
「決着ぅぅぅ! ヒトロー選手がリングアウトォ! 今この瞬間、世界寿司連VS茨寿司連のワールドアガリマッチ寿司概念5番勝負の勝敗は……大将同士の最終決戦に委ねられましたぁ!!」
歓声。歓声。歓声。
古代トローマ時代の様式を模した円形脂技場(トロッセオ)を、観客たちの熱狂が支配する。
その場にいる者ならばわかるだろう。熱狂の渦の中心にいる、十人の寿司職人たちの姿が。
その場にいる者ならばわかるだろう。彼らが持つ寿司への情熱は、客席を凌駕することが。
「さて、ではこれまでの戦いを振り返ってみましょう! まずはワールドアガリマッチ第一戦、いかがでしたでしょうか」
「シャリにネタを乗せるピッツァとちらし寿司、本質を同じくする二つの寿司同士の寿試合でした。ここネタリアが誇る寿司職人(ピッツァマイスター)である大トロッシーニ氏と、遠く日本からやってきた散らしの名手、雛祭太郎氏。両者のプライドが激しく激突する、まさに記念すべき初戦にふさわしい戦いだったのではないでしょうか。勝利の女神が微笑んだのは大トロッシーニ氏でしたが、どちらが勝ってもおかしくない戦いでしたね」
「続く二回戦では、カリフォルニアロールVS巻き寿司の対戦となりました。コメリカ代表のマイテル・ジョーダン対、田中巻男です」
「田中巻男氏は四寿司聖獣がひとつ、巻武として名を馳せた茨寿司連でも名うての職人です。かのニギリンピック崩壊の当事者でもあり、その腕前は今なお上達し続けているという生粋の寿司職人。マイテル氏のフィラデルフィアエクスペリメントロールという切り札にも動じず、田中巻男氏が四寿司聖獣としての貫禄を見せつけました」
「三回戦では、偶然でしょうか。それとも運命の悪戯でしょうか……同じ日本人同士の対決になりましたね」
「流浪の寿司職人小刃田氏は世界寿司連側としての参戦。対する茨寿司連代表は、外トロ(アウトロー)だった己を乗り越え、生まれ変わった鮭(さもん)豊作選手……二人はかつて同門だったとされます」
「ネタに熱はご法度ですが、それでも白熱した戦いだったと言わざるを得ないでしょう。江戸前の仕事の丁寧さで熟練の技を見せた小刃田選手に軍配が上がりました」
「さあ、そして先ほど行われました第四回戦。これで負ければ試合が決まってしまう世界寿司連、満を持して投入されたのはドイツ代表の新進気鋭、ヒトローでした。ジャガイモにソーセージを添えれば、それはもう寿司! 試合はドイツ代表、ニギルフ・ヒトローのヴァイ寿・司ュヴァルツが終始圧倒していたようにも思われました。ですが……」
「迎え撃つは鯖龍2氏。彼もまた四寿司聖獣の一員であり、先代の残したデータを元に作られた、鯖龍の称号を受け継ぐ人造寿司機械人間です。その名の通り青魚を武器としており、持ち前の耐久力を生かした防戦から、イワシの握りの圧だけでヒトロー氏をリングアウトに追い込みました」
「金気に弱いイワシを捌くため、彼が持参した包丁は全長30メートルにもなる超巨大イサキの骨を加工して作った骨包丁です。あの包丁を軽々と扱う膂力と耐久性、そして握りの精密さと力強さ……今大会最大のダークホースと言えるでしょう……」
「さて、準備が整ったようです! 会場の皆様、待たせいたしましたッ! ワールドアガリマッチ寿司概念5番勝負……両チーム、大将の入場ですッッ!!」
歓声。歓声。歓声。
それは寿司に似ていた。マグロのように赤く、シャリのように柔らかく、会場が寿司の気に包み込まれていく。
胃袋を掴む。心を掴む。人心の掌握、それは寿司に似ていた。そして今、彼らは客席の心を鷲掴みに──否。握っていた。
東から出てきた男。全身に力を漲らせた、騎士然とした鎧の男。
西から出てきた男。全身を海苔で巻いた、奇妙な出で立ちの男。
「世界寿司握り同業組合連合会総本山大将ッ! 竜すら捌くこの男! ドラゴンスレイヤー・寿司グル酢ゥゥゥッッ!!!」
「対するは茨街寿司握り同業組合連合会総本山大将ッ! 聖ニギルギウスに学んだ寿司職人! …………」
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「夢か……何なんだ今のは」
風邪を引いた。
イバラシティという新天地で働き始め、ようやく環境にも慣れてきた頃だ。そろそろ疲れが出てくる時期といえばそんな時期かもしれないし、年度末のあれこれが重なったのは理由として十分だったのだろう。それでも、栄養剤やら何やらで騙し騙しやってきた。それが余計に良くなかったに違いない。定まらない視点、まとまらない思考、そして全身の倦怠感。長らく接したことの無かった症状だが、それでもすぐに理解できる──古い友人のように、いくら間が空こうとも。間違いなく風邪だ。
ドラッグストアが同じビルにある環境は、もしかすると最高の職場なのかもしれない。『Go Home』なる適切なネーミングセンスを備えた薬局で風邪薬と諸々の必需品を購入し、帰宅。既に限界に近かったようで、着替えて薬を飲んだ直後から記憶が無い。そのまま布団に倒れ込んだのだろう。
