
命をとうに失った魚の眼をした少女は膝を抱えていた。身を寄せ合う『仲間』も一様にして蹲り、時折すすり泣く声が聞こえる。
その度に鉄格子を激しく殴打する音がする。余計な音を立てたら次は直に引っぱたく。そんな苛立ちを含めて。
隙間風からはゴミの匂いとぎらぎらと目に悪いネオンが空から降り注いでいるのが分かる。傍に道路があるのか、車のライトが通り過ぎると共に流行のメタルが車から漏れて流れて行った。
環境は子供にも分かる程劣悪なもので、満足な食事も得られていない状況では栄養失調か最悪餓死することは明白だった。
気付いた時にはここにいた。戦災孤児の中でも特に身分の低いアンダーの人間が収容される施設だ。
戦争に勝てたら楽が出来ると言い聞かされて、爆音が子守唄替わりになって久しい。
父親は戦争に行って帰って来ず、母親は軍務の為に収容施設で働いていたが、施設内の暴動に巻き込まれて死んだらしい。
それを知ったのも後々の事で、身寄りのない少女は実験体にされるか慰み者にされるかの裁定を待つばかりだった。
ガチャン、と錠が開く音がする。さび付いた鉄格子が耳障りな音を立ててゆっくりと開かれる。
白衣を着た男が入って来た。となれば察することは容易だ。今日は実験の日だ。
かつかつと歩みを進めながら所定の位置にいた少女の前に立つ。シルバーの髪をした薄汚れたボブヘアの髪が揺れる。赤色の瞳がじっと男を見上げる。
「さあおいで」
手を差し出されて一度間を空けた後、少女はその手を取ってよたついたものの、ぶたれると思いすぐに背筋を伸ばして歩く。
うつむいたままで白衣の男の顔は見えない。手を握る力に苛立ちを含んだ様子もないことから、或いは何とも思っていないのかもしれないと子供心に思った。
ぴしゃりと鉄格子が再度閉められるのを後ろ目で確認する。身売りされた子も実験体になった子も、この牢獄から抜けた後は帰って来た事はない。
幸せな事態になっているのか今より劣悪な状態になるのか、はたまた死ぬのかすらも分からない。鉄格子の中の子供は既に何の感慨も得ることはなく、一瞥もくれずに膝を抱えていた。
手を引っ張る男の手。それに倣うように急ぎ足で少女は付いていく。すれ違う黒服の兵士達はスモークとフラッシュ対策用のグラススコープと携行用のアサルトライフルを手に持っていて、物々しい雰囲気により一層身が縮こまる。
「君は実に運が良い。最新鋭の『ミュータント候補生』として選ばれた」
身を固くしたことが引き金になったのか、あの牢獄から出たことがフラグになったのか。再生ボタンを押したテープのように言い慣れた口振りで語り始める。
「実験が成功すれば外に出られる。硝煙漂う戦地へと向かうことになるだろうがね」
いわゆる少年兵。より苛烈な場所では子供が銃を取るのも当たり前というのはよくある話だった。
過去、地雷探査の為に子供を歩かせて安全確認をしていたこともあるものの、今では科学技術の発展によりより安価で扱いやすいツールを使って地雷原に投入させるのも珍しくはない。
つまり実情は何も変わらない。ナイフが銃に変わったのと同じようにアクションが異なるだけでやることは何も変わっていないのだ。
もとより覚悟は決まっていた。実験とやらが失敗して死ぬのならそれでも良し。実験が成功して戦場に突き飛ばされて死ぬならそれも良し。
究極的に死が訪れるのが早いか否かだけなのだ。
しかし現実として死が招かれたとして、今こうして歩いた先で死んだらどうなるというのか。次に目覚める時が無いとすれば、何を想えば良いのだろうか。
少女には浮かばせられる走馬燈など何もなかった。父と母の思い出は極わずかで、得られた経験はこれっぽっちもない。文字の読み書きすら十分でない己には何もないのだ。
これまでも人生について立返っても少女には幾許かの欠片しかないと立ち返って、少女は瞑目しながら白衣の男に連れられる。
