Her Dog
今より、うんと昔の話ですが。白いレースで編まれたドアノブカバーの上に手を這わせ、ドアノブをひねると、いつもその人はいました。
窓辺に置いている机には開きっぱなしの異国の絵本(ごく淡い、みずいろの表紙でした)が置かれていて、また、そこでは白いカーテンが揺れていて、いつも白木蓮が散っていくのが見えます(季節に関係なく、本当にいつも見えるのです)。破れないように、丁寧に楽譜の頁を繰る、黒いワンピースの袖から覗く手はやはり白っぽく、部屋の片隅にあるピアノの白黒の鍵盤を叩けば響く甘やかな音色は、一階で仕事をしている時などでも部屋の中にいるのと同じように降ってきます。あの楽器は家のどこにいても彼女の存在をこの身体に伝えてくれるので、すきでした。
あの女の子を、女の子らしく育てるために、と彼女の両親が用意した真っ白な部屋を、『清潔なだけの監獄』とまで言った彼女は、今は学生寮で暮らしていて、滅多なことがなければ帰ってきません。待てど暮らせど、帰ってはきませんでした。
BASARA
婆娑羅〈ばさら〉 とは。
秩序や伝統を無視し、自由闊達に生きる様。権威に反発する社会的風潮の事。
ぜいたくの限りを尽くすなどして、この世を謳歌すること。
「たぶん……戦争に行きたいんだと思うんです、わたし」
『女の子』であれ、『乙女』であれと育てられ、蝶よ花よと囲いこまれる幼少期を過ごしたその人は、それらしくお菓子作りに興じながらも、そう言いました。彼女も一時期は男装をしたり、荒々しい男性語を使ってジェンダーロールを抜け出そうとしていたものの、最近はそういったこともなく、穏やかにしていたので、俺は一寸びっくりして、何を言うべきか迷っていました。
どうも、その人は、最近……戦争に行く夢を見るそうです。
その夢の中では、戦場でも死体が腐っていくこともなく、人の命は花のように散っていくのだと言います。心の裡から、魂から、人は叫び、語らうように剣を交え、愛し合うように殺し合う。そんな夢を、ずっと、見ているのだと。恋の苦しみに喘ぐように、顔を真っ赤にしながら語っていました。
俺は、そのとき、
「それ作り終わったら、一緒にどっか行こか」
なんて言うのが精一杯でした。
だって、俺みたいなちっぽけな個人の力で戦争を起こすことなんてとてもとてもできませんし、まさか使用人の立場で『小規模の戦争だ』と言って喧嘩を仕掛けるわけにもいきませんでしたから。
皆さん、どうもありがとう。戦争をおこしてくれて。
あの人は、ずっと、生きているという実感を欲していたのだと思います。
形を持った死。死、そのものの圧倒的な敵と相見えることで、生が強烈なものになる瞬間を、ずっとずっと望んでいたのだと思います。
戦場を駆るみなさんは、嵐のようでした。彼女を縛り、囲い、彼女を"娘"と"乙女"と名付けた何もかもを吹き飛ばす、豊かな風。
俺が愛するその人は、大嵐によって瓦礫と化したお城を抜け出して、白馬を駆るおひめさまのように、素足で戦場を駆けていきます。
守られていたり、大人しく助けが来るのを待っていたりするのではなくって、自分の意思で自らそこを飛び出していった。自由自在に白馬をあやつるように、素足で飛び出していった。
赤い剣を一本持って大地を蹴り、彼女は前へ、前へと世界を掻い探る。懸命に、生きているその人は、生命力そのもののような姿をして輝いていました。
芽吹いたばかりの植物、産声、雪崩のような、荒々しい戦士の女の子。
返り血を浴びた髪が空を舞う様は、ごおごぉと燃える火のようで。虚弱に生まれながら、風に煽られて、その生命の燈を消すことのないようにと燃え盛る。
生命をすべて、今一瞬のための推進力に変えてしまう、向こう見ずで無鉄砲な、小さな男の子のような戦士。
止めないで、縛らないで、留めないで、名付けないで。そう叫ぶような、生命。弾丸のように撃ちだされて、転がっていくのを、ただ見ていた。
BASARA、という少女漫画が、彼女の棚にありました。砂漠で生まれ育った少女のものがたりでした。
婆娑羅。それは、旧い因習や拘束を否定し自由に振る舞い、思いのままに生きる精神のこと。
湖沼の水を煮沸したものを啜り、虫や木の根を拾って食いちぎり、戦います。今の彼女は、彼女の両親がが期待した病弱で美しい深窓の令嬢のような雰囲気はなくって……いつになく、楽しそうでした。
そんな彼女を見て……俺は、彼女が、彼女に貞淑にすることを教えた両親の前に、ホットパンツを履いて立ちはだかった日のことを思い出しました。
『いつもいい子でいるように』『控えめにするように』と言いつけてきた両親に、『うるせー!』と吐き捨てて、貴女はあの日、家を飛び出して夜の街へと出かけたのでした。
今日の貴女はあの日のように素足を晒して、飛び上がるから。俺はあの人同じことを思うのです。
この人は、まさしく、"婆娑羅"なのだろう。
荒れた街の中に投じられた金剛石の光が野に充ちる。
燃えるような髪、迸る血潮、匂う汗と崩れゆく瓦礫から付す埃の匂い。埃で荒れゆく素肌も、太陽の光を浴びて輝く魚鱗のようで、美しい。彼女の纏う何もかもが愛のようでした。
この世界、戦場に愛されて、躓きながら転がりながらも彼女は今、どんな時よりも明確に、生きていました。
婆娑羅。その語源は、ダイヤモンドを意味する。
その石言葉は、『変わらぬ愛』『純潔』そして、『不屈』。
どんなふうに転がっても、その美しさは欠けることがなく、打ち消されることもない。その光で、俺は満たされる。
〈今にも消し飛んでしまいそうな体つきをしていながら、彼女は逞ましく生きている〉