窓から差し込む気配は既に星明りに変わっていた。昼下がりに帰宅したことを踏まえれば、大分眠ったはずだった。それでも熱は下がらず、全身は汗だくのまま。回復に専念する肉体がしきりに喉の渇きと空腹を訴えてくる。食欲があるのは良いことだ。部屋に転がりっぱなしだった薬局の袋を探り、まずは水分を補給する。着替えも必要か。
体温計が示した数値は38度2分だった。間違いなく風邪だ。油断は出来ない数値だが、少し眠ったことで頭痛は解消されている。風邪に必要なものは三つ。栄養、休息、そして薬。休息は十二分に確保できる。薬も買ってきたし、食料もある。ドラッグストアが同じビルにある環境は、もしかすると最高の職場なのかもしれない。
着替えを済ませ、軽く食事を済ませると、脳を揺さぶるような強烈な睡魔に襲われて再び意識を手放した。
「夢にしても……何の暗示だ、あれ」
そして、今に至る。翌日の朝であり、まだ始業前の時間だ。自然と目が覚めたわけではない。目覚まし時計が休まずに仕事をしてくれたおかげである。
風邪を引いたときに見る悪夢は熱のせいだと言われているが、それにしてもあんまりな夢だ。間違いなく風邪だ。相も変わらず回復に専念する肉体がしきりに喉の渇きと空腹を訴えてくる。体温は37度6分。ダメと言われた以上、無理を押して出勤するわけにもいかないだろう。あそこまで笹子さんに言わせてしまったことが、今となってはひどく惨めに思えた。病は精神をも弱らせる。シンと静まり返った部屋には、耳鳴りにも似た時計の音と、激しく脈打つ鼓動が不規則な重奏を響かせていた。
目下必要なのは連絡だ。上司である笹子さんに病欠の旨を伝えねばならない。普段から必要なものは布団から手の届く範囲に揃えているのが功を奏した。放っておけば際限なく力が抜けていく体に渇を入れ、携帯に手を伸ばす。電話連絡でいいだろう──そもそも他の手段がない。コールすること数秒、もしもし、とまだ眠そうな声が耳をくすぐる。
「おはようございます。偽黒初です」
「あら……こんな時間にお電話ってことは、病欠かしら?」
「……すみません。お陰様で大分良くはなったんですが」
「もう。だから無茶しちゃダメって言ったでしょ」
「すみません。返す言葉もないです」
「いいのよ。実際、負担をかけてた部分はあったもの……目途はついてるし、ゆっくり休むこと。これは上司命令よ。わかった?」
「……はい、すみません。ありがとうございます」
必要な会話を必要な分だけ交わした後、部屋に残されたのは不要な静けさと熱を出して寝込んでいる自分だけだった。孤独は人を夢想家にする。無茶はしますとかっこつけた挙句に病に伏して寝ている負い目から来る罪悪感と、部下の行いを面と向かってダメだと咎める心的負担を察した事による追加ダメージが弱った体を更に苛む。頼られたことがただ嬉しかっただけだった。分不相応な欲を出さず、そこで満足しておけば良かったのだ──と、病床で物思いにふけるのは悪手だ。際限なく悪い方へと転がっていく。
体調の管理がなっていないのは自分の責任だ。それは否定できない。しかし、笹子さんの口調は、それを叱責するでもなければ、気負いすることなく休めるようにとの心遣いが伝わってくるものだった。その優しさが、病で弱った心にひどく沁みた。
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「彼、知り合いだったんですよ。向こうで──イバラシティでは」
「まあでも、敵でしたね……これが思ってたより堪えてるみたいです。知り合いが敵かもしれないっていうのは」
よく知っているはずの人物が、よく知らない人物になる恐怖と混乱。友人が自分の陰口を叩いているのを偶然聞いてしまったような気まずさ。目の前のものが見えていたものと違っていたような、錯視にも似た戸惑いに襲われたのは、ハザマという地の特異さを真に思い知った瞬間でもあった。
逆に運が良かったと言えるかもしれない。敵──アフレイドはこちらに陣営を偽らなかった。イバラシティ住民ながらアンジニティに与するものや、その逆もあるだろう。仮に陣営を偽る者が居れば、見抜くのは容易ではない。異能の直感をもってしても。
同じ顔、同じ姿、同じ声だったところで、中身が同じとは限らない。よく出来た皮肉だ。人にはコインと同じく裏と表があるが、どちらがコインの表なのか、それは誰にも分からない。笹子さんに伝えたこの言葉は、そっくりそのまま自分にも跳ね返る刃だった。握りしめた刃で血を流しながら、その手で己の胸に突き立てるかのように無為な自傷行為に他ならない。
(それでも……いや、だからこそか)
愚かさは自覚しているが、隠し事をしたまま生きられるほど賢くはなかった。
確かなものが欲しかった。ここに来てから、ずっとそのことだけを考えている。右も左も分からない、過去も未来も分からない。知己の存在、己の記憶と行動すらも捻じ曲げられる中で、己を偽らざることの美徳は、後悔しないことにこそある。