隔離病棟よりも劣悪な地下階層から登って行くと、白色のメディカルルームらしき場所にたどり着く。男は一度奥の方へと連れ出そうとしたところで、端っこにずれた通路を指さして連れて行く。
「一度体を綺麗にしておかないといけない。その薄汚れた体では雑菌で施術室が汚れてしまう」
あれほど衛生面は丁寧に扱えと言うのに。そうごちた男の言葉に理解を示す暇もなく、使用されていない旨が掛かれた青色の札のある個室用のバスルームへと入った。
大きな化粧台とロッカー、その奥には脱衣所と個室のバスルームがある。所狭しと近代的な様相を見せる室内の環境に少女はどぎまぎと目を見張る。
「洗っておきなさい。必要なら女性の看護師を一人呼ぶ。終わったら作務衣に着替えておきなさい」
脱衣所に備えてあった布一枚だけの簡易的な衣服がパッキングされた袋を取り出し、大き目のタオルを少女に見せびらかす。男は少女にそれらを押し付けるように差し出すと、背を向けて通信端末で何やら通話をし始めた。
難しい話も具体的な話も分からない。実験に向けた被験体のコンディションだとか、用事を済ませたら施術室に向かうとか、そういう言葉を返していたと思う。
この命に猶予を与えられているのだと判断して、少女はボロボロになった身の着を脱ぎ捨ててバスルームへと入った。
せめてこの命が尽きる前に、体は綺麗でいた方が良いに違いない。
水滴がフローリングを叩く音が響いている。鉄錆びたにおいがする。
真っ暗にした空間では胡乱なぼやけた視界も判別が付きづらくなって嗅覚と聴覚をより鋭敏なものにする。
肌に触れる空気は完全に冷え切っていて。冷蔵庫の中にでもいるような気分だった。体育座りをするような体勢で横向きで眠っていた体は酷く硬く、きちきちと音を立てる。割れ物を扱うように慎重に足を延ばすと、すぐに足を延ばせる限界に到達した。
膝と首に負荷をかけて眠っていたからか、該当箇所が少し痛む。
衣類は元々着ていたものがそのまま着ていた。武器装備に関しても基本的な装備品に然程の差異はない。
どれくらい眠っていたのか。早く起きないといけない。身じろぎして手を上に伸ばすと固い感触が指を突く。ぐっと力を籠めるとほんのりと持ち上がる。
足を延ばして上蓋を開けると、バスタブの中で眠っていたことに気付く。
全面白色のタイルで、今自分はバスタブから出てきた。身体はひどく痛むが大した問題ではない。
耳元に付けてあった通信端末のチャンネルをセットする。
「……『ライオン』にアクセス。状況を報告しろ」
常に連携して外を巡回しているはずのクワッドコプターへとアクセスを行う。科学技術により獲得した人工異能《マルチクライアント》により電波を飛ばさず即座に情報の送受信が可能となる力を使い、現状を把握する。
送信機の通達を受けたライオンは物陰に隠れるようにして着陸し、これまで獲得した情報を羅列しながら解析結果を提示する。
『――潜入開始から2170日が経過しました。おはようございます。シルバーキャット』
それは機械と言うには少々明瞭な音声だった。通りの良いバリトンボイスが耳に残り、機械は解析結果を提示する。
『現在ワールドスワップの影響によりハザマへと正常に転移し、当傭兵シルバーキャットにおかれましてはこのマスゲームの参加者となりました。
『シェルター』発ブレーン・トルーパー社からの依頼はイバラシティと呼ばれる世界に対して侵略行為を行うアンジニティの調査です
既にイバラシティへの潜入は成功しており、現在10年、内イバラシティ潜入時の記憶5年分をアーカイブしつつあなたに『ならして』います。この記憶は必要に合わせてダウンロードし、転送します』
コードネーム・シルバーキャット。
此度のイバラシティ侵略の報を受けて派遣された、市街戦に特化した傭兵である。
