
放課後の保健室。
今日は、夏休み明けの初日だ。
――眼帯を外した俺の右目の黒濁を見て。
担任の先生が、結構誤魔化しようがないくらい鋭く息を飲んだ。
半ば悲鳴のようだったと思う。
直球ど真ん中でしっかりと耳に入ったその鋭い悲鳴を聞いて――。
ああ……なるほど。
やっぱり、誰でもこの右目を見たときは、同じ反応するんだな、と思った。
まさに二週間前の自分の反応と、まったく同じだったから。
「……先生いいッスか、右目、仕舞って」
言葉を失っている先生に俺が助け船を出すと先生は慌てて頷き、俺は右目を閉じた。
黒く濁った右目は元通り眼帯の奥に仕舞われる。
耳元で一回、頬の下で一回、パチリという音がして、しっかりと"拘束"された。
……痛みはあるのかい。ちゃんとお医者さんには診せたのかい。
大丈夫なのかい。ちゃんと見えているのかい。
恐らく聞かれるだろうなと思っていた質問がちゃんと飛んできて、
ああ、この先生はいい先生なんだなと思った。
少なくともそういう心配から出た言葉は。
「自分で買った拘束帯を、医療眼帯として認めてくれ」とかいう、
訳のわからない申し出をしてきた生徒に言う言葉ではない。
それらの心配の言葉は、俺が今回お願いしていることと何ら関係なく、
そういう心配が自然と口を突いて出てくるというのは、善人の証なんだと思う。
俺はだから、そのいい先生に曖昧に、苦笑いして「その辺はちゃんとしてます」と返した。
嘘ではないし。大丈夫かどうかは、正確には分からないけれど。
――風凪にフラれたあの日の翌日。
朝起きて鏡を左目で見たら、自分の右目が黒く濁っていることに気づいた。
鏡に映る自分の姿を見て、うわっ、と声を上げて眉根を寄せ、
人差し指で瞼をめくって確かめたところ、右目の眼球全てがドス黒く濁っていた。
それだけではなく、右目の瞼の上や下瞼に赤い血管が芋虫のように這っていて。
正直言って生まれて初めて自分の体の一部を「気持ちわりぃ」と思った。
見た瞬間息を飲み、自分の身体に受け入れがたい刻印が刻まれていることが、
喪失感と嫌悪感がないまぜになった不快感という"しこり"として胸の中に残った。
ただでさえ、消しようのない"動く入れ墨"が生まれつき入った身体に、
今度は"片目だけ真っ黒な眼球"という異物感が混じったことになる。
――ああ、なんかこれは。
――いよいよ俺は、"化け物"みたいだなと、そう思った。
「……化け物、みたいじゃないスか。
……"だから"です」
回想の中で思った言葉を、そのまま口に出した。
先生は、少しだけ難しい顔をしたあとに、言葉を接がなかった。
肯定と否定の間で揺れるその教師の顔を見ながら、
そんな顔をさせる言葉を口にしたことを少しだけ申し訳なく思った。
……化け物みたいなので。
"だから"、外れない眼帯を着けたい、と。
相手を納得させるための言い訳でしかない言葉を相手に投げた。
基本的に学校の服装は自由だし、装飾だって奇抜な奴らはいる。
ただそれも校則で認められているというよりは、
本人たちが本人の責任でやってることだと思っている。
全員がそうではないかもしれないけど。
更に言うなら、俺の右目と同じような目の色を、
しかも両目に宿しているような生徒だっているだろう。
それら全てに特例を施すことが出来ない以上、
常識か非常識かはある程度生徒の良識や裁量が含まれる。
だから恐らく、俺の眼帯も大人しくしていれば何も言われない確率は高い。
だが、万が一。
その眼帯、元の医療用の物に戻せと言われたとき。
笑って分かりましたというわけにはいかない理由がある。
何かの拍子に外れるかもしれない眼帯を着け、
見られれば息を飲むような右目を抱えて送る学園生活が、
それほど明るいものになるとは思えない。
悲鳴上げられるって小さくても結構きついしな。
それに、少なくとも風凪マナカには絶対見せたくないという思いもある。
ここで筋を通しておきたいと思う不器用な自分が居て。
通る筋があるようなら、通したいと思う頑固な自分が居るのも確かだった。
拘束帯を着けての生活が妥当な程度には、俺の右目が病んでいることを、
しっかりと認めて貰いたくもあったから。
なんとなく、この右目から逃げたくなかったという抽象的な決意がそこにあった。
まあ、こんな右目、見ないでおけるならその方がいいだろうとも思うしな。
"異常"は見ればきっと触れたくなるだろう。触れざるを得ないだろう。
大丈夫かと、痛くはないのかと、その目は見えるのかと、医者には診せているのかと。
同情すべきかどうかを、"いいやつ"であればあるほど、気にするようになるだろう。
それは「医療かファッションか曖昧な拘束具」で隠しておけば、
多分触れてほしくないんだろうなと察してもくれるかもしれない。
だったら、格好いいと思ってちょっとお洒落な眼帯つけた眼帯着け男だと思われる方がマシだ。
この右目の状態や外観は、普通の人間が背負っていくには少しばかり重い荷物だから。
ましてや、"その原因の一端"が"自分であること"を他人に説明する必要があるなんて状況が、
――今後面白いことになるわけがないんだから。
教師は長く長く迷った末。
俺の眼帯を正式に医療器具として認める方向で進めていくと約束してくれた。
ありがたい反面。
俺の右目の見た目が持つ痛々しさなどの説得力は、相当な物なのだという証拠でもあった。
真紅の眼帯よりも、見苦しい物が、その眼帯の下にはある。
☆ ★ ☆ ★ ☆
……まあ。
目立つわな。
教室への帰り道、すれ違うやつらが、奇異の目で見てくる。
真っ赤な眼帯をこれ見よがしに着けはじめた男子生徒を見る目だ。
見せもんじゃねーし、
ファッションとして失敗もしてねーし、
夏休み中に何かあったわけでもねえ。
夏頃に高校デビュー飾ろうとして失敗しちゃったやつみたいな目で見てくるのはやめろ。
特に女子。
教室に戻ると早速イジられた。
一応若宮線引は、中学では結構ワルだったし、今でも目つきは悪いと思うし、
タッパだって小さくはねーんだが、そんなにイジりやすいか? あ"?
