
これは記だ。当然のことながら。
2月13日。聖ヴァレンタインデーの前日。
基本的には全てのものに敬意を払って生きていると自負していた。雨が降れば雨に敬意を払い、晴れれば太陽に敬意を払い、カスみたいなラーメンを食えば店主に敬意を払う(なんでこれほどまでにカスな逸品を?)。
ヴァレンタインデーは敬意を払われるべき深い歴史と伝統を持つイベントだ。何せ、歴史が深い。それにヴもついている。しかし、今日だけは違っていた。いわれや歴史など、そんなものはどうでも良かった。それどころではない、と言った方が正しいだろう。それもどっちでも良かった。大した問題ではない。
いいとこのホテルのヴァレンタインデープラン。正確には、ヴァレンタインデープラン(カップル限定)。既に予約は取れた。光栄にも、一緒に行く相手は決まっている。残ったのは……
「恰好……格好か」
天を仰ぐようにして椅子に全体重を預け、脱力しながら電子タバコをふかす(年齢や賃貸契約など法的な問題はクリアしているので大丈夫)。普段ならこの喉に刺さるようなミントのフレーバーが冷静になる手助けをしてくれるのだが、今回は冷静になっても何も解決しない。何せ、何が分からないのかすら分からないのだ。進みようがない。
いいとこのホテルに行くからには、それなりの服装で戦いに挑む必要があるだろう。そこまでは直感に頼らずとも瞬時に理解できた。が、その先──どんな服にしようか、という部分が想像出来ずにいた。
あまりにスパスパ吸っていたせいだろうか。味が極端に薄くなり、煙の出も悪くなってきた。リキッド切れだ。何も進展がないまま、ただいたずらに時間だけが過ぎていた事実を叩きつけられ、嘆息する。
咥えていた電子タバコを机に放り投げ、気合を入れて想像力をもう少し手前の段階に引き戻す。つまり、それなりの格好について思いを巡らせるよりも前に、いいとこのホテルに行くからにはそれなりの服装をしてくるであろう笹子さんの姿について。導き出される結論、それは普段の白衣姿とは違う、余所行きの笹子さんの姿が拝めるということでもある。私服ならば前に見たことが無いわけでもないが、あの時は単に初詣に来ていただけであって、余所行きとまではいかなかった。単純な理論展開として、あの時よりもそれっぽく着飾ってくるだろう。ならば、自分もそのラインに合わせればよい。
「合わせられるなら先にそうしてるんだよな……」
さらに追加で一時間ほど粘った結果、最終的にたどり着いた答えは””消去法””だった。勝利するためのゴテゴテした加点要素満載のSランクコーデではなく、基本に忠実に立ち回ってこそ真のコーデバトラーだ。大人しくジャケットにしとこう。身の丈に合うとはよく言ったものだ。
勝つためではない。負けないために戦うのだ──戦いの中に、答えはある。
2月15日。聖ヴァレンタインデーの翌日。
何故こうまで緊張しているのだろうか。
閉ざされていた昨日を抜け出した明日のそれは、今までのものとは質が明確に違っていた。仕事のついでだとか、大仰な行事を羅列した先にたどり着いたディナーだとか、偶然出くわしたものではない。明確に、日時と場所を指定して、誘いをかけたイベントだった。このタイミングで予定を確認しておいて、ただケーキが食べたいだけというのは、大義名分としてはいささか不十分だろう。そんなことは百も承知だった。
お誘いする側にもかかわらず、笹子さんの助け舟には驚くほど助けられた。あの冷静な観察力と、差し出される救いの的確な深さがとても好ましいと思っている──好ましさの百科事典の中の、ほんの一つの索引に過ぎないわけだが。
時計の針(デジタルだし心拍数も測れる優れもの)は集合時間の手前を指している。こんな重大な用件でもなければ来ないような人口密度の中、季節柄カップルやそれに類する表現で構成された人波を尻目に一人耐え続けるのは精神衛生上良くない行為であり、繰り返すが普段ならば絶対に利用しない乗り換えを乗り越え普段ならば絶対に足を運ばない空間で普段ならば絶対に過ごさない時間を過ごすのは孤独であり過酷だった。視界のすべてが過剰で、今日のワクワク感で何とか保っていた自我が自然とこの場からランダムに半数くらい消滅したらもうちょっと心穏やかに待てるかもしれないという過激な思想へと変化しかけた頃、ふと気配を感じて直感的に目を向け──目を疑った。
直感の通り、そこにいたのは笹子さんその人だった。それでも目を疑ったのは、当然と言えば当然だが、普段とは全く違う笹子さんの姿がそこにあり、人間が得る情報の八割は視覚からというその手の学会や専門家の間でまことしやかに囁かれている学術的見地に基づき、情報量に混乱したためだった。
何せ、髪を下ろしている……いや、いつも下ろしているか。そこはいつもと同じだ。混乱している。
人間は視界を変える際、例えば横を向く時などは、あらかじめ脳がそこにあるであろう光景をシミュレートしているとも聞く。想定外の事態に弱いのは、人間のセキュリティホールそのものと言えるだろう。
「ごめんね、待たせちゃったかしら……どうかした?」
「あ。いや、いえ、えーと……僕は大丈夫です」
おかしなことを口走る自分に向かって、おかしなことを言うのねと怪訝そうに眉をひそめるも、特に追及することなく彼女は──笹子さんは表情を変えた。期待、あるいは自分の辞書に載っていない感情が宿っているような、そんな顔で。
「……それで? 会場は向こうよね?」
「会場は向こうですが……それで、といいますと?」
「もう! 今日は貴方の予定でしょ。ちゃんとして貰わないと困るわよ」
言いながら、腰に手を当てて口をとがらせる。