受注時の年齢は15歳、現在は丁度20歳。性別は女性。人体実験により視神経と処理速度を引き上げられ、人工的に作られた科学異能をその身に宿した改造人間の偵察兵。胸元のドッグタグには自分の所属する傭兵派遣会社『ブレーン・トルーパー社』のロゴと認証用のアイコンが浮かび上がっている。
5年間をイバラシティで過ごし、ついにワールドスワップの発動とアンジニティの侵略をその身で体験し、ハザマへとダイブすることに成功したことを理解した。
まずは情報収集がてら散策しつつ、アーカイブ化された記憶を徐々に落として行きながら、機械が続けて言葉を紡いでいく。
「アンジニティの調査に置いてハザマでの散策は必要不可欠且つ最適なものと判断します。即時の迅速な行動を推奨します。
なおシルバーキャットの初期の出発地点はチナミ区からとなります。イバラシティ全体を盤上として扱ったものとして推測し、現在マップデータの解析をしています』
「……引き続き調査を続行しろ」
やや乱雑に通信を切ってから深く息を吐き出す。ようやくバスルームから這い出て軽く伸びをする。
曇りガラスの向こうは1Kほどの小さな部屋だった。自分が借りていたツクナミのマンションとは程遠いほど狭く雑多な作りになっている。
イバラシティに潜入した時に必要な武器等はここに集めるようにしていたのだろう。イバラシティに潜入して以降の記憶はあやふやだが、直近の記憶として覚えているのはそれくらいだった。
拳銃、無人ドローン、各種手榴弾、スコープ、サイト、通信端末。必要な物資はすべて揃っている。
「こちらシルバーキャット。本部に通達。ハザマとのリンクを開始した。これより作戦を開始する」
通信機のひとつを取り、ワールドスワップの影響外にある自分の世界――自分の国――自社の人間への独自回線を開通する。応答はない。
ここが異能で作られた特殊な環境だからなのか、音源は向こうにだけ通じているのか、こちらへは届かないのかは不明である。
早くも出鼻を挫かれ、やおら溜息を付く。それでも欠かさず連絡をしていれば届く可能性はある。
「……こちらシルバーキャット、通信回線が不安定の為独自的に行動を取る。また連絡をする」
めげてもいられない。次の行動を開始しなければならない。
外に配置してある監視カメラをハッキングして偵察する。この周囲に敵影はないらしい。
異能を駆使してドローンをすべて稼働させ、武器と最小限の装備品を除いてすべてドローンに運ばせる。レンズが赤色に輝き、静止動作に入りながら待機している。ドローン全てに動作に支障が無いと判断してから長年この場所を守って来た部屋を一瞥すると、リビングを通って窓を開ける。
外に出た瞬間、肌寒い気候と太陽の眩しさに眼をやられる。ワールドスワップの影響で再構築されたこの体は今まで浴びてきた太陽の光を受けても平気なのかと今更ながら思う。バスルーム中で寝ていた彼女にとっては最低でも数時間振りの太陽のハズで、ここにきてから一日目と相違ない。
外気を遮断してくれた壁はなく、一気に全身の鳥肌が立つ。何も物資を運んでいない小型ドローンを先行させ、何も危険が無いと分かってから移動を開始する。
崩れかけた外壁を勢いよく跳躍して道路へと出ていく。ドローンたちは陣形を組みながらカメラアイで警戒しつつ周囲を見渡す。ふと自分の出てきた建物から距離を取り、改めてカメラと肉眼で周囲を確認する。
家は傾いており、トタン屋根と薄い壁に覆われただけの安アパート。ゴミ収集車すらこない区域の外れも外れなのか、廃品や廃材が適当に抛られていて、所々ブチ撒けられていた。
上空高くにドローンを待機させつつ光学迷彩で空の色に溶け込ませる。
再度、武器を確認する。通信感度を確認する。敵影は未だ見つからない。上空にいるドローンは彼女の指示で散会を始めると共に、本格的な任務の開始を告げる。
「シルバーキャット。これより作戦を開始する」