適当に闇の力が暴走しないように二重三重に封印を施したと嘯くと、結構な笑いになった。
結構な笑いにはなったが、そいつらは笑いつつも、
その眼帯の下がどうなっているかを聞いてこない当たり、心得てる友人達だなとは思う。
元々この眼帯になる前から医療用の眼帯は着けていたし、
何らか患っているんだろうなという気使いは最初からあったらしい。
他人の古傷を暴くには深すぎて、浅すぎる関係が今はありがたくもあった。
その距離感が恐らく今現在、若宮線引が自分に許している、他人との最短距離である。
ただ、そのあとの授業で寝てる最中に眼帯の上にセロテープ貼って油性ペンで魔法陣描いたやつだけは、
未だに名乗り出てないため、誰の仕業か分かってないが、分かり次第この世から抹殺する。
家に帰るまでそのイタズラに気が付かなかった、この俺の手で。
眼帯を変えた一日は、特段の変化もなく過ぎていく。
人々は他人にそんなに興味はないものなんだろう。
まあこいつの眼帯そんな深堀しても面白エピソードはないなと判断した頭のいいやつらは、
早々に俺の変化をイジることはしなくなった。
別にイジるなとも、触れるなとも言ってないはずだが、
自然と俺の目立つ拘束帯は受け入れられていくことになる。
……なんつーか、俺のこと良く理解してるやつほど早く切り上げたので、
俺の触れてほしくないオーラはそんなにつえーのか? と逆に不安にもなった。
まあ、分かりやすいことは否定しないので、そこにあるものが好意だと勘違いすることにした。
そんなこんなで授業も終わり。
放課後、カバンを手に取り帰ろうとしたとき、
女子数名が教室の後ろの方で固まってしている話が偶然耳に入ってきた。
珍しい話題というか。
ここ最近、どこかしらから聞こえてくる話題ではある。
紛れ込んだ異物の噂。
否定の世界、アンジニティと呼ばれるモノの存在と、侵略戦争の話。
起こるかもしれない『ワールドスワップ』の話。
……聞き耳を立てたわけではないが、結果的に聞き耳は立った。
「怖いよね」「許せない」「身を守らないと」
断片的に聞こえてくる排除の意思を背中に受けていたが
なぜか居心地の悪さを覚えて、教室を出た。
ああ、なるほど、と。
その時も思った。
よりにもよって、自意識過剰だけれど。
自分もそうであると、暗に言われているような気分になったのか。俺は。
眼帯の下で、右目が疼く。
異物感が、少しだけ強まったような気がした。
先生が息を飲むほどの"異形"。
自分で化け物かよと思ってしまう程の"醜悪"。
世間的に鼻を摘ままれる"立場"。
平穏な日常の中で、飲み込みがたい異物は受け入れられるはずがない。
いつの間にか紛れ込んだ、当たり前を脅かす存在からは身を守るしかない。
排除するしかない。
分かり切っていたことだけれど。
外れない眼帯をしてまで、隠そうとしたことだけれど
その時初めて、心のどこかで。
今に至っても"普通の人"にとって、まさしく"異物"である自分が
誰かに受け入れられるかもしれないと思っていたことに気づき。
少しだけ、心が軋む音がした。
大きく息を吸い、吐いた。
考えすぎだと思った。
……考えても仕方ねえ。
何もかもがもう"起こった後の話"で"今更どうしようもないこと"なのだとしたら、
"じゃあその中でどうするか"だけが大事で、"そうすることしかできない"のが若宮線引だ。
くよくよと、考えていることで何かが解決して前進するならいくらでもやるが、
結局のところまだ選択肢は自分の手の中にある。
若宮線引は、最初から。
いや、自分が社会の"異物"であると気づいてしまったその日から。
そこに線を引くべきだということは、ちゃんと納得できている。
心の中で、改めて線が引かれる。
それは目に見えない線であり、だが昔から確かに存在している線だ。
驚くほどに簡単に引かれたその線を、つま先が超えないようにしながら、
俺はその話題を脳の端の方に追いやった。
出自が何であれ。思考がどうあれ。
自分が若宮線引であることは、誰にも変えられないのだ。
☆ ★ ☆ ★ ☆
帰り道。
不本意ながら、夏休み中にした「とある賭け」に負けたので、
今日は風凪マナカにクレープを奢ることになっている。
まあ、約束をしていたので新眼帯お披露目日と被ることは仕方のない日付だった。
どこかで落ち合うのも面倒くさいと思っていたので現地集合にしたが、
風凪のほうが先に来ていたようで、パラソルの下の椅子で一人待つ風凪に、
俺は軽く手を振って到着を教える。
気づいたようでこちらを向いた風凪は。
俺の顔に着けられている、クラスメイト誰もがイジってきた、
真っ赤な真っ赤な眼帯を見て少し眉根を寄せた後。
「センパイ――」
小さく息を吸い。
「……やっぱりたこ焼きな気分です、今日」
と言った。
…………。
まさかとは思うが。
……人間、本当にだせえと思うと、
流石の風凪マナカですらそれをからかう気が起きないものなんだろうかと。
え、そんなにやべーのか……? これ……?
俺はちょっとだけ真剣に、不安になった。