基本的には全てのものに敬意を払って生きていると自負していたし、ちゃんとしているつもりだったが、彼女が言いたいのはそういうことではないらしい。見慣れぬ姿に着飾った笹子さんから目を逸らす(思考がまとまらない)ようにしてしばし無言で考え込み、どうにかこうにか答えに手を伸ばした。
「……アレですね。分かりました──今日はありがとうございます。一日だけ……当日その場限りではありますが、僕とあの、カップルを……演じて、いただいて……」
「えっ、いや……そういうのは、もっと、後で、ちゃんと聞きたかったんだけど……」
しくじった。顔が、全身がカッと熱せられたかのように上気していくのを感じる。汗の一つや二つ流れているかもしれない。自分だけではなく、笹子さんもまた顔を真っ赤にしているのが見えた。公衆の面前、天下の往来で口走ったのは間違いだったかなと臍を噛む。気まずい沈黙。
「ええと、じゃあ。えー……本日はヴァレンタインということで、不肖私めがエスコートさせていただきますね……みたいな感じですか?」
「そこ、それを聞いちゃったら台無しじゃない。でも、良いわ。今日はお誘いありがとう。……エスコートしてくれる気なら、楽しませてね?」
「……私を楽しませろって言い換えると急にラスボスっぽくなりますね」
「もう、茶化さないでよ。……あんまり茶化すと本当に立ちはだかっちゃうわよ? ラスボスみたいに」
苦笑いでかわされ、何度目かの反省をしながら。いよいよ時間も差し迫っているとの気づきを得たため、続きはケーキを食べながらと会場へと向かうことにした。道中何を話したのか、あまり覚えていない。ただ、いつもより強く周りの目を感じた。実際はそんなこともないのだろう。世間は無関心だ──人間は深淵ではないし、覗くことも覗き返すこともない。それでも、ある種居心地の悪さにも似たものが、笹子さんの隣を歩くことの誇らしさと同居していた。
その奥に、他愛のない世間話のような、気のない相槌を打っていたような、そんな記憶がかすかに残っていた。
ケーキの味は分からなかった。
別に経穴に針を刺されたわけではない。カップルプランというからには、当然席は向かい合って用意されていたのだ。正面に笹子さんが居て、普段とは違う装いの笹子さんが美味しそうにケーキに舌鼓を打つ姿を拝みながらでは、何を食べても味を感じないだろう。当初の目的は果たせなかったが、それでも十分幸せだった。
後日。
ヴァレンタインチョコレートケーキのお返しにと、笹子さんが箱入りのチョコをくれた。
部屋に帰って開けてみると、中には洒落たチョコの詰め合わせ、それに””たくさんの感謝を込めて””と記された一枚のカードが添えられていた。
一つ摘まんで口に運ぶ。とろけるような上品な口当たりの、上質(ハイグレード)なチョコレート。それでも一人で食べるチョコはどこか味気なかった。が、それは流石に贅沢というものだろう。
──────
「はーーーーーー……なるほどね。そういう感じですか」
「背後には気を付けていたつもりなんですけどね。ままならないもんです……」
「……笹子さん、僕の背後は任せます」
もう少し賢くなるべきだったのかもしれない。伝説の探偵、ミゼンニ=フセーダのようにとは行かずとも、もっと早く気づくタイミングはあったはずだ。こうなることも、これが何を意味するのかも。
気づくのが遅かった。イバラシティでの友人が、ハザマでは敵となる可能性を考慮しなかったわけではないといえば嘘になる。ただ、信じたかったのかもしれない。自分に言い聞かせたかったのかもしれない。憔悴した様子で、それでも弱音も吐かず表情も変えぬ精神力を保っている笹子さんを、どうにか安心させるために。エゴが招いたのは危機だった。茅芽さんをつい呼びなれた方で呼んでしまうほどの、余裕のなさ。
頼りになる、とても大きな男だと思っていた。少なくとも、事実はそうだった。コインには裏と表があり、人にも裏と表があることから、人間は良くコインに例えられる。しかし、イバラシティでの彼と、ハザマで対面した彼の間には、コインの縁ほどのギャップも存在しないような気がした。表も裏もない、そのものがひとつ。例えるならば、しゃもじのような存在。メビウスの輪。
イバラでは友好的な関係性を得ていたはずだ。少なくとも、敵対的ではなかった。表裏のあるコインのように、自分にも自身ではきづけぬような表と裏があったとしても、そのどちらもが反目するような関係ではなかったと思っている。
それは誤りではないのだろう──少なくとも、イバラシティでは。ただ、楽観的過ぎただけだ。強化された異能の伸び代は、こういったところには全く生かされていないらしく、肝心な時に直感は働かない。
気づくべき遅れはもう一つあった。同様の懸念を、初めから、それこそ本当に初めの初めから──ハザマでコンタクトを取った最初の瞬間から、自分に対して笹子さんが抱いていた可能性について。
可能性。人間の可能性は無限大だ。少なくとも、正の方向にも、負の方向にも。
アンジニティの侵略者と戦いながら、いくつかの思いが去来していた。
自分は伝説の探偵には程遠いこと。直感は肝心なところであてにならないこと。笹子さんはずっと表情を隠しながらこちらに対応していたこと。この戦いを切り抜けても、更なる闇が待っているかもしれないこと。
信用出来る人間が、一人でも多く欲しかった。
いや、違う。
見えていない敵を、一人でも多く減らしたかった。
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今回の日記はEno.831様との合作となっており、上記前日談からの続きとなっています。