
すでに美香の息は続かなくなりつつあった。
あのカスミ湖の『怪物』はそれを知ってか知らずか、その身を締め付け、いよいよ喉に手をかけてくる。
酸素を求める肺のあえぎが、次第に弱まっていくように美香には思えた……苦しみにもピークというものがあるとわかってしまうのは、既に身体から生命が抜け始めている証拠なのだ。
こんな中でも知恵を絞って、抜け出す術を見出すには、齢十四の美香はまだ未熟すぎた。
今の『怪物』は、水の波に依って動き回っているのではない―――人間の身体をとらえるとなれば、そうもできるらしい。もはや美香の『波を凪ぐ』力では抵抗もかなわない。
果てしない坂を転がり落ちていくように、肉体の力が失われていく。
いよいよ、最期と、思われた。
その刹那に―――
シャッ!!
何かがあぶくを曳きながら飛来し、美香をかすめて過ぎ去る。
直後、水が激しくゆらめき、美香の身体は投げ出された。
さらに上から、バシャ、バシャッ!!
何かが水面を激しく叩いて、波紋を作り出している。
変転する状況が、意識をにわかにつなぎとめ―――薄れていく視界の中に、美香は知人・宮田一穂の顔を見た。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「ちきしょう、手遅れかよォ!?」
ボートに残された角刈り少年は水面をオールでぶっ叩き続けている。
波を立てればすぐにでも『怪物』は追ってくるはずだが、それをしないのは、引きずり込んだ美香を貪り食っているからかもしれなかった。
「美香……美香……ッ!!」
角刈り少年が最悪の想像を認めかけたところで……
ザバァーッ。見知らぬニット帽の少年が、上がってきた。その腕に、目をつむった美香を抱いて。
「はェ……!?」
少年が目を丸くしている間に、一穂はボートに手をかけ、細い腕から想像しがたい力で傾けにかかる。
「この人を乗せて下さい!!」
少年は言われるまでもなく、美香の脇に腕をひっかけてボートに運び込みにかかる。
が、自分の力がいらなくなったところで一穂はさっさと離れていってしまった。
「お前はどうすんだ!?」
「距離を―――」
刹那、一穂がグッと水中に引き込まれる……のを、角刈りの少年が左手でひっつかんだ。
「くっそォ……!」
一穂に絡んでいる『怪物』の方が、やはり力が強いらしく、ボートは少しずつ傾いていく。
しかし、時間を稼ぐには十分だった。
一穂は浮かんできた自分の鞄に手を突っ込み、フォークを取り出すと、
「ぱッ!!」
気を吐きながら自分の腰近く、水でできた『怪物』の身体へ突き刺した。
ゴポォッゴボゴボゴボッ!!
また、水流が激しく乱れる。
振り回される一穂を、しかし角刈り少年は決して離さない。
ボートがひときわ傾いたところで、エイッと力を込め、反動で引きずり上げてみせた。
「ハァ、ハァ……何やったンだ……!?」
角刈りの少年がさっそく尋ねてきて、一穂は考える。自分はむやみに身分を明かすべきでないと記憶しているが、ここから『怪物』に対処していくには協力が必要だ。
「ぼくの異能は物に『記憶』を焼きつけ、それを介して他の生き物に伝えるものです。
今ぼくを捕まえたやつに、フォークを通じて強烈な『記憶』をくれてやりました。ひるませはできましたが、すぐまた襲ってくるでしょう」
「あ、あぁ……どうすればいい?」
角刈り少年は思わずすがっていた。そうしてしまうほど、一穂は冷静に見えたのだ。
「広い水場にいる限り、やつは無敵です。殺すこともできない。
どこか狭い場所に誘い込んで、封じ込めるしか……」
「狭いトコ、か……」
そこへ、グワンッ! ボートが再び揺さぶられた。
「ギャッ! 戻ってきたぞォ!?」
揺れはだんだんと大きくなり、このままでは転覆も時間の問題だ。水に落ちてしまえば遅かれ早かれ『怪物』の餌食になってしまう。
「クッ!」
一穂は、今度は箸を手にして、『怪物』がいるであろうところに狙いをつける。
パシャッ!!
