上仕方ない、私は大人しく話を聞くことにした。
「海で死に弔われなかった者達の霊か…。軍艦とか、そういうものか?」
詳しくはない。が、古今東西の戦争で海戦で船が沈み命が失われたことくらいは知っている。
そこで失われた命はどうなるのだろうか、ふとそんなことを思ったのだ。
「ふぅん」
変わらぬ満足げな顔、話に食いついたことに対しての表情だろう。
私としては食いついてしまった悔しさしかない。
「この国の者なら英霊としていく場所はあるだろうね」
口の端にパン屑をつけながらヤツはにやりと口角を上げた。
拭け。
「船魂信仰、というものがある。船魂というのは女神であるというのが全国的な認識らしい。
余談だが…英語圏でも船舶を女性扱いしているとか」
「本当に余談だな」
「まあそれは置いといてくれ。…で、船にも魂は宿る、船幽霊という死霊信仰がある。
船とともに失われた命の慰霊は多くあれど、船自体の慰霊はそうされない。
だから、もし船自体の幽霊がいたらそれは女の姿をしているのではないか。と、私は思う」
その話は、なるほど、と私を頷かせる何かがあった。
それはただ単に私が幻想の哲学者に毒されているだけなのかもしれないが…。
だが、どうしてもそれを言ったら「負け」だという気になってしまう。
だから私は
「いいんじゃないか」
と憎まれ口をきいた。
ヤツは、幻想の哲学者はいつものように曖昧な笑みを浮かべていた。