「っ、いいぞ!」
「いえ、手応えが浅かった……むこうも学習しているんだ。
それに、一度『記憶』を焼きつけたものは再利用ができなくなるから……いつまでもこうしちゃいられませんよ。
あなた……異能は?」
「おれ、のは……」
角刈りの少年は、明らかにためらっていた。
だが、『怪物』は待ってはくれない。ボートの揺れはおさまらず、波紋が拡がっていく。美香もまだ目覚めないから抑えようもない。
……ふと、騒ぎから遠いところにいたカモが何羽か、湖面を飛んでいくのが見えた。
「くっそ!」
飛んでくるカモに合わせ、角刈りの少年はボートの上で跳躍をした!
二本の腕でそれぞれ一羽ずつ、合わせて二羽を捕らえてみせた。
すぐさま、ゴツゴツした手に、額に、血管が浮かび上がると―――カモたちは突然、数秒ばかりけいれんを起こし、ぐったりとおとなしくなった。
「さぁ来いよ、さっさと来いよ化け物め!」
水面に向かって、角刈り少年は二羽のカモを構える。
その脇には一穂が、鍋を手にしてかがみ込んだ。必要ならそれでもう一発『記憶』をかましてやるつもりなのだろう。
だが―――グオンッ!!
次に来た『怪物』の一撃は、素早く、重かった。
たったの一発で、ボートは……バッシャアッ!! ひっくり返ってしまった。
『怪物』よりも先に、冷たい冬の水が、三人の体を苦しめる。
準備体操などしていない角刈りの少年には、それがことさら応えた。だが彼は、石になってしまいそうな身体に喝を入れ、カモたちを降ってくる水の塊めがけて構え、念じた。
「―――スイッチ・ON!!」
少年の叫びとともに、カモ二羽がくちばしを外れんばかりに開く!
ズォーッ!!
空気が、水が、渦を巻いて、カモたちの口の中へと吸引されていく。
引力よりも先んじて、一滴も残さず……
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
やがて、あたりに静けさが戻った。
角刈りの少年は、水風船のようにパンパンに膨れ上がったカモの二羽をおさえこむように抱えて、どうにか浮いている。その近くには、美香の顔を水面上に保ちつつ、ホイッスルで「SOS」を発している一穂。
『怪物』の気配は消えたが、危機から脱したとはいいがたい。助けが来ないようなら体温がもたなくなって死ぬだろう。
「ライフジャケットも自前で買うべきだったンだな……くっそ、何もかも甘かったんだ……」
角刈り少年は、悔しそうに、哀しそうに、手元のカモを見つめる。二羽とも、ぐったりと頭を垂れて、動く様子はない。
その様子を見つめている一穂が口を動かすより先に、少年はしゃべりだした。
「……おれの異能はな、生き物を機械に変えて、生命のエネルギーで動かすんだ。
使われたやつはすぐ死んじまうか……そうでなくても、大抵助からねえ……」
「しかし、こんなことができるのなら、もっと早くすればよかったのでは?」
一穂は平坦な声で問うた。
「わかってるよ。わかってるけどよ……」
角刈りの少年にとっては、その声は水よりも冷たく感じられた。
「……よしなさい。そいつ……生き方が、シビアなのよ」
ふと、美香の声がした。目が覚めたのだ。
「よ、美香ァ!」
クヨクヨしていた角刈り少年の顔がパッと明るくなる。
「こうしてられるってコトは……済んだみたいね、無事。どうも、ありがと」
「い、いや、でも、このままじゃあ……」
「……あちらを見てください」
一穂が、水平線の方を指差した。
しぶきをあげて、何かが近づいてくる。エンジンの音も聞こえてくるようだ。
三人はやってきた救助のボートに助け上げられ、その危機を脱した。